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会田誠×高山羽根子「私たちの美大受験のころ」

高校生の高山羽根子さんはレントゲン藝術研究所でデビュー間もない会田誠さんと遭遇していた? 美大の絵画学科出身の新芥川賞作家と天才美術家が、ジャンルを超えて、お互いの“修業時代”を語り合った必読の異色対談。(構成・鍵和田啓介)

出逢いはレントゲン

高山 私は20歳くらいの頃に多摩美術大学に入ったのですが、美大に入ろうと考えたきっかけとして、レントゲン藝術研究所の展示を見たというのが大きいんです。高校生のまだ頭がグニョグニョと柔らかい時に見て、すごいショックを受けました。

会田 なるほどー。

高山 高校の時は美術部でもなく、作品としての絵もまったく描いてなかったんです。けれど、そこで現代美術を見てしまった。会田さんの作品で最初に見たのは女性像だと思うんですけど、レントゲンでの展示も見ています。ああいうところで制服を着ていると目立つので、放課後にどこかで私服に着替えたりして。なので、こんなお話してるのが何かの冗談みたいだなって思っちゃう(笑)。

会田 光栄です。僕は実は高山さんの小説はまだ二冊しか読めていないんですが、それ以外にインタビューや、あとTwitterなども探偵のように読んできました。Twitterには、10代で瀧口修造から美術に興味を持ち、ナム・ジュン・パイクや三上晴子、パナマレンコなんかを見ていたと書いていましたよね。

「ああ、そうなのか」と思ったのは、こちらの勝手な想像なのかもしれないけれど、高山さんの小説には、何となく美術の香りがするところがあると感じていたからです。『如何様』(イカサマ)には画家が出てくるからもちろんだけれど、僕はむしろ『首里の馬』のほうに何か美術、それもちょっと現代美術のような香りを感じました。なるほど、あの頃のレントゲンに行かれていたんですか。

高山 SF作家としてデビューしているんですけど、そういうこともあって、他の小説家の方とは文学までのルートが全然違うんです。『げいさい』も、そういう経験を踏まえて読みました。最初に連載で読んだ時に、一見すごいストレートな青春群像劇なんだけど、批評的な要素がいっぱい入っているなと思ったんです。青春群像劇という分かりやすい物語のかたちを採ったからこそ、引っ張り出せるものが多いというか。ただ批評の部分だけを書いたら、きっと小説が不安定になってしまうところ、地方から来た男の子から見た東京育ちの人たちの感じ、様々な女の子たちや先生、いけ好かない評論家もそうですけど、彼らが出てくることによって、引き出し線がたくさん見えてくるんですよね。参照、参照、参照、みたいな。

もちろん、自分が美術の世界を通ってきたからよく分かるというのも大きいですが、10代の時にあこがれて見ていた、ちょうどその真ん中に居たような人たちの葛藤が、全部太い幹の中に刻まれている。こういった要素は、書いているうちに自然と引っ張り出されてきたんですか?

会田 いや、違いますね。大体の見取り図を作ってから書いたので。だから、書くべきものは最初からかなりはっきりしていて、ただ書く技術がないから、どう書いたらいいか分からなくて、やたら時間がかかってしまいました。

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会田さん(右)と高山さん(左)

現代美術的なたたずまい

会田 僕には美大の日本画に固定イメージがあるので、日本画からSF経由で小説を書くようになる方がいるというのが少し不思議な気がするんです。これが油とかデザインからならば分かるんだけど。けれど、少し前のインタビューで、高山さんが高校で進路を考える時に、日本画出身の村上隆さんとかが活動していて、面白そうだなと思って選んだと言っていましたよね。だから、僕らの時代の昔ながらの日本画の選び方とは、そもそも違ったのでしょうね。

高山 もちろん、大学に入るといやおうなしに昔ながらの日本画を浴びることにはなりました。ちょうど当時の多摩美の学長が辻惟雄さんで、若冲とかが逆輸入みたいなかたちで認められて流行ってきた時期だったので。そうは言っても美術の中心とは言えない日本画を学ぶのは楽しそうだと思っていた気はします。

会田 僕は高山さんより十年古いせいか、高校時代の進路の選択肢として、日本画をほとんど一秒も考えたことがなくて。

高山 その時代はそうでしょうね……と言うのもなんですけど(笑)。

会田 それは要するに、当時見ていたものが、新潟県の県展の日本画とかだけだったということなんです。ザラザラしたタッチの平山郁夫のフォロワーばかりというか。それで「そんな感じしかないんだな。じゃあ違うな」と簡単にスルーしちゃった。油に入ってからわりとすぐに「あれっ、違った。日本画のほうが面白そうだった」と気づくのですが。

