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小説「観月 KANGETSU」#38 麻生幾

第38話
ストーカー(1)

★前回の話はこちら
※本連載は第38話です。最初から読む方はこちら。

「車を降りて、自宅へ向かった、その直後、あなたは私に襲いかかった。でも、知人が私を救ってくれて──」

 その時、頭の中に浮かんだことに七海は背筋が凍り付く思いとなった。

──もしかして、田辺は、救ってくれた熊坂を逆恨みし、そして自宅に押しかけて、たまたまそこにいた奥さんの久美さんを……。

「まったく身に覚えのないことだ!」

 気色ばんだ雰囲気で田辺は声をあげた。

「それだけじゃありません。その次の夜、あなたは、私の家をこっそり見つめていた」

 七海が言い切った。

「七海さん!」

 田辺が近づいて来た。

 七海は咄嗟に田辺との距離をとった。

「いったいどういうおつもりなんですか!」

 そう言って七海は田辺を睨み付けた。

「いい加減にしてくれ!」

 そう声を上げた田辺がさらに続けた。

「さっきからいったいどうしたんです? まるで私がストーカーだと、そう仰っているような──」

「そうです。あなたはストーカーです」

 田辺の言葉を遮った七海は、もう後戻りはできないと最後の覚悟を決めてそう言い切った。 

「バカバカしい!」

 田辺が吐き捨てた。

「この件は、大事(おおごと)にはしません。ですから、もう付きまとうのは止めてください!」

 それだけ言った七海は校舎の出入口へと足を向けた。

「ふざけるな! 名誉毀損で訴えてやる!」

 田辺の怒声が背中に打ち付けられた。

 しかし七海は振り返ることはなく足を速めた

 七海には分かっていた。

 足が速くなった理由が田辺から逃れるためだけではないことを。

 田辺の本当の恐ろしさに自分はまだ気づいていない、という恐怖心から逃れるためでもあった。

 七海は、スマートフォンを取り出すと、涼にメールを送った。

 日中はメールをもらっても返信できないことがほとんどだ、と言われてはいたが、それでもいい、この窮状を一刻も早く伝えたかった。

 冒頭、昨日は、別府中央署で大人げない態度を取ったことを謝った上で、田辺のことを伝えた。

 だが、七海は遅かった。

 そのことに気づくのが遅かった。

 駆け出す靴音に、七海は身が竦んで足が止まった。

 咄嗟に背後を振り返った七海の瞳に映ったのは、鬼のような形相をした田辺の顔だった。

別府中央署

 ホテルから連れて来た熊坂洋平を調べ室に座らせた涼は、スマートフォンを握って正木を呼び出そうとした、その時、メールの着信があることに気づいた。

 日中は、メールを見ないことに決めていたがその着信は気になった。

 最近、母親が足の指を骨折し、その世話を7歳年下の妹に任せっきりにしていたことを涼は思い出していた。骨折くらいでどうにかなるということがないことは分かっていたが、もし何かあったのなら、後になって妹から不満を並べ立てられるのも嫌だった。

 だから返信はしないが見るだけは見よう、と涼は腕時計へちらっと視線をやってからメールアプリを起動させた。

 涼は驚いた。

 メールは七海からだった。

 昨日は、何か気まずい雰囲気となって、ついつい自分もメールを送ることに躊躇した。だから今晩でも様子伺いの連絡をしようと思っていたのだ。

──読むだけや。

 そう自分に言い聞かせてメールを開いた。

 涼の体が固まった。

 息を止めたまま3回、文面を読み返した。

 ハッとした涼は、自分が今、何をすべきか、というよりも、何ができるか、を必死に考えた。

 ここを放ったらかして七海の元へ駆けつけることは絶対にできないからだ。

「どげえした?」

 背後から正木が声をかけた。

(続く)
★第39話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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