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60万人を救った医師・中村哲さんがアフガニスタンに遺した「道」

「水」を引いて60万人を救った人――昨年12月4日、アフガニスタンで武装勢力に襲われ命を落とした中村哲医師のことだ。中村医師が遺したものとは何だったのか。交友があるノンフィクション作家の澤地久枝さんがその功績を語った。/文・澤地久枝(ノンフィクション作家)

バブルの余韻がある時代に

 人間の体はこんなにも震えるものなのか――。

 私が中村先生の訃報を知ったのは、朝日新聞記者からの電話でした。アフガニスタンで何者かに襲撃され、怪我をされたと聞かされました。命に別状はないとのことだったのに、話の途中で同僚からメモでも差し入れられたのか、突如、記者の声が一変しました。

「先生が亡くなられました」

 その途端、つま先がガタガタとふるえて、それが全身に広がったのです。あまりに予期せぬことが起きたとき、自分の肉体がどんな反応を示すのか。生まれて初めて知りました。

 中村哲医師、享年73。
 昨年12月4日朝、灌漑工事の現場に向かう途中、武装勢力に襲われ、命を落とした。
 終戦翌年、福岡県に生まれた中村さんは、1984年からパキスタンとアフガニスタンで難民への医療支援に尽力してきた。医師としてだけでなく、「100の診療所よりも1本の用水路」という信念の下、井戸を掘り、用水路建設を進め、人々の支援に努めてきた。2003年には、長年にわたる貢献が認められ、「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイ賞を受賞した。
 澤地氏は、2010年に中村さんの発言録『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』を上梓するなど、その活動を陰から支えてきた。澤地氏が中村さんへの思いを語る。

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中村医師

 中村先生を具体的に知ったのは、1997年です。私がスタンフォード大学に滞在しているとき、山一証券が破綻しました。当時は、バブル経済の余韻が残っていて、日本人が世界中で威張り散らしていた時代です。ところが、山一の社長が記者会見で号泣する映像が報じられると、アメリカの学生たちがいっせいに笑ったのです。

 海外で日本がどう見られているのかを目の当たりにし、日本の外から「日本」というものを見つめなおすようになりました。そんな時、メディアを通じて中村先生の活動を知ったのです。危険を顧みず、紛争地の人々のために尽くしている。こんな日本人がいるのか、と。

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澤地氏

 ようやくお目にかかることができたのは、それから10年以上経った2008年8月。思ったよりも小柄で、とてもゆっくり話をされるのが印象的でした。それ以来、帰国されるたびに講演会の楽屋を訪ねるなど、お目にかかってお話をうかがってきました。

港湾労働者の世界に生まれて

 中村先生の原風景は、荒々しい港湾労働者の世界です。祖父は若松港(現・北九州港)の沖仲仕(おきなかし)を取りしきる「玉井組」の組長、玉井金五郎。彼は、作家の火野葦平の父親でもあります。葦平の作品『花と龍』は、沖仲仕の労働争議を描いたものですが、これは両親を主人公とした玉井一族の伝記的小説でもあります。

 先生は伯父に当たる葦平のことをよく覚えていました。玉井一族を支えたのは、葦平の文筆業。大家族の生活を支えるために多くの仕事をこなさなければなりませんでしたから、家族と話をしている途中で、編集者に「原稿の続きを言います」と電話をかけたこともあったそうです。つまり、しゃべりながら小説を作っていたわけで、子どもだった先生は「脳の中で、小説を書く部分と会話する部分が分かれている。ものすごい才能だ」と思ったそうです。

 父・勉は葦平の友人であり、戦前、治安維持法下で労働運動を行い、投獄されたこともあったといいます。母は葦平の妹で、両親は労働運動を通じて知り合ったそうです。2人とも大酒飲みで、1晩で1升瓶が2本空いたといいます。先生自身は「飲兵衛の酔態を嫌というほど見てきたから」と、1滴もお酒をお飲みになりませんでしたが。

