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部落解放同盟の研究4 連載再開 野中広務との因縁 西岡研介

「部落出身者を総理にできないわなあ」。麻生の「差別発言」はなぜ見過されたか。/文・西岡研介(ノンフィクションライター)
★③を読む。

「私は絶対に許さん!」

2003年9月21日、小泉純一郎が総裁に再選された翌日に開かれた自民党総務会。

午前11時、党本部6階の総務会室に設けられた楕円形のテーブルの中央に、総務会長の堀内光雄が座り、その左隣に幹事長の山崎拓、右隣には政調会長の麻生太郎(肩書きはいずれも当時)が着席した。

この日の議題は、党三役人事の承認だった。執行部から新たな党人事についての報告がなされ、堀内が「ご異議ございませんか」と、確認を求めた直後のことだった。

「総務会長!」

室内にひときわ、甲高い声が響いた。声の主は、元幹事長の野中広務(2018年に死去)だった。

堀内の目の前に座っていた野中はやおら立ち上がり、「総務会長、この発言は、私の最後の発言と肝に銘じて申し上げます」と断った上で、麻生のほうに顔を向けた。

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の3人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで(総務大臣の所管である)人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」

野中の鬼気迫る追及に、場の空気は凍りつき、顔を真っ赤にした麻生は、無言で俯いたままだったという。

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麻生太郎

「麻生糾弾せず」は致命的

戦後の部落解放運動にとって、「政治」は不可分の関係にあった。

解放運動は、「被差別部落民自身による差別からの完全解放」を目指し、部落の環境改善、部落民の地位向上を求めた大衆運動だが、国や行政を動かすため、当然のことながら、政治の力も必要とした。

このため、部落解放同盟は大衆運動を展開するとともに、組織内候補を国会に送り込んできたのだ。

1969年に被差別部落の生活、教育、社会環境を改善するための「同和対策事業」の根拠法となる「同和対策事業特別措置法」(同対法)が施行され、その後、2度延長されたのも、部落解放同盟の政治力によるものに他ならない。

かつての解放同盟が誇った政治力と、その衰退を象徴する存在が、野中広務という政治家である。

京都府・旧園部町の被差別部落に生まれた野中は、町議から身を起こし、園部町長、京都府副知事を経て1983年、国政に進出。93年、細川連立政権の樹立で下野した自民党内で1人、政権を揺るがす質問を繰り出し、退陣に追い込んだことから一躍、「政界の狙撃手」と注目された。

翌年に成立した自社さ連立による村山内閣で、自治大臣・国家公安委員長として初入閣し、その後の小渕内閣では官房長官に就任。2000年に小渕が倒れると、森総裁の擁立に動き、幹事長に就くなど、小渕、森政権の「影の総理」と呼ばれるほどの権勢を誇った。

だが、小泉政権の誕生と同時に、「抵抗勢力」のレッテルを張られ、権力から次第に遠ざかって行く。

そして、前述の総務会が開かれた約2週間前、野中は「政界を引退する」と表明。この総務会は、野中にとって最後のそれとなった。

複数の元自民党議員や関係者によると、この総務会の2年前、2001年の総裁選に立候補した麻生は同年3月12日、派閥「大勇会」(旧河野グループ)の会合で、野中の名前をあげ、「あんな(被差別)部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と露骨な差別発言を口にしたという。

一連の経緯は2004年、ノンフィクション作家の魚住昭が著した『野中広務 差別と権力』(講談社)で明らかになった。

2005年2月に開かれた衆院総務委員会で、民主党の中村哲治議員から質された麻生(当時は総務大臣)は自らの発言について否定したものの、2003年の総務会で野中から追及を受けたことは認めている。

魚住は、野中の評伝を書くに際し、多くの部落解放同盟関係者にも取材している。その魚住が語る。

「あの麻生発言を、部落解放同盟が正面から取り上げなかったというのは致命的でした。麻生氏を糾弾できなかったというのが、解放同盟の弱体化を如実に表していました。

もっとも、解放同盟の弱体化については、取材中からずっと感じており、麻生氏を糾弾しないと聞いた時も、違和感は覚えなかった」

部落解放同盟の中央執行委員長を20年にわたって務め、「部落解放の父」と呼ばれる松本治一郎は、1945年、日本社会党の結成に参画した。47年には、戦後初の参院選に社会党から出馬し、当選。初代参議院副議長に選出された。その後も、66年に死去するまで参院議員を務め、「同和対策審議会」(同対審)の設置などに大きな指導力を発揮した。

総理大臣の諮問機関として設置された同対審は、部落差別の解消は「国民的な課題」であり、「国の責務である」と明記し、「部落問題の解決を国策として取り組む」ことを促す答申を出した。そして1969年、この答申に基づき、前述の同対法が施行されたのだ。

治一郎の死後も解放同盟は、甥である松本英一(参院議員)、大阪府連委員長だった上田卓三(衆院議員、のちに中央執行委員長)、広島県連委員長を長く務めた小森龍邦(衆院議員)ら、組織内候補を次々と国政に送り込み、1990年代初めには衆参両院で5議席を獲得。これら「解放の議席」はすなわち、60年代後半から80年代にかけての解放運動の勢いを表していた。

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野中広務

総理府屋上に荆冠旗

その勢いを象徴するのが「総理府占拠事件」である。

1968年8月、部落解放同盟中央書記長だった上杉佐一郎(後に委員長)が、約1000人の同盟員を率い、総理府(現内閣府)を占拠。前述の同対審の答申を具現化する法律が遅々として制定されないことにしびれを切らしてのことだった。

