見出し画像

山内昌之「将軍の世紀」 |「本当の幕末」徳川幕府の終わりの始まり(1)幕府瓦解は家斉末期に始まる――贅沢な小宇宙と「御閑道御通路」

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。

※本連載は、毎週木曜日に配信します。

★前回はこちら。
★最初から読む。

  「一利を興すは一害を除くに如(し)かず、一事を生ずるは一事を省くに如かず」。

 モンゴル初期の宰相・耶律楚材の言葉を受けて、政治の道はその害になる者を取り去ることにあると語った江戸後期の陽明学者がいる。それは『洗心洞劄記』を書いた大塩中斎(平八郎)である。「鄭声を放ち佞人を遠ざけよ」、淫らな音曲をやめて口上手な者を退けよという『論語』衛霊公篇に依拠するのは、第十一代将軍・徳川家斉の政治をゆがめる大奥と側近の佞人への強烈な批判ではないか。そのうえ「漢唐の中主」といいながら、凡庸な君主はぼんやりして孔子や楚材の義を理解できないと、家斉の姑息因循をあてこする。せいぜい「煦煦(くく)の小愛」(息をふきかけて温めるくらいの小さな恵み)を人びとに施すにすぎない、と。これも家斉晩年の暗愚の政治に照らせば過褒だと後日気がついたかもしれない(『洗心洞劄記』上、一六〇)。

 「今時ノ上ノヤウスヲ聞毎(きくごと)ニミナ乱世ニナルベキ事ノミ也。一トシテ尤(もっとも)ノ事ナシ。天下ノ勢瓦解也」(『三川雑記』天保八年丁酉)。これは、江戸時代後期の儒者・山田三川の書いた警世の文である。いまの公儀の様子を聞くにつけても、世がことごとく乱れることだけは確かであり、正しい事は一つもなく、国のまとまりはばらばらに崩れてしまうというのだ。天保八年(一八三七)は、大坂町奉行所の元与力・大塩平八郎の乱と大飢饉が起きた年にあたる。飢饉の禍はいつも生産者の農民に降りかかった。天保四年に出羽国の検見をした人物によれば、大凶作で刈上二分くらいの出来にすぎなかった。百姓は草根木皮の他に土まで食べるが、いずれも体が青く腫れてどうしようもなく、日々死をまつだけだった。「土は白き世に油抜きあらひこと申すもの」の類がよく、「白きねば土」なら食べられると風評が立った。たとえ、砂糖をかけても白土の団子は消化できずに、「腹中に滞をなす」のは言うまでもなかった(川路聖謨『遊芸園随筆』八、『日本随筆大成』第一期第23巻所収)。

 松前藩や安中藩に仕えた小身の儒者三川だけでなく、江戸幕府に近い水戸藩主・徳川斉昭も、前年の凶荒に続いて今年も飢饉になると幕閣に警告した。天保七年九月十五日に斉昭は江戸城に上り、救荒撫民を心がける年に新旧将軍交替の大礼のために「天下諸侯幾巨万の財用をか費やさむ」と憂えても、老中からは何の答えもなかった。気候をつぶさに観察し、「浪華騒擾」(大塩の乱)の結果を心配した齊昭の内面に偽りはないだろう。しかし天保八年三月二十七日に、腹心の藤田東湖を呼びつけ、明日不時に登城して老中たちと「十分に国家の事を論じ倹素に返し中興一新をのべむ」と肚の内を明かしたが、決められた登城日以外の登営を咎められ災いが却って主人に及ぶと東湖は案じた。その企ては中止に終わった。この二十七日はたまたま大塩父子が大坂の潜伏地で自害した日でもあった(『丁酉日録(天保八年)』三月廿七日条、『新定東湖全集』所収)。

