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『ナポレオン言行録』(前編)|福田和也「最強の教養書10」

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。今月は、日本人が大好きなあのフランスの英雄に関するこの一冊。(前編)

              
 十四年ほど前のことであるが、某週刊誌でナポレオンの連載をしたことがある。

 新連載に対する編集長の意図が、「団塊の世代が定年になるから、彼らに向けた旅ものにしたい。ただ名所、名跡を紹介してもつまらないから、人物をたててその人生を追うような旅がいい」というものだったので、担当編集者(彼は入社二年目で若かったが、読書量は半端なかった)と相談して、「斎藤茂吉の旅」を提案した。

「地味過ぎる」と一蹴されてしまった。

「団塊の世代が退職金をつぎ込んで行きたくなるような旅にするには、誰もが憧れる世界的な英雄でなければならない」という編集長の強い意向もあって、ナポレオンに決まり、連載のタイトルは「旅のあとさき ナポレオンの見た夢」となった。

 地中海の小島に生まれ、孤独な少年時代を過ごし、大革命の渦中に頭角をあらわして、軍時史をくつがえす成功をおさめ、イタリア、エジプト、プロイセン、オーストリア、スペインを席巻して皇帝になった男。その栄光が巨大だったのと同時に、その悲劇もまた大仕掛けなものだった。ロシアからの撤退、国境の崩壊と退位、百日天下とワーテルロー、セント・ヘレナ……。

 日本でナポレオンの人気が高いのは、日本武尊や源九郎義経のような、日本人の愛した英雄と似たところがあるからだろうか。

 日本人がナポレオンの存在を知ったのは幕末だった。

 鎖国をしていたのだから当然と思われるかもしれないが、そうではない。

 鎖国日本にとっての唯一の国際情報源であるオランダが、ナポレオンを秘匿していたのである。

 文化五(一八〇八)年八月、長崎にオランダ国旗をかかげた船が入港した際、出向いた長崎奉行所の役人たちが人質にされてしまった。船はイギリスの軍艦「フェートン号」で、オランダ商館を襲撃し、館員も人質にした。

 当時、オランダはフランスの支配下にあった。ナポレオンの弟ルイが国王として君臨する、属国となっていたのだ。

 イギリス海軍は、ナポレオンに屈服したオランダを敵国とみなし、そのアジア交易を破壊するため、長崎にあらわれたのである。フェートン号は人質と引き換えに、水と食糧を得て去った。長崎奉行松平康英は切腹した。

 幕府はなぜこのような事件が起きたのかオランダ側に追及したが、要領を得なかった。オランダがナポレオンのヨーロッパ征服について、情報を提供しなかったためである。

 オランダ商館は、母国がフランスに征服されたことが判明すると、これまでの特権が失われるのではないか、と危惧していたのだ。幕府がオランダに交易を許したのは、スペインやポルトガルなど布教に熱心なカソリック教国ではなく、プロテスタントだったからである。カソリック国であるフランスの支配下におかれていることが露見すれば、交易を停止されるかもしれない。

 幕府側はヨーロッパに一大変事が起きていることに気づいてはいたものの、その実態、つまりナポレオン戦争を察知することは出来なかった。

 それをスクープしたのが頼山陽である。

 文政元(一八一八)年二月、父頼春水の三回忌のため故郷広島に戻った山陽は九州まで足をのばした。広瀬淡窓や田能村竹田ら知友と再会するためであった。

 しかしながら山陽は放蕩と親不孝で悪名が高く、佐賀の儒者たちに冷遇され、長崎に赴いた。そこには、江戸時代の悪友古賀穀堂がいた。当時穀堂は鍋島藩の藩儒として長崎守護を命じられていたのだった。

 穀堂だけは山陽を歓待してくれた。二人が長崎の妓楼、酒楼を渡り歩き歓楽の日々を送っていたある日、オランダ船が長崎港に入港し、山陽は遊籠の斡旋で蘭船の医師と酒席をともにすることとなった。

 医師はナポレオンのロシア遠征の生還者だった。大軍が瞬く間に寡勢となり、馬を殺して飢えを凌いだその回顧談は、山陽には史記の世界の大叙事詩に思えた。ここに成立したのが、ナポレオンの一代記を詠んだ漢詩「仏郎王歌」である。

