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「河野家三代」の血脈 一郎、洋平に続き総理になり損ねた太郎 篠原文也

文・篠原文也 (政治解説者)

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篠原氏

政治記者として河野家と交流

河野太郎はあっけなく失速した。

「ポスト菅」を決める今回の自民党総裁選で「自民党を変え、政治を変える」とのスローガンで国民的人気を博し、「次期首相にふさわしい政治家」の世論調査では5割近い支持を集めていた。しかし、決選投票で岸田文雄に大差で敗れた。

祖父・一郎、父・洋平が果たせなかった河野家三代の“悲願”を、一身に背負ってきた太郎。彼もまた、その宿命に抗うことはできないのか――50年近くにわたり、政治記者として河野家と交流を続けてきた。太郎の総裁選出馬に当たり、河野家との思い出の一コマ一コマが走馬灯のごとく頭の中を駆けめぐった。太郎が子どもの頃「篠原のおじちゃん」「太郎ちゃん」と呼び合ったのを懐しみながら、私は河野家の血脈というものに思いを馳せる。

戦後日本は官僚が強力な権限を持ち、政界でも官僚派が幅をきかせてきた。そうした中、官僚派ではない「党人派」の政治家として異彩を放ってきたのが、一郎である。官僚派の政治家にはない豪快さと反骨精神があり、それゆえ大衆から愛され、同時に挫折も人一倍多く経験してきた。そのDNAは、洋平、そして太郎にも受け継がれている。

一郎、洋平の人生の荒波に比べれば、今回の太郎の挫折など、大したものではない。しかし、太郎が再起を期すためには、乗り越えなければならない大きな壁があることも確かである。今回、知られざるエピソードを交えながら河野家の物語を描くことで、戦後政治の一断面と、太郎の今後の課題を考えてみたい。

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河野太郎

反骨と度胸の祖父・一郎

太郎の祖父・一郎(1898年~1965年)は、数々の伝説に彩られた、個性の強い政治家だった。生家は神奈川県豊川村(現・小田原市)の豪農で、二宮尊徳とは縁続きの家柄だった。一郎の父・治平は豊川村長、郡議会議長、神奈川県議会議長を歴任した地元の有力者で、一郎は治平から二宮の教えを聞かされて育ったという。

長男の一郎は、治平の愛情を一身に浴びて育った。赤ん坊の一郎が寝ていると、治平は「こいつは将来、大物になるのだから」と、決して家人や来訪者に一郎の枕元を歩かせなかったという。治平から帝王学を叩き込まれた一郎は、度胸と反骨精神あふれる青年へと育ってゆく。

のちに代議士になってから一郎は日本経済新聞の「私の履歴書」(1957年)で、青年期の悪行を臆面もなく披露している。中学時代は陰険な人事を画策した教師へのストライキを主導して、1年停学のうえ落第。早稲田大学で競走部のマラソン選手になるが、卒業の年の運動会でインチキし、一人だけコースをショートカット。何食わぬ顔で1着になった。友人らに非難されても「賞品をもらったものが勝ちだ」とすましていた。

朝日新聞社の入社試験では、英語がちっとも分からず、「有為な青年を選抜するのにこんな試験をするのはおかしい」と猛然と批判。幕末の志士・雲井龍雄の「天門のせまきはかめより窄し」の詩を答案用紙いっぱいに書いて提出した。案の定、不合格となるも、最後は知り合いの代議士の口利きでコネ入社したという。

目的のためには手段を選ばない度胸、アクの強さ、なぜか憎めない愛嬌――そうした個性が同居していたのが、一郎であった。

一郎は記者として農政を担当したが、東北大凶作の年に「政治家になって農村を変えよう」と決意。1932年、神奈川3区から出馬し衆院初当選を果たす。33歳だった。

その選挙は熾烈を極めた。一郎自身「平和な選挙はやったことがない」と述懐しているが、とりわけ二・二六事件直前の1936年の2回目の選挙は過酷だった。一郎の官僚攻撃が影響してか、極端な弾圧を受け、一郎は投票直前に投獄されてしまう。弾圧の手は支援者にも及び、300人が官憲の取り調べを受け、拷問のすえに自殺者1人、未遂が2人も出ている。一郎自身、獄中で自分の当選を知った。戦後は1946年6月に公職追放となり、のちに再び投獄されている。

だが、そんなことで挫ける一郎ではなかった。5年にわたる追放生活の末に復党し、鳩山一郎政権立ち上げのために参謀として奔走する。次第に党人派の代表格として頭角を現し、農林大臣、建設大臣、副総理などを歴任。政界実力者としての階段を登り詰めていく。また北方領土や漁業権をめぐってソ連と交渉し、1956年の日ソ共同宣言にこぎつけるなど数々の功績をあげた。

一郎の政治スタイルは猪突猛進、大胆不敵で敵を多く作る面があった。一方で義理や人情を重んじ、国民から愛された。

私自身は一郎に直接会ったことはない。ただ、一郎の弟の謙三(太郎にとっては大叔父)とは懇意だった。謙三は兄が公職追放になった後、代わりに出馬して代議士となった。追放解除後は参院に回り、のちに参議院議長も務めた人物である。謙三は私に、一郎の興味深いエピソードをよく話してくれた。