 安政年間に斉昭を悲劇的挫折に追いこむ個性は、激越な言辞の割りに物事実現のシナリオが乏しく、人びとを結集させる包容力に欠けていた点にある。そのうえ、斉昭が、説き伏せようとした生前の水野出羽守忠成(ただあきら)は、江戸時代の老中でも有数の「学識もなく、当時あての才気なれば、文武は地を払てすたれて、和歌や鞠道乱舞のみ盛にもてはやして、少しく世を憂るものは奇人なりなんといふて取合ものなき風俗なり」と表現される人物であった(小冥野夫『しづのおだまき』)。これは千二百石の旗本が幕府高官の祖父や父から聞いた話によるものだ。著者は牧相模守こと牧助左衛門義道かとも思われる(『寛政譜以降旗本家百科事典』5)。ともかく沼津藩主の水野忠成は、将軍・大御所たる家斉の命や希望を忠実に叶える一方で、松平定信や寛政の遺老・松平信明の遺産を否定し、パクス・トクガワナの消滅と徳川政治体制を瓦解に近づけた責任者といってよい。徳川幕府を滅ぼした本質的な要因は、幕末の薩長勢力でもなければ水戸藩の内訌でもなく、幕府の内部にあった。

 文政元年(一八一八)に老中となった水野は、田沼意次と同じく奥兼帯の勝手掛老中となり、蝦夷地経営などの臨時経費を措くとして、家斉子女の縁組や家斉一家・大奥の贅沢のために財源をひねりだした。その貨幣改鋳策は物価安定に大きく貢献してきた元文金銀に替えて、真字二分金の新鋳とそれによる旧貨との現金引替から始まった。すり減って目方不足となった切(きれ)小判が通用せぬ現状を解決するために、小判・一分金より品位の落ちる二分金を新鋳して瑕金引替を行い通貨安定を図る名目はあるにせよ、瑕金だけでなく無瑕の旧貨も新二分金と交換された。次々に鋳造された文政金銀の総計は、四八一九万七八七〇両、銀二十二万四九八一貫にも上り、貨幣流通量は四十六%も増加した。元文金の金位は六五・七一%であったのに、文政金は五六・四一%にすぎない。金含有率がこれほど違う金貨を一対一で交換すると「出目」が生じ、その巨大総額五百五十万両が幕府の収入になったのである(新保博・斎藤修「概説 十九世紀へ」『日本経済史』2。安国良一「貨幣の機能」『岩波講座日本通史』近世2)。勘定奉行・土方出雲守などを使った改鋳は俗謡で田沼意次の再来として手厳しく非難された。「土方はこがねの井戸をほり当てて田沼のよふな水野の出羽出羽(でるはでるは)」(『しづのおだまき』)。

 天保五年に死ぬまで十七年間、老中として水野忠成が果たした大事は、「家斉の豪奢な生活を新貨鋳造で支えること、家斉の子どもたちの養子先・降嫁先を見出すこと、つまりは家斉の奥での生活が順調に進むように差配すること」だけだったと皮肉られても仕方がない(関口すみ子『御一新とジェンダー』)。しかも将軍家斉は、水戸斉昭のように政治の世話を綿密に見ると「国の治まる道理」もないと危ぶみ、自分のやり方こそ政治なのだと自信のほどを見せている。また田安老公が経学や史学を好むのを御三卿に似合わない「不行状」と広言した。この老公はそのまま解釈すれば松平定信の父・田安宗武と思われるが、家斉と宗武の間には生前の面識がなく、異母弟の田安斉匡の可能性も残るが斉匡が経学や史学を好んだ証拠は見当たらない。

「天下の政事は予の如く、金銭を吝まず、物事を気に懸けず、醒むれば美酒を飲み、酔へば珍味を食し、後宮三日の花の如き美少女を相手として娯しまば、士民は政治の寛仁大度なるに感服し、上の好むところ下亦これに倣ひ、都鄙の人心親睦和楽して、民富み国栄へ、老幼男女泰平を謡ふて余が徳を称賛するが如き、目出度き世柄に為るべき」と誇らしげに語り、自分のやり方こそ政治なのだと自信のほどを見せている。この発言は、家斉の近くで仕えた幕府儒者・勘定吟味役の羽倉簡堂(用九)が勘定奉行の岡本近江守成(花亭)から聞いた話なので信憑性は高い(山田三川『想古録』2、一一〇四。1、三八二)。

