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『ナポレオン言行録』(後編)|福田和也「最強の教養書10」

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。今月は、日本人が大好きなあのフランスの英雄に関するこの一冊。(後編)

★前編を読む。

 トゥーロン攻囲戦の功により、ナポレオンは少将に昇進した。二十四歳だった。ところがその後、ロベスピエールが処刑され、ジャコバン派が一掃されたため、一時期投獄の憂き目にあうが、一七九五年、新憲法裁定に際して起こったパリでの反乱(バンデミエールの反乱)を鎮圧すると、一気に最高司令官に任命された。二十六歳にして国軍の頂点にたどりついたのである。彼の活躍は国内にとどまらなかった。イタリア遠征で戦功をあげ、一七九九年のクーデターにより統領政府を樹立、一八〇四年には皇帝に即位、列国と交戦を重ね、イギリスをのぞく全ヨーロッパを制圧したのである。

 この間、ナポレオンは数多の布告と戦報を出している。布告とは戦闘の始まりを告げるものであり、戦報とは戦闘の終結を告げるものであるが、こうした軍事的文章の中にも文人ナポレオンは立ち現れている。
その白眉は、一八〇五年、オーストリアのフランツ二世とロシアのアレクサンドル一世との決戦、アウステルリッツの戦いにおける布告だろう。

 兵隊よ、私は諸君に満足である。諸君は、アウステルリッツの戦闘において、私が諸君の勇敢にかけた期待を裏切らなかった。諸君は諸君の軍旗を不滅の栄光で飾った。(中略)ロシヤの近衛隊の四十本の軍旗、百二十門の大砲、二十人の将軍、三万以上の捕虜が、永久に有名なこの日の戦果である。(中略)
 兵隊よ、われわれの祖国の幸福と繁栄との確保に必要な一切のことが達成された暁には、私は諸君をフランスに連れ戻るであろう。かしこでは、諸君は私の最もやさしい配慮の的となるであろう。私の国民はふたたび諸君に見えて喜ぶであろう。そして諸君は《私はアウステルリッツの戦闘に加わっていた》といいさえすれば、こういう答を受けるであろう《ああこの人は勇士だ!》と。

 コルシカという辺境に生まれたナポレオンは父親がフランスに帰順し貴族となったため、国費によってフランス本土で教育を受けられることになり、九歳で島を離れるとフランス本土のコレージュに入学した。幼い頃から軍人志望だった彼はその後、ブリエンヌの士官学校に進んだ。

 ブルボン王朝期の将校養成コースは二段構えになっていた。まず、九歳か十歳で前期士官学校に入学し、六年間教育を受ける。

 士官学校での教育に軍事的要素はほとんどなかった。制服が軍服をモデルにしているだけで、フランス語、ラテン語、数学、礼儀作法が教えられる。この期間に生徒の適性を見て、陸軍と海軍にふり分け、パリの陸軍士官学校とトゥーロンの海軍兵学校へ送られることになっていた。

 当時、王立の士官学校は十二あった。特にソレーズにあるベネディクト修道院は、「近代的」な教育が定評であり、ラテン語を必修からはずしていた。ヴァンドームの王立士官学校では自然科学の授業が行われていた。

 そうした中、ブリエンヌの教程は、ラテン語をみっちり教える伝統的なものだった。この旧弊な教育課程がナポレオンにとって、すこぶる有益なものとなったのである。

 タキトゥス、ウェルギリウス、キケロ、セネカといったラテン文学の古典に接したことは、文人ナポレオンを生むうえで決定的なことだったからだ。戦場で、議場で、歓喜の宴で、ナポレオンが自分の言葉で兵士たちを熱狂させることができたのは、古代ローマの雄弁家たちのレトリックを、ブリエンヌで叩きこまれたからだ。

 彼は授業から学んだだけではなかった。コルシカの名家とはいえ、ボナパルト家には金がなかった。全寮制の学校といっても、休日ともなれば、パリから家族がやってきて近くの街に遊びに行く。しかし、パリに縁戚もなければ金もないナポレオンは何処にも出かけられなかった。できることといえば、田舎道をとぼとぼ歩いて、農婦から分けてもらった牛乳を飲むくらいだった。このような孤独で屈辱的な週末を少年期に六年も過ごしたのである。

