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綾小路きみまろ 誌上独演会「コロナと毒舌」

東京五輪で芸能生活に一区切りつけようと思っていたが……。/文・綾小路きみまろ(漫談家)

きみまろ

綾小路きみまろさん

「夫婦の会話」

「お父さん、お父さん」
「なんだ?」
「世の中、横文字が多くてね、さっぱり分からないんだけど。パンデミックってなに?」
「パンデミック、パンデミックス、パンでミックス……ミックスサンドのことじゃないか」

私のレパートリーの一つに「夫婦の会話」というネタがありますが、なかでもこうした横文字シリーズが好評です。近頃の奥様方はテレビばかり見ていますから。朝から晩まで同じニュースをずっと見ているの。時々、分からない言葉が出てくると、ご主人に聞くしかないでしょう。

最近になってコロナバージョンが加わりました。

「お父さん、ロックダウン、ロックダウンって言ってるけど、どういう意味なの?」
「ロックダウンはおまえ、69(歳)でダウンすることじゃないか」

コロナの話題は避けられないし、どうしても暗くなりがちだから会話漫談で笑いに変えようと工夫しています。それに「きみまろはコロナになっても何も変わっていない、勉強していない」って思われるのも癪でしょ。だから1時間の漫談ライブの中に以前から時事ネタもちょっと入れるようにしていました。

「お父さん、デジカメってどんなカメ?」
「デジカメ? デジカメはおまえ、外来種だろ」
「TPPってなに?」
「トイレでピーピー言ってんだろう。70になった夫婦に、お前、TPPなんて関係ないよ。政府のトップの先生方がピーピー言ってるんだ。だからTPPなんだろ」

くだらない夫婦の会話を立て続けにやっていくんですが、ぜひ生のライブで味わってみてください。

コロナ禍のライブ

コロナ下のライブ

客席が遠くに感じた

「中高年のアイドル」と呼ばれて幾星霜、昨年、私は70歳、古希を迎えました。古希というと、歩くだけで膝が「コキコキ」と鳴りますし、寄る年波には勝てません。

実を申しますと、東京五輪の年に芸能活動に一区切りをつけることも考えていました。古希と東京五輪のセットがいい節目になるなと思いましてね。しばらくハワイなんかで悠々自適に暮らすのもいいな、なんて思っていました。ところが状況も予定もすっかり変わってしまった。

今でこそ笑いにしていますが、コロナが感染拡大し始めた当初、精神的に参ってしまいました。

2020年2月に宮古島で2日間にわたりライブを行いましたが、それを最後に、ほとんどのライブが延期・中止となりました。それまで年間約100本以上のライブに全国各地で出演してきましたが、半年以上ライブができなくなったのです。チケットを買っていただいたお客様はお待たせするし、ライブを手伝ってくれる音響や照明などの制作スタッフの仕事もなくなる。私だけの問題ではないので、本当に苦しかった。

9月頃からライブを再開しても、感染防止のため、お客様は1席おきにしか座れません。1000人キャパのホールに500人といった具合です。

さらに、チケットを買って会場に行こうとしたら、お子さんから「行くな」と止められるお客様もいるんですね。「会場で感染でもして孫にうつったらどうするの」って怒られているわけです。

再開後のライブはある種、異様な雰囲気ですよ。お客様全員がマスクはもちろん、最前列にはフェイスシールドを付けて着席しています。会場中がワ〜ッと爆笑する代わりに、最前列の年配の女性がマスクをして私をジっと見つめてくる。「大声を出さないで」と言われているから、皆さん本当に大人しい。マスク越しで遠慮がちに笑うから、笑い声が聞こえず、客席が遠く感じられるんですよね。

それまで3分あればお客さんを掴めましたが、どうしても10分以上かかってしまいます。どうやって笑いを取るか、すごく悩みましたね。

そこで、それまでの2倍くらいの力を出すように心がけています。今までもがむしゃらにやってきましたが、さらに必死にです。毎回汗だくになりながら、大きな声でガンガンと。一生懸命やれば必ず伝わると思って頑張っています。

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富士山麓で「農耕接触」

ライブを再開するまでの半年間、富士山の麓に籠っていました。農業に精を出していたんです。

実は、芸能界でブレイクする10年程前に、山梨県の富士河口湖町に家を建てていました。富士山を眺めながら畑を耕すスローライフを楽しもうと思っていたんですが、有難いことにメジャーデビューCDがきっかけでブレイクし、この20年はほとんど河口湖で過ごせませんでした。

「おまえもちょっとは休憩しろよ」と、コロナが言ってくれたのかな。

ライブがなくなった3月以降はちょうどいい機会だと思って、マイクと扇子を、鍬に持ち替えて畑仕事に専念することにしたんです。

朝から晩まで一心不乱に畑を耕しました。敷地250坪の農園にナス、かぼちゃ、オクラ、にがうり、トウモロコシ……大量に収穫しては、友達に配りました。マロウ、レモンバーベナーといったハーブも植えてハーブティを楽しみました。

今年も3月からずっと農作業を続けています。今年は、トマト、じゃがいも、モロッコインゲン、ズッキーニなどの野菜がたくさん採れました。濃厚接触ならぬ「農耕接触」ですよ。

毎日、農作業を続けていると、18歳までの少年時代、それから上京したばかりの頃を思い出しましてね。

私の故郷は鹿児島県曽於郡松山町(現・志布志市)で農家の長男です。父は農耕馬の種付師。種付けをこっそり覗いては親父に怒られていました。小学校でのあだ名はもちろん種馬でした(笑)。

トラクターの普及で農耕馬が不要になってからは馬喰ばくろう(牛や馬の仲介商人)などやっていましたね。父は畑も少し持っており、中学生の頃から農作業を手伝っていました。

父は私が後を継ぐものだと思っていたでしょうが、農家だけは嫌だった。中学生の頃にテレビが家にやってきて、熱中して見ていた番組が『ロッテ 歌のアルバム』(TBS系)。司会者の玉置宏さんに憧れ、「1週間のご無沙汰でした。玉置宏でございます」と熱心に物真似をしていました。

そして「俺は司会者、芸能人になる」と夢だけぶらさげて上京します。27時間かかる東京行きの夜行列車に乗り込む際、父から餞別として1万円をもらいました。

上京後は産経新聞の販売所に住み込みで働きながら拓殖大学に通いました。新聞配達をしているうちにある方と偶然出会い、キャバレーでのボーイを始めました。当時はキャバレー全盛期で、生演奏をバックに淡谷のり子さんなどのスターが唄っていた時代です。出演者を紹介する専属の司会者もおり、「これがやりたい」と勉強し続けていると、前任の司会者が病気で休むというチャンスが巡ってきて、大学在籍中に司会者デビューを果たすことができました。

しかし、そこからが長かった。漫談家としてブレイクするまで「潜伏期間」は実に30年ほど続きました。でもね、今になって思いますが、無駄な経験は一つもなかったんですよ。

富士山河口湖

富士山麓で「農耕接触」

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