 岡本花亭は、暗愚もここまでくると付ける薬もないと眉をひそめた。家斉の振舞いには、どこかアッバース朝最後のカリフ第三十七代のアルムスタアスィムを思わせるところがある。このカリフは歓楽にひどく凝り、音曲にうつつを抜かしただけでなく、酒の相手や取り巻きと贅沢三昧に過ごした。ある詩人は、決意して立たないと災厄と戦いによって、アルムスタアスィムが破壊、強奪、捕囚、攻撃、略奪、窃盗に覆われると警告する。それでも、一二五八年にモンゴル軍に滅ぼされたカリフは、殺害される最後の瞬間まで、「愚か者には(警告の)叫び声が聞こえない」という諺を理解もできなかった(イブン・アッティクタカー『アルファフリー』1)。「早朝から王者らが享楽にふけるようでは その王国は没落、滅亡に瀕していると思うがよい」という十世紀ガズナ朝の詩人アブー・アルファトフ・アルブスティーの警句もあてはまるのが家斉の治世であった。

 他方、家斉を批判した水戸斉昭は、「女性に血道をあげるのが嫌い」と言い切った北東イランの征服者サフル・イブン・カイスのように武道一辺倒というわけでもない。斉昭は、家斉の娘峯姫の上臈年寄だった唐橋(正二位権中納言高松公祐女)をめぐって、家斉と鞘当てをした前歴もあるからだ。家齊は唐橋に懸想したが、彼女は「お清」(貞潔)であるべき職にあったので、大奥の秩序観を尊重して思いを遂げることはなかった。家斉にはその位のたしなみがあった。しかし、文化十一年(一八一四)、峯姫が水戸藩主・斉脩(なりのぶ)に嫁いだ後、家を継いだ斉昭は唐橋と通じて懐胎させる事件が起こった。峯姫は家斉ともども怒り、唐橋を京都に差し戻した。この顛末は大谷木醇堂の筆が断然冴えている。祖父・藤左衛門が峯姫用人(のち二之丸留守居)であり、斉昭の不品行をつぶさに見ていたからだ。かつてなら将軍の命を拒み斉昭の「迫って説く」にも簡単に応じなかったのに、今度の唐橋は斉昭の「黄金及び諸品を贈送」され熱心な書状にほだされ京から戻ったというのだ。醇堂は「心中甚だ怪むべし」と語りながら、斉昭と唐橋は「同窟の怪物なるも知るべからず」と、女心の不思議さを推測する。下世話にいえば「一つ穴のムジナ」というところだろうか。醇堂の寸評は皮肉めいている。「二公の面、敢て伊勢物語に出たる好男子にも似ず」。将軍も斉昭も在原業平のような美男でもないのに、とはよほど唐橋に美女の誉れが高かったのだろう(『燈前一睡夢』、三田村鳶魚編『鼠璞十種』下巻所収)。齊昭の寵臣で水戸学の大家・藤田東湖の『丁酉日録(天保八年)』三月十六日条には、「官女唐橋病気の事也」とわずかに消息がみえる。