 この孤独が、ナポレオンの精神の基調低音を作りだしたと考えていいだろう。孤立を恐れず、衆をたのまず浩然と機会を待つことのできる精神の、叩けば金属質の音がするような硬さと純度はブリエンヌで培われたのだ。

 孤独の時間をナポレオンは学校の図書館で過ごすようになり、読書の習慣を身につけた。コルネイユやラシーヌ、ボシュエなどの著作に接したことは、文学に対する目を開き、その思想的端緒となった。

 何より、ローマ時代の著述家、ブルターニュの『英雄伝』に出会わなければ、十九世紀のアレクサンダー、カエサルになろうという野望は生まれなかっただろう。
               ∴

 ナポレオンの最初の妻はマリー=ローズ・ジョセフィーヌである。二人は一七九六年に結婚した。ナポレオンは初婚だが、ジョセフィーヌは再婚で、二人の子供がいた。しかも彼女は、ナポレオンを総司令官に引き上げた、ジャコバン派の領袖、ポール・バラスの愛人だった。

 革命の最左翼に身を置くバラスは民衆を扇動して教会を焼き、貴族の館を壊した。牢獄にとらえた貴族やブルジョアの女たちをかたっばしから愛人にした。その一人がジョセフィーヌだった。彼女の夫、アレクサンドル・ド・ボアルネェ子爵は処刑されていた。

 パリ反乱のさなか、ジョセフィーヌと出会ったナポレオンは海千山千の手練れである彼女に魅了され、デジレ・クラリィという許嫁があったにもかかわらず、ジョセフィーヌと結婚してしまった。

 マルセイユの純粋な少女、デジレはナポレオンの仕打ちを恨みながらも立ち直り、ジャン・パブティスト・ベルナドット将軍と結婚した。そのベルナドットがスウェーデンの王位継承者に指名されたため、彼女はスウェーデン王妃となった。

 もしもナポレオンがデジレと結婚していたら、家庭的な彼女が皇妃として君臨していたら、彼の治世はもう少し安定していたかもしれない。

 たがジョセフィーヌのような、とてつもない浮気女が女房だったからこそ、西に東に軍を率いて、限りない栄光を求めたとも考えられる。ジョセフィーヌは多情なだけではない。色事と浪費と悪ふざけの他には何の興味もない女性だった。

 結婚してすぐイタリアに遠征したナポレオンは遠征先から妻宛てに熱烈な手紙を送っている。

ケルーブレ、花月十日(一七九六年四月二十六日)

 ……私の幸福は君が幸福であるということだ、私のよろこびは君が陽気であるということだ、私の楽しみは君が楽しみを持っているということだ、これ以上の献身と、情熱と、愛情とをもって愛された女はかつてなかった。一人の人間の心をこれ以上完全に支配して、その人のすべての趣味と好みを左右し、その人のすべての望みの根源となることは決してできるものではない。私はこのように君に首ったけだが、君の方でそうではないというのなら、私は自分の盲目ぶりを嘆き、君に良心の苛責をおぼえてほしいばかりだ。

 しかし、愛に溢れた手紙はやがて、妻の不実を嘆くものになっていく。

ミラノ、共和歴第四年草月(一七九六年六月十一日)

 ……私の魂はよろこびに向かってひらいていたのに、今では苦痛で一杯になっている。郵便は次々に来るが君の手紙はない。……たまに君の手紙が来ても、僅かな言葉しか書いてなく、文体に深い感情がこもっていることは決してない。君はほんの気まぐれから私を愛したのだ。

 二万五千の軍を率いアルプスを越えてイタリアに遠征したナポレオンはサルデーニャ軍に休戦協定を結ばせ、ロンバルジアをおさえ、ヴェネト地方に進出し、オーストリアからボローニャを解放するなど次々に戦功を上げていく。そうした栄光の一方で妻の愛を疑い苦しんているのである。

トルトーナ、共和歴第四年ブレリヤル二十七日(一七九六年六月十五日)

 私の生活は不断の悪夢だ。不吉な予感で息もつけない。私はもはや生きた心地もない。私は生命以上のもの、幸福以上のもの、平安以上のものを失った。私はほとんど望みを持たない。君に飛脚を差し立てる。彼はパリには四時間しか留まらないで、それから私に君の手紙を持って来てくれることになっている。十頁の手紙を書いておくれ、それだけが私をいくらか慰めてくれることができるのだ。