 山陽は「何ゾ料(はか)ラン大雪平地ニ一丈強ナルヲ/王馬八千凍エ且(ま)タ僵(たお)ル」という名調子で世紀の大遠征を謳いあげるとともに、その末尾において「君見ズヤ何(いずれ)ノ国ニカ貪(むさぼ)ルコト狼ノ如キ有ル蔑(な)ケン/勇夫ハ重閉シテ預防(よぼう)ヲ貴ブ」と国防の必要を訴えた。

 山陽の文名が上がるとともに「仏郎王歌」は人口に膾炙し、ナポレオンの存在は知られていく。蛮社の獄に際して自殺した小関三英がリンデン筆の伝記を『那波列翁伝初編』として訳出して、ナポレオンとヨーロッパ情勢についての知識は飛躍的に進んだ。

 佐久間象山は自らをナポレオンに投影していたし、吉田松陰は萩の野獄に収監された時に「那波列翁を起してフレーヘード(自由)を唱」えることを提議し(『江戸のナポレオン伝説』)、西郷隆盛は、ジョージ・ワシントンとナポレオンを崇拝した。

 榎本武揚にいたってはナポレオンを尊敬するあまりセント・ヘレナ島まで行っている。

 文久元(一八六一)年、榎本武揚は、西周らとともにオランダ留学を命じられた。一行が乗り込んたオランダ商船は、ジャワ海のビリトン島付近で大嵐にあい座礁してしまった。船長らオランダ人は、ボートで逃げてしまい、榎本らは難破船に残された。

 マレーの海賊船が寄ってきたのを、これ幸いと抜刀して脅し、陸地まで連れていかせたが、そこは無人島だった。魚を捕りにきた現地民に手紙をたくし、ようやくジャワ政庁に助けられた。

 ジャカルタで客船に乗り換えた榎本は喜望峰を回りオランダに向かう途上、セント・ヘレナ島に寄港した。文久三年二月八日のことである。そのときの榎本の日記には、次のような漢詩が綴られている。

長林ノ煙雨、孤栖ヲ鎖シ、
末路ノ英雄、意転タ迷ウ、
今日、弔ニ来人ヲ見ズ、
覇王ノ樹ノ畔、列王鳴ク

「長林」とは、セント・ヘレナ島の首府でナポレオンが幽閉されていたロングウッドのことだ。

 寂しい風景に一代の英傑の末路を見た憂愁が伝わってくる。


             ∴


『ナポレオン言行録』の原題は『ナポレオン不滅の頁』である。

 本書は一九四一年、フランスで刊行された。当時フランスはドイツ軍の占領下にあった。編者はフランスの歴史家にして法学者のオクターヴ・オブリ。彼は始め小説を書いていたが、その後官途につき、内務省、司法省、文部省に勤め、一九二四年に出した『失われた王、ルイ十七世』で初めて歴史書をものした。

 彼の著作は、『マリア・ヴァレスカ』、『ナポレオン・ボナパルトとジョセフィーヌの物語』、『ブリュメール』、『ナポレオン三世』、『皇后ウジェニ』など、ナポレオン関係が多く、一九三六年には大著『ナポレオン』を上梓している。

 ナポレオンが五十二年という長くはない生涯の中で残した、手紙や布告、戦報、語録などの中から最も意味深い文章を選び、年代順に配列したものが、『ナポレオン言行録』である。

 オブリはこの本の冒頭の解題で次のように述べている。

 世界が危機に瀕しているこの悲劇的な時代にも、生えぬきのフランス人には一つのなぐさめが残っている。それは過去を思い、どんな逆運にも傷つけられない栄光にわれわれの魂をひたすことである。この栄光は、われわれの意に反してもまたわれわれのあやまちにもかかわらず、われわれを擁護してくれるものである。(中略)
 われわれを最も力づけてくれるかも知れないのはおそらくナポレオンであろう。百二十年前に死んだ彼は、今なお世界の思想の上に君臨している。彼は依然として近代のエネルギーの教師である。(中略)
 ナポレオンは驚くべき将帥、端倪すべからざる立法家であったのみではない。また偉大な文人でもあった。わたしはこのささやかな文集を編むにあたり、彼の作品の厖大な集積、すなわち書簡、歴史的研究、物語、口述、省察等の中から、ナポレオンの遺した最も意味ふかい頁を選んで、ナポレオンが偉大な文人であったことを読者に想起させようと試みた。(大塚幸男 訳)