 男女の別にうるさく質素倹約を説いた齊昭が唐橋には多大の金品を贈与して歓心を買ったとは笑える話ではないか。しかし、「唐橋迫奸事件」は斉昭の江戸城大奥での評判を悪くした。自分の非分を棚に上げて斉昭がしたような事柄にやかましいのが大奥というものだった。大奥の斉昭評を決定的に悪化させたのは、どうやら、嗣子・慶篤(よしあつ)の正室・線姫(いとひめ)・線宮(いとのみや)こと幟子(たかこ)にも「迫奸」をして、二十歳で「変死」「自裁」に追いこんだという風説である。これを大奥による醜聞づくりや捏造と見なす説もあるが、完全に否定しきれないあたりも斉昭の不徳であろうか。「迫奸」といって「強姦」と言わないのは、たしなみにすぎない(「水戸侯斉昭の内寵」『三田村鳶魚全集』第一巻)。現代人の感覚では、二十一腹・五十五子を数えた家斉と、十腹・三十七子を設けた斉昭との間にさほどの懸隔があるとは思われない。むしろ斉昭には、一個の人間としてみれば、人倫の道にもとる「エスプリ・ザニモー」(esprits animaux 動物的精気)に溢れているのではないか。斉昭が大奥の女性に嫌悪されたのは、水戸学でいかに天下国家を堂々と論じようとも、好色のエスプリ・ザニモーがその藤田東湖にすら諫言される領域に達していたからだ。「公、平生聊か女色に過くるものあり、余窃に公の為めに之を憂ふ、一日直諫して曰く、公の齢既に高し、若し色に過るものあらハ、恐くハ賢体を害するあらん、臣願くハ少く之を節し給はんことを、と」(海江田信義述『維新前後実歴史伝』一)。

 それでいながら斉昭が残した女訓ともいうべき『景山女誡』などは、大奥の女性にますます忌々しく、不評の種になったであろう。それというのも、斉昭は、「上臈老女」など女子が表向のことに口を出さぬように繰り返し説いているからだ。「女子ども政事の権をとる時は国中領中の乱れと成って万人の嘆き事昔より其例少なからず」。高貴の男子が「血脈」を絶やさないために「その妾媵(しょうよう)を多くめしつかひ血脈をひろむる事」が肝要だというのは、大奥の女性も理屈では分かるにせよ、斉昭から言われると癪なのである。「女子はかならず一人の君夫を天と仰きてあだし心なく貞節を守るべき事」が「人倫の本」として肝要だと言われても鼻白む思いをしたに違いない。女性の貞節を力づくで奪う斉昭を生理的に嫌うおぼえはないという瞋恚のほむらは消しようもなかったのではないか(『景山女誡』は関口すみ子『御一新とジェンダー』を参照)。しかし斉昭も唐橋の問題に限らず、自分の奥向には苦労している。天保八年に奥御殿の老女・中園の欠員を補うために亀井を任命してほしいとしきりに奥向から斉昭の側用人に催促があった。藤田東湖は「後宮の人別去年以来減少せしを未だ一年ならですぎざるに又元に復するは以の外よろしからざる」と老女たちの書付を突き返している(『丁酉日録(天保八年)』四月十五日条)。

 幕府政治に影響を及ぼす政治要因としての大奥は、後の将軍家定の継嗣問題で徹底して水戸斉昭を嫌い抜き一橋慶喜を排除することで、紀州慶福(家茂)を押し上げる原動力となった。渋沢栄一も回顧するように、家定の生母・本寿院はじめ「奥向に勢力を張れる婦女等は皆烈公を忌むこと甚しければ、公の西丸に入るを喜ばざるは疑ふ所なし」と斉昭を嫌悪した(『徳川慶喜公伝』1)。大奥にとって、人間味からすれば烈公斉昭よりも家斉の方が面倒臭くなく、斉昭のエスプリ・ザニモーは疎ましく感じられたのだ。