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高山 そうだったんですか。

会田 藝大の油画科に所属している時代から、なんちゃって日本画みたいなものを描き始めているんです。一番最初に描いたのが、足を切断された少女を描いた『犬』。

ところで、高山さんは『如何様』や「蝦蟇雨」で、文体というか、語彙というか、いろいろ時代設定に合わせていますよね。当たり前かもしれませんが。『如何様』にも、古めかしい言い方が多い。昔ながらの知的な日本文学の格調高い感じなんだけど、話はちょっと妙で狂ったようでもある。

高山 けったいな話なのでちゃんと書かないとというか、日本画もそうなんですけど、おかしい内容にするなら、かたちはきちんとしようという思いは、短編だと特にあります。

会田 これもTwitterで見て印象的だったんですけど、『首里の馬』の構想のために作った、見開きのクロッキー帳をあげてましたよね。ポストイットを貼ったり、メモや図が描いてあるような。あれは書き始めるときに作るんですかね。

高山 そうですね。思いついたシチュエーションとかを、まずはああいうものにメモすることが多いです。それで「これじゃないな」と思えばポストイットを貼り替えたり。ドラマで殺人鬼が写真とかを壁に貼ったり、捜査官が糸や矢印で整理する時に使う表みたいなのがあるじゃないですか。

会田 『羊たちの沈黙』みたいな。

高山 そう。ああいう感じで貼っていくんです。写真の時もあれば、雑誌の切り抜きの時もあるし、地図をプリントアウトしてきた時もあります。それで、貼り替えたり、その上にトレーシングペーパーを重ねて貼ってまた書き込んだりしながら、「一方その頃」みたいな構成を考え進めたりするんです。それを最終的に文章に落とし込む。たぶん、瀧口修造さんが残したアイデアスケッチなんかの影響だと思います。美術作家は皆さんそういうものを持っていますよね。レシートの切れ端を貼って詩を書いたり。そういうのにかぶれて始めたのかもしれません(笑)。

会田 まずは、あれがスケッチブックだというのが、やっぱり美術出身という感じがしたんです。『首里の馬』を読んでからTwitterであの写真を見たわけだけれど、「こういう感じで組み立てると、ああいう小説が書けるのか」と納得しました。他の小説家がどういうメモを作るかは分からないけれども、僕の周りの美術家の作り方に何か似ているというか、共通項があるような気がして。特に現代美術で、リサーチをしたりしたうえで、最終的には映像作品に落とし込むようなタイプで、例えば沖縄の山城知佳子さんはご存知ですか?

高山 はい。

会田 あとは、去年のあいちトリエンナーレで見た、ホー・ツーニェンの「旅館アポリア」という作品とか。

高山 古い旅館を撮った映像作品ですよね。

会田 あれは小津安二郎の映画を使っていましたが、過去の歴史を調べて、コラージュのようにして再構成していくその手法と、共通するような気がしたんですよ。複数の映像を同時に見せるビデオ・インスタレーションとか、“ビエンナーレに呼ばれる”の映像の方によく見られる手法ですが。

高山 ああ、うれしいです。

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会田 広い紙に、要素を自由に動かしながら、重ねたり隣り合わせたりして、有機的に編集していく感じが、そうやって絵を描く人もいるだろうと思わせて、とにかく美術、それも現代美術的なたたずまいを感じたんですよね。

高山 多摩美に「もの派」的な先生が多かった影響もあるのかもしれません。

会田 日本画にもいましたか?

高山 さすがに日本画にはいなくて、座学の先生とかですね。私の時代には、そういった作品を撮る作家の方が映像論や映像表現論の授業を受け持っていたんです。だから、藝大とは雰囲気が違いそうですね。

会田 そう思います。少なくとも座学に関しては、多摩美のほうがユニークな先生が多かったような気がします。うちの妻も多摩美卒で、座学が面白かったというようなことは言っていました。

高山 制作と同じくらい座学も好きでした。予備校もそうなんですけど、年齢で言うと二十歳近くになっていたのもあり、「センスとか絵心は間に合ってますから、技術だけ教えてください」と生意気にも考えていた子どもだったなと、『げいさい』を読みながら思いいたりました。

会田 ちょっとキャリアがある年上の方も、予備校にはいたりしますからね。

高山 やっぱり油でもいましたか?