上杉はその後、自民党幹事長だった田中角栄への直談判にも及び、これらの直接行動が、翌年の同対法の成立、施行に繋がったという。

『上杉佐一郎伝』(解放出版社)編集委員会のメンバーで、解放出版社の元事務局長、小林健治はこう語る。

「その10年後の1978年にも、上杉書記長は同対法の延長を求め、約1500人の同盟員を率いて総理府に乗り込んだ。この時は総理府の屋上に荊冠旗が掲げられ、政府関係者の度肝を抜き、稲村佐近四郎・総理府総務長官との直接交渉が実現しました」

荊冠は、部落差別による受難と殉教の血を表した解放運動の象徴だ。小林が続ける。

「そもそも同対法ができたのも、同対審答申の完全実施を求め、福岡から東京を目指す大行進など、解放同盟の全国規模の要求運動があったからこそ。当時、解放同盟の政治力を支えていたのが、この圧倒的な大衆行動でした」

同対法はその後、名称を変えながら、2002年まで延長されることになる。

だが、その一方で、解放同盟が勢力の一角を担った社会党は、1993年の細川連立内閣、翌年の自社さ・村山内閣と、政権与党に組み込まれる度に弱体化していく。それに伴って「解放の議席」も崩れ始めるのだ。

野中とは敵対関係だった

解放同盟中央書記長だった前出の小森龍邦は、93年、細川連立政権への社会党の参画に際し、「保守勢力との連立のために党方針を右傾化させた」として党執行部を批判。翌年には、書記長を辞任し、社会党からも離党した。

この当時、解放同盟はさまざまな課題を抱えていた。1985年から始まった、部落問題の抜本的な解決を求める「部落解放基本法」制定運動が行き詰まるなか、前述の同対法の期限が迫っていた。

そこで解放同盟が頼ったのが、村山内閣で自治大臣だった野中広務だった。

パイプ役となったのは当時、京都府連の書記長で、今年6月に部落解放同盟のトップ、中央執行委員長に就任した西島藤彦だった。

西島が当時を振り返る。

「1994年末に上杉委員長から、『京都出身なら、野中さんとの会談をセットしてくれ』と言われ、正直、面食らいました。それまで京都府連と野中さんとの関係はなく、どちらかといえば敵対関係にありましたから。それでも野中さんの地元の支部長らを通じて、接触を試みたり、東京や京都の事務所に何度も通ったりして、翌年3月になってようやく上杉・野中会談が実現したのです」

だが、解放同盟が野中を恃んだのには、彼の当時の政治力や現役閣僚という立場に加え、もうひとつ大きな理由があった。

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新委員長の西島氏

「私も部落に生まれた一人」

1982年3月3日、京都の岡崎公会堂跡で開かれた「全国水平社創立60周年記念集会」。当時、京都府副知事だった野中は、来賓として壇上に立ち、こう挨拶した。

「全水創立から60年ののち、部落解放のための集会をひらかなければならない今日の悲しい現実を行政の一端をあずかる1人として心からお詫びします。

私ごとですが、私も部落に生まれた1人なのであります」

全国から集まった同盟員で埋まった会場は、この予期せぬ言葉に一瞬、静まり返った。野中はこう続けた。

「大阪で勤めていた25歳の時、私の職場で“部落の人間だ”と差別された人がいた。都会へ逃げてきて、身分を隠していい格好をしている自分の生き方を反省し、生まれ故郷へ帰りました。現在もそこから汽車で府庁に通っております」

野中がこう語り終わらないうちに、会場は割れんばかりの拍手で包まれたという。そして野中は最後にこう締めくくった。

「私は、部落民をダシにして利権漁りをしてみたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を憎みます。そういう運動を続けておる限り、部落解放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返されていくのであります。

60年後に再びここで集会を開くことがないよう、京都府政は部落解放同盟と力を合わせて、部落解放の道を進むことを厳粛にお誓いします」

実際に会場で、野中のこの挨拶を聴いた解放同盟幹部は「あれは野中さんの部落民宣言だった」と振り返った上で、こう語る。

「私は当時から社会党でも左派で、野中さんとは政治スタンスも解放運動に対する考え方も違ったが、あの挨拶には同じ部落民としてシンパシーを覚えました。上杉委員長も、あの挨拶を覚えていたからこそ、野中さんを頼ったのでしょう」

ただ、野中の評伝を著した魚住によると、前出の西島の言う通り、それまでの野中と解放同盟は敵対関係にあったという。

「あの挨拶の内容からも分かるように、野中さんは、解放運動を利用し組織拡大を図ろうとした共産党や、利権漁りに走った解放同盟の一部の幹部に対し、極めて批判的でした。もともと彼の出身地である園部町の被差別部落は戦前から、『融和運動』の強い土地柄で、解放同盟や共産党系の運動とは一線を画していた」

融和運動とは、部落民が国への忠誠を誓い、官民一体となって国民に同情融和を呼びかけることによって、被差別部落の地位向上や環境改善を図ろうとした運動のことだ。

魚住が続ける。

「そんな部落で生まれ育った野中さんはまさしく『融和の子』で、かつ自助の考え方が強い人でした。差別は絶対に許されないが、それを乗り越えるには他人に頼らず自分で道を切り開くしかない。そんな信念を終生変わらず持っていました」

思想的に距離があった野中を頼らざるを得ないほど、当時の解放同盟が政治に及ぼす影響力は低下していたのだろう。西島によると「上杉・野中会談」は1995年3月20日の午後、自治大臣室で行われたという。この日の霞が関は、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起き、緊迫した雰囲気に包まれていた。

「税の話を片づけましょう」

この会談について、野中は政界引退後の2003年12月に上梓した『老兵は死なず 野中広務 全回顧録』(小社刊)の中でこう著している。

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