 大奥を敵に回した結果、政治目標の達成に失敗した例が御三家の水戸徳川家だとすれば、巧妙に大奥を通して将軍を動かし、網の目のように張りめぐらされた閨閥を効果的に使ったのはむしろ外様の薩摩藩島津家であった。「親玉の女房は丸屋(の)娘なり」という駄句がある(『甲子夜話三篇』6、巻七十四の二十七)。丸屋は丸に十字の島津の紋所を指している。島津家は、二度も将軍の正室(御台所)を大奥に送り込んだ。家斉の室となる篤姫こと茂姫は島津重豪の実娘であり、第十三代将軍・家定の室で同名の篤子は島津斉彬の養女である。ただし二人とも近衛家の養女として、それぞれ寔子(ただこ)と敬子(すみこ)と改名し将軍家に嫁いでいる。将軍家斉の舅になることで島津重豪は、表や奥といった正規の意志決定や伝達ルートと異なり、寔子が関与した「御閑道御通路」(非公式ルート)を築き上げ日常的に交渉の窓口として活用した。取次として働いた森山りさは、島津家の用件を妹の御台所付中臈嘉恵(かえ)、のちの中年寄・嶋沢につなぎ、家斉か寔子に必ず用件が達する仲介役を演じた。りさは仲介の役割や筋道を「閑道取次」や「糸引き」と称した。「閑道」とは間道つまり抜け道や脇道という意味であり、寔子が実家の島津家に将軍の内意や幕閣・各大名の大奥手入れの情報を秘かに伝える裏ルートにほかならない。かえが文政八年に関わった「閑道取次」によって、寔子は島津家の家格上昇、幕府による財政支援、各大名家との縁組などを周旋することができた。りさや嶋沢(かえ)は、この連載でも何度も登場した旗本・森山孝盛の娘である。大田直次郎(蜀山人)を学問吟味で落とした昌平黌・啓事の森山源五郎のことだ(畑尚子『島津家の内願と大奥』)。

 文政八年(一八二五)頃の島津家は、藩主斉興が芝の藩邸、隠居の齊宣(渓山)が白金屋敷、「老大君」こと大隠居の重豪(栄翁)が高輪屋敷に住んでおり、維持費や重豪の従三位昇進の工作資金などで手許不如意であった。文政末から天保初にかけて、薩摩藩の負債は三都・奈良・領内合わせて五百万両に及び参勤交代費用の調達にも苦労し、江戸在番への給料は十三か月も滞ったと言われるほどだ。調所笑左衛門広郷が借金証文を回収して、山師顔負けに二百五十年賦無利子の支払いで料簡させたのは有名である(芳則正『調所広郷』。池田俊彦『島津斉彬伝』)。島津家の極位極官は従四位上左近衛中将であったのに、重豪に正四位参議を越階して一気に従三位を望んだ。水戸徳川家と同じ位階である。「御用弁御糸引(閑道取次)あいつとめ候内、老大君三位、御昇進御願(おねがい)候義、白かね様(齊宣)御発顔ニて仰せ上げ候」(森山利佐子『風のしるへ』)と、りさが記すように、寔子と齊宣との連携があって実父の昇進が叶ったのである。また、二万石の八戸南部家に重豪の子・信順を養子に入れ、無城の家格を城主格に上昇させた背景には、森山姉妹のりさと嶋沢の活躍が隠れていた(『風のしるへ』)。

 重豪は文政五年十月に吹上御庭の見物が許されている。将軍と家族の憩いの空間には老中や寵臣でさえ滅多に入ることができない。庭づくりは家斉の若年からの趣味と生きがいであった。或る日、松平定信が家斉の作庭を見て感心もせず、将軍の庭とは日本全国の名所旧跡すべてをいうのであり、「かくのことき御小庭を造らせ給ふて、御喜ひとハいかなるものそ」と諫めて閉口させた(「雨窓閑話稿」『松平春嶽全集』第一巻)。似たような逸話は松平信明にもあり、「天下国家を治め給ふ御身にては、海内の山岳滄海みな御庭も同じことなり」と直言したという(『文恭院殿御実紀附録』巻一)。

 寔子が家斉への進上物も贅沢でなく中程度でよいと島津家に助言したのは御台所なればのことだろう。将軍は自分の所有物が世の中でいちばんよく、「人のハわるい」と考えるたちだとは正室でなければ言えない。中野碩翁が家斉に珍味でなく大福餅や四文菓子などを時々贈って喜ばれたのと同じだろう(『想古録』2、一一四一)。十月十三日重豪訪問の前日、家斉はひともしごろまで吹上のしつらえを監督し、舅への下賜品を一人で長持に詰め込むほどの熱の入れ様だった(崎山健文「武家から輿入れした御台所」『論集大奥人物研究』)。他方、島津家当主・豊後守斉興は老人の重豪の小用を心配していたところ、幕府は吹上に入るまで坂下門と紅葉山下門の番所に「小用所」があると「心得」を知らせる丁重さであった。