一郎が建設大臣のころ、謙三の妻・園子が神奈川の道路事情について、一郎に苦言を呈したことがある。

「お兄さん、日本の建設大臣でしょ。神奈川の道路ばかり舗装して、ちょっと偏り過ぎじゃないの?」

すると一郎は「バカ言え」と笑い、得意げにこう語ったという。

「俺は神奈川出身の建設大臣だから、神奈川の道路を良くする。次に福井出身の建設大臣が出れば、福井の道路を良くする。皆がそれぞれ良くすれば、日本中の道路が良くなるじゃないか。これを拡大均衡というんだ」

一見、屁理屈ともとれるが、いかにも一郎らしい器の大きさと魅力が感じられる。

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祖父・河野一郎

児玉誉士夫が絵を持ち去る

一郎は人生で2度、総理の座を掴みかけたことがあった。

最初は1959年1月。自民党幹部が帝国ホテルで密会し、日米安保改定を目論む岸信介総理の後を、大野伴睦→河野一郎→佐藤栄作の順で引き継ぐことを約束し、念書までこしらえた。この順で行けば、数年後には総裁になれたはずだった。だが安保騒動後、岸はその約束を反故にし、同じ官僚派の池田勇人に総理の座を禅譲してしまう。

2回目は1964年。東京五輪閉会式の翌日、池田が喉頭がんのために首相辞任を表明した。このとき一郎は後継候補として名乗りをあげた。しかし、この時も池田の指名によって、総裁の座は官僚派の佐藤栄作に奪われた。政治評論家の戸川猪佐武は一郎の政治家人生を「闘争の連続でありすぎた。(中略)不屈で剛毅なその人間性が、河野に対する反発、反感をより多く招いた」と評する。その反骨ゆえ、一郎は国民に愛され、逆に政界で頂点を極めるには障害となったのだ。

金権政治に反旗を翻す

翌65年、一郎は大動脈瘤破裂のため帰らぬ人となる。死に際に「死んでたまるか」と叫んだと伝えられているが、いかにも一郎らしい反骨精神を窺わせる。

その臨終の枕元に、洋平がいた。父と同じ早稲田大学政治経済学部を卒業し、現在の丸紅に入社。入社3年目には、米国スタンフォード大に留学していた。洋平は、父を手術室に送るべきか否か迷いに迷った末、手術を選択したが、それに間に合わず一郎は息を引き取った。

一族が悲しみにくれる中、ある男が若い衆を連れて弔問にやってきた。右翼の大物として知られ、のちにロッキード事件で逮捕される児玉誉士夫である。児玉は生前の一郎と付き合いがあった。だが、児玉は洋平にこう言い放ったという。

「おい。その日本画だが、これはお前にやったんじゃなく、一郎にやったものだ。だから持って帰るぞ」

遺体が安置してある部屋には、高価な絵画がかけてあった。児玉の若い衆がそれを外すと、さっさと持って帰ったという。これは洋平にとって強烈な原体験となったようだ。

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児玉誉士夫

「俺はあんな人たちと付き合うような政治家にはなりたくない」

洋平は政界への転身を決意すると同時に、父を反面教師にする気持ちも芽生えた。それは今に至るまで、洋平の政治倫理を形作っている。

1967年の第31回衆議院総選挙で、洋平は父・一郎の地盤を継いで初出馬し、トップ当選を果たす。

私が洋平と初めて会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。田中角栄首相が金脈問題で退陣する少し前の74年春。入社4年目の駆け出し記者だった私は、謙三の自宅を訪ねた。敷地内の温室で、謙三は趣味の薔薇を栽培していた。それを眺めているところに、偶然、洋平が訪ねてきたのだ。当時37歳の洋平はすでに「若手のホープ」として、政界に名が轟いていた。礼儀正しく振る舞う洋平を見て、私は好印象を持ち、以来親しくなった。

当時の洋平は、一郎が率いた派閥・春秋会の流れを汲む中曽根派に所属していた。同時に派閥横断の「政治工学研究所」という若手グループを主宰し、自民党のプリンスとして将来を嘱望されるようになる。政工研には藤波孝生、渡部恒三、山口敏夫、西岡武夫、田川誠一、橋本龍太郎、羽田孜など錚々たるメンバーが名を連ね、「河野洋平を将来の総理に」という雰囲気が満ちていた。当時、山口敏夫は私にこう話していた。

「将来を期待されれば、相当のプレッシャーがかかる。しかし、洋平は押し潰されることもなく、むしろ跳ね返してしまうような強いエネルギーを持っている」

そんな洋平に、総裁擁立の話が持ち上がった。田中内閣の退陣後、後継総裁の選出は難航を極め、「総裁公選」か「話し合いによる選出」かをめぐって党内は二分した。すると政工研のメンバーを中心に「金権政治打破」を掲げ、洋平を総裁に担ぎ上げようとする動きが巻き起こった。党主流派の田中派を敵に回してもスジを通そうとする洋平は、まさに一郎譲りの反骨精神の持ち主と言えよう。

ただ、届け出を提出する目前で、洋平擁立の動きは潰されてしまう。最終的には副総裁・椎名悦三郎の裁定で、三木武夫内閣が誕生した。洋平にとっては大きな挫折だった。

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三木武夫

角栄は洋平に目をかけていた

翌75年、さらなる挫折が洋平を襲うことになる。この年、自民党結党20周年にあたり、党の政策綱領を見直す動きが持ち上がった。この時、洋平は党政綱等改正委員会の下で、たたき台をつくる幹事会座長を務めた。

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