 ……「自然」も大地も私の眼には、君が住んでいるからこそ美しい。もしも君がすべてこうしたことを信じないなら、もしも君の魂がすべてこうしたことを納得せず、身に沁みて感じないなら、それは私を悲しませる、そして君は私を愛していないのだ。

 苦しみの中、ナポレオンは詩人となっている。ジョセフィーヌへの手紙は彼の手による文学作品といっていい。これを読んで心を震わせない者はないだろう。ただ一人、ジョセフィーヌを除いて。

                ∴

 三十五歳でフランスの皇帝にまで上り詰めたナポレオンの凋落もまた早かった。

 スペイン侵略とモスクワ遠征に失敗し、解放戦争に敗れて、一八一四年、退位を余儀なくされた。四十五歳だった。

 退位をしたフォンテンブロー宮殿でナポレオンは二度自殺を試みた。いずれも服毒によるものだったが、嘔吐の発作を起こし、未遂に終わった。

 退位後、ナポレオンはエルバ島に流された。しかし、一年後にはそこを脱出。六〇〇人の手勢を従えてジュアン湾に上陸した。ここからカンヌに向かい、北上したナポレオンが辿った道は現在、「ナポレオン街道」と呼ばれる。

 ジュアン湾で出された、皇帝帰還を告げる文章もまた有名である。

 兵隊よ、われわれは敗れたのではない!
 兵隊よ、私の流謫の地において、私は諸君の声を聞いた。私はあらゆる障碍、あらゆる危険を冒してやって来た。人民の選択によって帝位に即けられ、諸君の熱狂的な歓迎を博した諸君の将軍は、諸君に返されたのである。来たって私につづき給え。国民によって廃止されていた国旗――二十五年間にわたってフランスのあらゆる敵をその下に集めた国旗をひぎずり下ろし給え! あの三色旗を掲げ給え、諸君はわれわれの数々の歴史的な戦闘の日にあの三色旗の帽章をつけていたのである。

 パリに戻り復位を成し遂げたナポレオンだったが、イギリス・プロイセン連合軍にワーテルローの戦いで敗れ、百日天下の幕は閉じられた。

 南大西洋の孤島、セント・ヘレナ島に送られたナポレオンはそこで六年を過ごし、一八二一年五月五日、五十二歳で死去した。

 ナポレオンの棺は現在、セーヌ川の左岸、シャンゼリゼのちょうど向かい側、アレクサンドル三世橋を渡った使用面のアンヴァリッド(廃兵院)に安置されている。

 アンヴァリッドは、一六七〇年、ルイ十四世時代に建てられた。ブルボン朝の創始者であるアンリ四世が、戦傷を負った兵士や老兵を収容するためにつくった福祉施設をより大規模にして、首府に設置したものだ。六千名を収容できる長い四層の両翼の中央に巨大なサンルイ教会のドームがそびえている。

 ドームに入ると、左手に、モロッコの征服者リョーテーの墓所があり、右手には第一次世界大戦の英雄フォッシュの墓がある。

 将星たちに囲まれ、ドームの中央にナポレオンの棺が屹立している。

 巨大な緑色の大理石の上に、高さ二メートルほどのマホガニーの棺が置かれている。この中に、さらに石棺があり、そのなかの木製の棺にナポレオンは眠っている。

 ナポレオンの遺体が、セント・ヘレナ島からパリに戻ったのは死後二十年近くたった一八四〇年のことだった。返還が遅れたのは、主にフランス側の事情によるもので、王政復古したブルボン朝が、その受け入れを拒否していたのだ。七月革命の後、ナポレオン派の政治家、軍人を復権させた国王ルイ・フィリップは、廃兵院に皇帝を迎え入れた。

 はじめ、その装飾はごく簡略なものに過ぎなかった。現在のような、大仰なものになったのは、甥のナポレオン三世の治世の、一八六〇年であった。

 死後四十年を経て、ようやく安住の地を得たのである。

 ナポレオンの人生とは何であったのか――。

 それを示す箴言が『ナポレオン言行録』に収められている。

 天才とはおのが世紀を照らすために燃えるべく運命づけられた流星である。

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