 明六つ(六時)に高輪屋敷を出発、坂下門から御城御殿に向かわず、じかに蓮池通りを経て紅葉山下門、吹上矢来門を通り御成御門で小納戸頭取中野播磨守清茂(石翁)や奥医師三名らの迎えを受ける。吹上御門より御花段・御馬見所を抜けて瀧見御茶屋、御鳥籠、御茶屋前から沢渡をして滝壺前を通り、菩提樹山・地主山の高台からなだれ坂中ほどまで下る。そして、植木屋御茶屋、次いで諏訪御茶屋、沢渡により土筆山・珊瑚山の通りから、元馬場・元御花壇・新馬場の御馬見所などを巡って土橋から新御茶屋に暇を告げて半蔵門から退出という道筋であった。追々各茶屋では御鷹のとらえた白鳥、沈南蘋・狩野探幽・養川院惟信・伊川院栄信などの絵画、茶所には藤原定家筆の色紙、千歳の壺、霰釜、縄簾の水指、三嶋刷毛目(はけめ)茶碗、星肩衝の茶入などの名品が惜しみなく飾られ、瀧見御茶屋・地主山御亭・諏訪御茶屋・御構御茶屋の四か所で供された贅沢な食事や拝領物は、薩摩藩史料の「御道書写」に詳しい。晩景に及んで夜食を家斉と御台所・寔子から供された後、半蔵門から退出、挑灯をつけて五つ(午後八時)に帰宅した(『旧記雑録追録』七、一八六九、一八七五)。

 重豪は吹上の印象を詳しく語っていないが、おそらく四年後の文政九年四月につぶさに観られた目付・新見伊賀守の感想と変わらないだろう。新見は庭について「かぎりなくきよらかにつくりなされて、山のたたずまゐ水のこころばへまで、げに世に似ぬさまなり」と描いている。定信や信明の両松平が老中の時には、奢侈を戒め土木工事を伴う改造を止めさせたが、二人が隠退すると滝も大きくなったと。「滝のさまもありしよりはこよなく高く落て」いる様を詠んだ歌は、それだけで吹上の土木改造をしのばせるものだ。「やま高み水上遠くつたひ来て千代くりかへす滝のしらいと」。重豪の史料に出てくる山の名と違うが、連理という山からは竹芝の浦もまじかに見える眺望であり、櫨山・桜山そして新築の仮山などは、むかしと違う様に作り替えられた。以前の名ごりを留めるのは見盤山くらいだ。家斉は盆栽や花卉にも並々ならぬ造詣を誇ったようだ。唐金と石の大きな水盤に「へご」(木生シダ)と細かい木草を植えたものを置き、斑(ふ)入りの水なぎ(水草のミズアオ)を入れた水おけを池に埋める工夫を凝らしただけでない。五葉の松などの盆栽、松葉蘭、珍しい木草を数多く壇に並べたものだ(『甲子夜話』6、巻九十七の一)。

 このように、将軍の岳父という立場から、薩摩藩の仕入れる幕府情報の精度は高く、抜荷(密貿易)めいた琉球貿易への目こぼしの匙加減も分かろうというものだ。江戸城中で薩摩藩主の控えた殿席も大広間から大廊下(下之部屋)に格上げされ官位も上昇したのは、他の国持大名からすれば癪の種であった。それでも家斉息女の溶姫を嫁に迎えた前田や、中将任官運動を華々しく繰り広げた伊達には、外様大大名としてまだ意地を張る余裕もあった。しかし、課役負担を言い渡す前に上納金を自発的に言い出す方が薩摩藩には得だと側用取次の土岐豊前守朝旨(ともむね)が島津に耳打ちするのも島津には得意満面でもある。今年あたり八万何千両かの御手伝を申し付けられる筈だから先んじて十万両の「御上金」を申し上げれば「差引わつか」で公儀の覚がめでたいと助言されるのは「台の上の御光り」(御台所の御威光)というものだ。ここいらが「御側近き女中なそのふり合とハ大違」だと、「御召仕」と蔑んだ家斉の側室・お美代の動きにあてつけているのだろう(『風のしるへ』)。そのうえ、重豪が文政三年八月に藩政後見を辞し名実ともに隠居になって以来、御台所は重豪が「御老年につき」御納戸金から内々に三百両を下賜した。これは、御台所付老女の花町や梅園ら四人の名で毎年正月に贈られる習わしとなった(『旧記雑録追録』七、一七八八、一八三一)。