 先生の幼い頃からの夢は、ファーブルのように虫の研究をしながら田舎で暮らすことでした。

 ただ、お父さんの口癖は、「世の中のお役に立たなければいけん。お前はそのために生まれてきたんだ」です。昆虫学者が夢といっても、反対されることはわかりきっていましたから、九州大学医学部に進学しました。入学当初はまだ、昆虫学科に転部する希望を持っていたのですが、お父さんが借金をして高価な医学書を揃えてくれたことがわかり、医師になる決意をされたそうです。

家族を連れてパキスタンへ

 先生は両親の勧めもあって、中学時代にミッションスクールに通い、洗礼を受けています。これが、先生を中東の地に導きました。1982年、福岡県の病院で働いていた先生の下に、日本キリスト教海外医療協力会からパキスタンのぺシャワール赴任の依頼が届いたのです。

 先生は当時、生まれて間もない長女と長男を抱えていました。医療の恩典のまったくない土地での仕事に惹かれた先生の決断は、「ともに行く」と言われた夫人の決心に支えられています。ペシャワールへ幼い子をつれてゆかれた夫人の勇気は比べるものもありません。

 ある時、私が、「奥様に『ありがとう』っておっしゃらないんですか?」と尋ねると、冗談交じりに「そんなことを言ったら、家内は私を病院に連れて行きますよ」と。異国に暮らしていてもやっぱり九州の男性。感謝しても、言葉に出して伝えないんでしょうね。

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 1984年に家族4人揃って赴任することになりましたが、先生は、現地に溶け込むための努力を惜しみませんでした。まずは髭を長く伸ばし、パキスタンの伝統衣装、チトラール帽をかぶった。現地ではこの2つがなければ変人だと思われるからですが、後に先生のトレードマークになりました。また、「とにかく相手が何を言いたいかわからなければ、どうにもならない」と、現地で語学学校に通い、公用語のウルドゥ語やパシュトゥー語を学びました。

 赴任した当初は、ハンセン病の治療に当たりました。ただ、ハンセン病の多い地域は結核やマラリアなど、感染症の巣窟で、あらゆる病気を治療しなくてはなりません。

 しかも、アフガニスタンやパキスタンは3000m級の山々が聳(そび)え立ち、高地にある集落は無医村ばかり。ある村に診察に行くと、周囲の村が評判を聞きつけ、何日もかけて先生の下に治療のお願いにやってくる。ある日、先生が「薬が無くなった。帰らないといけない」と伝えると、ガックリと肩を落としてお年寄りが去っていったそうです。その後ろ姿が目に焼きついて離れないとおっしゃっていました。

 パキスタン赴任の前年には、先生の活動を支えるために、親しい友人らによってNGO「ペシャワール会」が設立され、アフガニスタンにも拠点ができました。

まず、水がなければ

 次第に医療活動は軌道に乗り始めましたが、2000年になると、先生は医療の「限界」に直面します。

 きっかけは、この年にアフガンをおそった大干ばつでした。飢餓状態にある者が400万人、餓死の恐れが100万人という凄まじい被害が予想された。汚い水を飲まざるをえないので、赤痢や腸チフスにかかる人も続出しました。とくに、子どもたちは下痢が原因で次々と命を落としていった。いくら点滴で水分を補給しても命を救うことはできません。人が生きるには、まず水がなければならないのです。

「病気はあとで治せる。ともかくいまは生きておれ」

 これが、先生が辿り着いた答えでした。

 アフガニスタンは元々、豊かな農業国です。先生は内戦で荒れ果てた農地を訪ね歩いて、「水さえ引けば、農業は復活する」と確信を持ちました。こうして、井戸や用水路建設に踏み出すことになったのです。

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独学で用水路を整備

 ただ、現地に用水路を造れる土木技師は1人もいません。先生は独学を重ねて自ら設計図を描けるまでになりましたが、その過程で日本古来の技術も学びました。帰国するたびに九州各地の用水路や堰を調査して、江戸時代の工法を学び、アフガニスタンにとって最適の技術を模索していったのです。

 その1つが「蛇籠(じやかご)」です。これは、袋状にした針金の中に石を詰めたもの。通常はコンクリートで護岸するところに、無数の蛇籠を積んで用水路を造り上げました。いずれはアフガンの人たちだけで維持・管理ができるように、現地でも調達しやすい資材を使い、工法も簡単にしました。