会田 予備校からしてそうだったし、藝大に行ってからもいましたね。年齢を重ねて性格が屈折したような方が(笑)。

高山 特に藝大の油だったら、多浪の方も多いでしょうからね。

私は大学で体連に入っていたんです。『げいさい』にグラウンドでバイクに乗って遊ぶ場面がありますが、私もバイクに乗るサークルでした。だから、読みながら「あ、あのレースやってる」と懐かしくなりました。私がいた頃の多摩美の芸祭では、バイクは外の会場でしたし、オールナイトではなくなってしまいましたが。

会田 バイクの話は人から聞いたものなんですよ。学生時代、武蔵美の芸祭には遊びに行ったけど、多摩美には行ったことないんです。

高山 「ねこや」というお酒の飲める模擬店が出てきますが、モデルの「とらや」にも行ってました。

美大受験の謎文化

高山 会田さんは高校まで新潟で過ごされましたが、美大受験って、現役の時は地方と中央だと大きく差がありますよね。単純に、教わる技術や情報量も全然違いますし。

会田 画材も30年ぐらい違いますからね。浪人時代、夕方になって予備校の授業が終わると入れ替わりに入ってくる、学生服を着たキャピキャピした東京の現役生たちの世界は僕には分からないんです。楽しそうだなと思いながら、「東京もんめ。ちくしょう」と憎しみの目で見ていた(笑)。

高山 田舎の学校の美術部や、地域に一軒だけある絵画教室で頑張ってきた高校生と、代ゼミや新美、お茶美に通っている高校生では、佇まいも全然違いましたよね。浪人したら、また変わるんですけど。地方から上京して、受験会場で教室を見回した時、周りの学生の絵を初めて見る時の衝撃が絶対にあるはずなんですよ。きちんと仕上げて、かつ個性的に見せるための何か約束事があるらしいことはわかるけど、それがなんなのか分からなくてうろたえる。それが本当の個性かどうかは、入学してみないと分からないことですけど。読みながら、「そうか、そうだったな」とすごく思いました。そんな中、田舎にいる二朗のお母様がとても聡明で素敵です。

会田 小説で出てくる母親が? そうでしたっけ。ただの農家のお母さんですよ。

高山 「お母さん、オマエの前の絵の方が好きだっちゃねえ」って言うじゃないですか。

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会田 賢いかどうかは措くとして、そこは確かにうちの母親をモデルにしています。うちの母親は、僕の絵に対して「心地よいのが一番」「中学とか高校の時の絵は気持ちがよかったのに」とよく言っていました。今やエログロとか言われている僕の活動などはもうあきらめていますけど、もっと手前でも、予備校で描いていた頃の絵を持って帰って見せるだけで、落胆してましたからね。

高山 予備校絵画は本当に特殊ですからね。日本画科でも、「それを絵に描いて額とかに飾ったりしたらおかしくない?」というモチーフを、延々と描かされました。アリアスという石膏像に透明のチューブがかかっていて、カーネーションの鉢植えがあって、チェックの布が敷いてあって……。

会田 僕の時代の油科のほうがもっとモチーフがひどかったと思います。日本画はそうは言っても、デッサンは鉛筆一本だし、透明水彩の着彩はきれいじゃないですか。小説にもちょっと書いたけど、油は画材はなんでもありで、キャンバスを焦がしてみたりとか。

高山 焦がすってすごいですよね(笑)。そんな技法があったとは。

会田 本当はもっといろいろあったんですが、しつこくなるかなと思って、焦がすぐらいにしておきました。くだらない思いつきで個性を作る、という風潮が花盛りの時代だったんですよね。その後、美大側が「これは歯止めをかけないとヤバい」ということで、試験問題を工夫したりして、少し素朴に戻そうとしたようですが。

高山 当時は、単純に倍率も高かったし、ある程度目立たないと受験に勝てないという危機感があったんでしょうね。競争が激しければ激しいほど、謎文化というか、謎しぐさが生まれるという。しかも、そういう特殊なことをしでかした人が合格したりすると、そのメソッドが定着してしまったりもする。私は年齢的にもある程度おとなでしたから、そういう謎文化から距離を取れましたけど。でも、受かりたかったら、すがってしまいますよね。

会田 話は変わりますが、高山さんの小説がすごく芸術品だなと思ったのは、何とも言えないモヤモヤした不思議な読後感が残るところです。ニュアンスのいっぱいある芸術品だなと思いました。それに比べて、僕の作品は政治的な運動のビラみたいな気がする。高山さんの小説を読んで、自分とは何なんだろうかと逆に悩んでしまって、ちょっと頭が混乱したままここに来ています。

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