 御台所と島津家の縁故だけなら、まだ諸大名も見逃せるかもしれない。しかし、「続柄」(つづきがら)や「続合」(つづきあい)と呼ばれた将軍子女の縁組先大名への拝借金の貸与、加増や有利な領知替、家格の上昇が続くなら平静でいられない。そもそも、家斉の子女を受け入れた家が依怙贔屓を受けるとなると、幕藩体制秩序の動揺や否定にもつながりかねない。拝借金とは、領内凶作・自然災害・居城江戸屋敷火事など金子を必要とする大名・旗本を救済する公儀の恩恵的金融制度であったが、文化八年(一八一一)には原則として認めないことになった。幕府の財政赤字を解決するためである。それでも、文政元年(一八一八)から天保十年(一八三九)の二十二年間に五十八件の拝借金が認められ、そのうち約半数が「続柄」による貸与である。それは万やむを得ない貸与とはいえず、「おねだり」を叶えたものだった。家斉第五十三子斉省(なりさだ)を養子として迎えた川越藩松平家は、天保四年に養育費として七千両、同六年に御目見経費として五千両、同十年に財政窮乏を理由に一万両と潤沢な拝借金を受けた。福井藩・松平斉善(なりさわ 第二十二男)は天保八年に上屋敷火事を理由に二万両、同年中には不作で一万両、翌九年には養父正室の御殿普請のため一万五千両を拝借している。当時は財政が窮乏していない藩などはありえず、外様譜代を問わずに「続柄」というだけの理由で拝借するのは公平とはいえない。そもそも幕府に潤沢な財源があろうはずもない。そのうえ、「続柄」の大名には加増や栄転も多かった。津山藩松平家に五万石、福井藩松平家に二万石、三方領知替とともに家齊二十五男斉宣の明石藩松平家に二万石が加増されただけでない。家斉の第十八男の斉温(なりはる)・第十一男の斉荘(なりたか)が田安家を継いだ後に二代続けて養子となった尾張徳川家は、落首が示すように家臣団に不満も多かった。「田安から親子づれして乗こんで果報やけして今にくたばる」「田安くは親の威光で美濃尾張無理な家督は本の国勢」(『江戸時代落書類聚』中巻)。これをだまらせるために、十万石の領知に匹敵するといわれた近江八幡町五百五十八石が美濃の千六百九十七石の上知と引替で与えられたのだろう。また、上州館林の松平武厚が豊かな石見浜田に移封されたのは、第十九男の斉良(なりまさ)を養子として引き受けたからだ。

 天保十年になると世に大名の国替話が流布した。川越の松平斉典(なりつね)は将軍の子・斉省を養子に迎えて旧国の姫路を望んだが失敗したので、代わりに画策した庄内を取ろうとした。家斉の娘・喜代姫が入輿した姫路は松山を欲しがり、松山藩士たちは大いに恐れたという。庄内の酒井忠器(ただかた)は酒田七万石を残して荘内七万石を上知しようとしたが願いは叶わなかった。最後に、家斉の子・斉民が養子に入った津山はかつて津軽を欲しがり、いまは高田を望むという話がまことしやかに囁かれていた。続柄でもなければとても噂に上がるはずもない(『三川雑記』天保十年己亥)。

★次回に続く。

■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。 

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください