辻田真佐憲

神武天皇「聖蹟」は真夏の逃げ水 辻田真佐憲「〈視聴覚〉のニッポン考」

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 広島県東端の沼隈半島は、瀬戸内海の要衝・鞆の浦で古代より名高いけれども、同時に神武天皇「聖蹟」の宝庫でもある。

 その北に位置する福山市田尻町の武ノ宮八幡宮は、やはり吉備高嶋宮の旧址、つまり神武天皇の行宮跡を主張している。

(1)武ノ宮八幡宮の参道。

武ノ宮八幡宮の参道

 鳥居をくぐって急峻な参道の前に立つと、まず相好を崩さざるをえない。その左右に、「皇威万国輝」「神武八荒服」と彫られた、鼻息の荒い石柱がそそり立っているからである。日清戦争と日露戦争の間の時期に建てられたという。

 境内にも、同じく趣きのある記念碑が立っている。その名も「大元帥陛下万歳陸海軍大勝利」。末社の護国神社前にあるものだが、「北清凱旋記念碑」「征露役記念碑」などに混じって、このぎっしり文字を詰め込んだ代物はひときわ目を引く。まるで当時の興奮をそのまま閉じ込めたかのようだ。

 とはいえ、神武天皇との関係では、むしろ境外にこそ目を向けなければならない。

 参道近くの小川のほとりに、棒状の石が地面から突き出しているところがある。そしてすぐ隣には、「御船入り纜石」「伝説 神武天皇御東遷纜石」と記された碑。なるほど、これが神武天皇の船を繋ぎ止めた石というわけである。

(2)「御船入り纜石」とその碑。

「御船入り纜石」とその碑

 ただし、その碑には「史跡 水野勝成お召船大転輪丸纜石」とも記されている。いうまでもなく、水野勝成は福山藩の初代藩主であり、大転輪丸はその命で作られた巨船だ。

 なんとも味わい深い。このように欲張ったせいで、神武天皇云々がますます雲を掴むような話になってしまった。しかも水野は「史跡」だが、神武天皇は「伝説」。これほど両者の区別をはっきり示すものもない。

 ほかの「聖蹟」はどうだろう。

 武ノ宮八幡宮から沼隈半島の海沿いを時計回りに進んでいく。観光客でごった返す鞆の浦を経て、やがて車は南西の田島に到着した。

 ちなみに鞆の浦では、地元名産の保命酒を試してみた。左党の明治天皇は、日本酒、ワイン、シャンパン、ベルモット、霰酒と並び、この保命酒を好んだ。みりんに薬草を加えたものだが、意外とあっさりしていて飲みやすい。同じ天皇でも、こちらのほうに遥かに親近感を覚える。

 それはともかく、田島はその名のとおりかつて離島であったが、現在では内海大橋により本州と結ばれている。砂浜が観光資源というけれども、それには目もくれず、一目散に神武天皇「聖蹟」である皇森神社に向かう。

 皇森神社は王太子宮とも呼ばれ、地元では古くから「王太子さん」として親しまれてきたという。鳥居をくぐると、10メートルはあろうか、大きな記念碑がそびえ立っていた。穏やかな田舎町とのギャップに、しばし圧倒される。

「吉備高島宮趾」。神武天皇がこの地に滞在して2600年を記念して、1935年に、高島史蹟顕彰賛助会によって建てられたものである。皇紀2600年に5年先行しているところに当時の意気込みが感じられる。

(3)皇森神社境内の「吉備高島宮趾」碑。

皇森神社境内の「吉備高島宮趾」碑

 それなのに、1940年の文部省調査では「其の[高嶋宮であるという]根拠は明瞭でなく、又此の島を高嶋と称した価値ある徴証もない」として、本家「聖蹟」の地位を岡山市の高島に取られてしまった。地元の無念たるや、いかばかりだっただろうか。

 それがいまでは、こちらのほうが遥かに訪ねやすい高嶋宮旧址となっている。そして管理も行き届いている。なんとも皮肉な話だった。

(4)椋の巨木。かつて皇森神社境内には、松や榎の高木が立ち並んでいたという。

椋の巨木。かつて皇森神社境内には、松や榎の高木が立ち並んでいたという

 最後に、沼隈半島北西に向かう。この一角は、福山市ではなく尾道市に属している。そして同市浦崎町の高山中腹に位置する王太子神社は、地元の伝承にすぎないけれども、やはり神武天皇ゆかりの地とされている。

 ところが、ここは飛び抜けて環境が悪かった。まずたどり着くのがむずかしい。道が定かでなく、グーグルマップに従って東側から近づくと、山間の住宅地に出てしまった。こちらを不審そうに見る住民の目が痛い。

 そこで航空写真に切り替えると、北の方角に道らしきものがあった。ただちに山を下り、海沿いに出て、ふたたび別のルートから山を登る。すると、崩れかかった竹林の間に、参道らしきものが見つかった。これが入り口だった。

 案の定、参道は酷い有り様だった。雨で土砂が流され、ところどころ石段が崩れている。そのうえ、まったく片付けられない落ち葉が、その場で分解されて粉のようになり、石段の上に積もっている。これでは、ただでさえ悪い足場が滑って仕方がない。

(5)王太子神社の崩れかかった参道。

王太子神社の崩れかかった参道

 はっきりいって危険である。おまけに、本殿までの距離がかなり長い。軽い山登りだ。恐る恐る、しかし、ある程度テンポよく、参道を進まなければならない。やっとの思いで本殿前に着いたころには、息も絶え絶えになっていた。

 ここは記念碑の状態も劣悪だった。「皇紀二千六百一年」と記された碑は、横に倒れたまま無残に放置されていた。

 そのいっぽうで、「○○記念」と刻まれた石柱の「○○」の部分が削り取られていた。おそらくアジア太平洋戦争の敗戦後に、加工したものだろう。どんなことが刻まれていたのか、興味をそそられる。

(6)王太子神社正殿。右下に「紀元二千六百一年」。 (1)

王太子神社正殿。右下に「紀元二千六百一年」とある

 それにしてもこの王太子神社は、あまりに地勢がよくない。これでは行宮を営むのも困難だろう。もちろん、時間の経過は考慮されなければならないが、石や岩ならばともかく、山容がそう簡単に改まるとは考えにくい。

 このように高嶋宮旧址は、巡れば巡るほど、その実在性が疑わしくなってくる。ここならばと思う場所も、かつて否と切り捨てられていた。それはまるで、近づけば近づくだけ遠ざかっていく、真夏の逃げ水のようであった。

(連載第3回)
★第4回を読む。

■辻田真佐憲(つじた・まさのり/Masanori TSUJITA)
1984年、大阪府生まれ。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)などがある。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)など多数。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。


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