 ときには、自らショベルカーを運転して工事の最前線に立ちました。とにかく、泥臭く、これが先生の働き方だったのです。

「皆さんから『大変ですね』という言葉をかけられるのですが、現地にいるほうが、心やすらかだ」とおっしゃっていました。「お日様と一緒に起きて、暗くなるまで汗を流して働くことで、今日も1日頑張ったなと幸せを実感できるのだ」と。

 とはいえ、こういうお話も伺いました。3000mを超える山岳地帯を馬で移動中、鐙(あぶみ)に足が絡まったまま落馬して、宙吊りになったそうです。それでも馬は走り続ける。頭を引きずられて死んでしまうと思ったとき、「あ、これで楽になれる」と思われた。

 この頃から、中村先生の活動を知って現地で働きたいという日本の若者が増えていきました。ところが、彼らは、「世界の趨勢は……」と頭でっかちな議論ばかりしたがるそうです。先生は、彼らの話を「ウン、ウン」と聞きつつ、まずはスコップを握らせて肉体労働をさせる。すると、彼らも次第に泥にまみれて仕事をすることの尊さを理解するそうです。

 2007年にはアフガニスタン国内で最大の水量を誇るクナール川から水を引く用水路の1次工事が完了しました。水路が通って農地で作物がとれるようになると、どん底に生きていた何万人もの難民が帰ってきました。

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 家族揃って日に3度の食卓を囲み、平和であること。それが人々の願いです。子どもたちは用水路で水遊びをし、皮膚病が減ったといいます。用水池に住み着いた魚を揚げる店もできたと先生は嬉しそうでした。緑の大地計画はさらにひろがっていったのです。

「精神的支柱」を復興

 わずか3回のインタビューで『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』を先生との共著で出したのは、印税を先生に送って活動を支援したいとの思いからでした。この本を売るべく、力を尽くして、初版から18版まで、4万部を超えたと思います。先生の逝去後は20版になりました。しかし、御夫妻はみずからのことを語らない方たちで、御家族に触れた部分は本の最終のゲラで、30頁くらいカットされました。

 ある年、福岡のペシャワール会からどさっと荷物が届き、糖蜜(砂糖大根などの汁を煮つめた砂糖の最初の形)が送られてきました。先生のお気持ちだったと思います。苦しみながら水路を掘りすすめて、農地がよみがえり、こういうものさえできるようになったという、先生の「結果」報告と思いました。

 先生が「水路と同等に重要」とおっしゃっていたのが、荒廃したマドラッサの復興でした。教育施設でありながら、宗教施設としての性格を持ち、各地域をまとめる長老たちが集まる地方自治の拠点。人々にとって精神的支柱のような存在です。

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 マドラッサの鍬入れ式では、集まった各地域の村長さんたちが、「これで自由になるぞ!」と水路の完成以上に大喜びしたそうです。水がなければ人は生きていけませんが、人間が人間らしく生きていくためには精神的な支えが不可欠。アフガンでは、長老会議ですべてが決まる。先生はそれをよくご存知だったんですね。

 アフガニスタンを一変させたのは、2001年のアメリカ同時多発テロでした。アフガニスタンのタリバン政権が首謀者であるウサマ・ビン=ラディンを匿(かくま)っているとして米軍の空爆が始まりました。

 ペシャワール会は爆撃下での活動を強いられ、用水路工事のすぐそばを米軍のヘリコプターが編隊飛行する光景が日常茶飯事になりました。先生が命の危機に直面したのも1度や2度ではありません。

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 ついには、流れ弾が脚に命中しました。骨の表面をかすめたと聞いたので、「さすがに入院されたんですか?」と尋ねると、「いや、私が医者なんで」と。なんと、麻酔を使わずに自分で傷口を縫い合わせたそうです。「注射が嫌いだから麻酔をしなかったんでしょう」と言うと、はじめは、「そんなことはありません」と言っていましたが、しつこく尋ねると、「やっぱり、注射は痛いですから(笑)」と本音が。いまとなっては、こういう楽しいやりとりばかりが思い返されます。

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