 オブリは第二次世界大戦中、ドイツ軍の支配下に置かれ、暗い日々を送っているフランス国民に、ナポレオンという存在をもって、祖国解放の希望を持たせようとしたのだ。

 もちろんフランス人だからといって誰もがナポレオンを崇拝しているわけではない。

 英雄とされる多くの人物がそうであるように、ナポレオンも毀誉褒貶が激しい。彼についての厖大な数の研究文献は、好意的なもの、敵意を抱いているもの、客観的なものの三つに分けられる。しかし、かくも多角的な見方のできる人物であること、いずれの研究もナポレオンに対する深い興味から成っていることを考えれば、ナポレオンという存在の大きさを否定することは出来ないだろう。

『ナポレオン言行録』の特筆すべき点は、全てがナポレオン本人の言葉であるということだ。編者のオクターヴ・オブリが言うように、ナポレオンは偉大な文人であった。もしも彼が二十世紀に生きていたら、ウィンストン・チャーチルのようにノーベル文学賞をとっていたかもしれない。

 我々はこの書を読むことによって、ナポレオンについて知るばかりでなく、彼の文章を堪能し、彼の呼吸を感じることができる。

 そもそもナポレオンの存在が世に知られるようになったのは、その文章がきっかけであった。

 ナポレオンが初めて大きく名を上げたのはトゥーロンの奪還である。

 一九七三年八月二十八日、フランスのトゥーロン市は、革命政府に対して宣戦布告した。

 南フランスはもともと王党派の勢力が強く、カソリックへの帰依も厚かった。一月にルイ十六世とその家族がギロチンにかけられたことで叛意が盛り上がり、イギリス、スペインと連携して決起したのだった。

 市会が政府の議員を追放すると、即座にイギリスとスペインの艦隊がトゥーロンに入港した。両国は一万五千の兵力をトゥーロンに送り込んできた。放っておけば、反乱が南仏全域に燃え拡ろがることは目に見えていた。しかし、トゥーロンは堅固な要塞である。日露戦争の旅順攻撃を思い浮かべてほしい。強固な防備が敷かれた港と、その中の艦隊をいかに攻めればいいか――。

 砲兵隊長のナポレオンは港を制圧するための理想的な砲兵陣地の場所を見つけ、激しい突撃によってそこを攻略した。イギリスもまたその場所を脅威と見ており、攻略されるや艦隊は港から逃げ出し、反乱は鎮圧された。

 トゥーロンで反乱が起きたとき、後方で弾薬輸送を指揮していたナポレオンは、トゥーロンに向かう途中のボーセという街で旧知の友人サリセッティと偶会し、彼の紹介でロベスピエールの弟と知り合った。

 その前の月にナポレオンは『ボケールの夜食』という政治パンフレットを出版していた。内容は、ある宿屋に泊まり合わせた五人の人物の会話である。

 二人のマルセイユ商人が、革命政府を批判し、反乱を起こすべきだと主張する。それに対して、軍人、職人、市民の三人が意見を闘わせる。最後に兵士が、外敵が攻めてきている時には、いくら政府に批判があろうとも、まず闘うべきだとしめくくる。

 小説仕立てになっているが、そこには明確な政治的主張がある。

 政府を大胆に批判することによって、「にもかかわらず祖国は守らなければならない」という強いメッセージを発しているのだ。

 パンフレットを読んで興奮したロベスピエールの弟は兄への手紙に「傑出した才能の持ち主を発見しました」と書き、これによってナポレオンはトゥーロン攻囲軍の砲兵指揮官に任命されだのだった。

『ナポレオン言行録』には、「ボケールの夜食」の一部が収録されている。

軍人 ……マルセイユの方よ、私の言葉を信じ給え、諸君を反革命に導く少数の不逞の輩のくびきを脱し、諸君の法律で決められた権威をふたたび打ち建て、憲法を受け容れ、代表者たちを自由の身に返してやり給え。そして代表者たちがパリに赴いて諸君のためにとりなさんことを。諸君は惑わされているのです、民衆が少数の謀叛人や陰謀家から惑わされるのは今にはじまったことではない。いつの時代にも、大衆の人のよさと無知とが大ていの内乱の原因であったのです。

(後編に続く)

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