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ノーベル賞・本庶佑さんが教える「がん免疫療法」を正しく理解する方法

 2018年、京都大学高等研究院・副院長の本庶佑氏(78)は、免疫抑制の阻害によるがん治療法の発見により、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。

 がん細胞は、私たちの身体の免疫の働きにブレーキをかけることによって、自己増殖を可能にしている。本庶氏らは免疫の機能を抑制する受容体「PD-1」を発見。これが免疫チェックポイント阻害剤「オプジーボ」の誕生につながった。これまでの抗がん剤では、数ヶ月の延命が限界だった進行がんでも、オプジーボで完治するケースが続出。本庶氏の研究は、がん治療の常識を根底から変えたと評価されている。

 一方で、科学的な有効性がまったく立証されていないがん免疫療法が、高額な自由診療で行われているという現実もある。疑似科学的な療法でも「がん免疫療法」という旗印を掲げていることから、勘違いしてしまう患者も多い。

 私たちは科学的リテラシーをどう涵養し、医療情報に向き合うべきなのか? 本庶氏に意見を聞いた。/文・本庶佑(京都大学高等研究院副院長・特別教授)

日本の「科学リテラシー」が危ない

 医学は曲りなりにもサイエンスですから、ある治療法や薬が特定の疾患に対して有効だということを立証するには、エビデンス(科学的根拠)が必要です。たとえば、ある疾患について、Aさんには有効な治療法がBさんでも有効かどうか、治癒する確率は何パーセントなのか……こうした数値を、綿密に調べなければなりません。

 エビデンスを取るためには、何百人という患者の対照群を用意し、ある治療法を施した群と施さなかった群の比較臨床試験を繰り返しおこなう必要があります。実験対象となる生物には、個体差がありますから、ランダム化比較試験も欠かせません。そうした追試に耐えて有効性が確認されて、初めて「エビデンスがある治療法」と呼ばれるのです。

 日本人の健康意識は高まっていて、テレビをはじめとするメディアでも健康に関わるテーマが取り上げられることが多くあります。しかし、エビデンスというものを理解せずに情報が垂れ流されているのは、非常に残念なことです。

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本庶氏

 たとえばNHKの『ためしてガッテン!』に代表されるように、医療をテーマに実験的なことをやる番組が多くあります。肩こりの類から深刻な生活習慣病まで、テーマは様々です。

 ところがこれらの番組では、数人を実験対象とし、そのうち4、5人が「これで調子が良くなった」というだけで、視聴者を納得させようとしている。これはエビデンスと呼べるようなものではありません。実験対象となった人の気分や当日の体調次第で結果が変わる可能性もあるし、わずか数人程度の実験で、一般化できるようなデータが取れるわけがありません。こうしたメディアの姿勢は、日本社会における「科学的なリテラシー」を著しく損なっていると、私は危惧しています。

 あるいは、世の中に出回っているがん治療に関する書籍のなかには、まったく科学的根拠のない、嘘ばかり書いている本も数多くあります。しかしながら、私たちの社会は言論の自由が保障されていますから、それらを出版禁止にすることはできません。自由主義社会では、それをいかに読者が選別するか、あるいは知識人がきちんとそれに警鐘を鳴らすかというかたちでしか、自浄作用は期待できません。

 私たちは、基本的な科学的知識の涵養を通じて、科学的リテラシーを高めていくことが重要なのです。

 以下、がんと免疫についての事例をもとに、科学的リテラシーについて考えてみましょう。

がんは免疫にブレーキをかける

 がん細胞を、私たち自身の免疫によって叩こうという発想をもとにした研究は、昔からありました。とりわけ、免疫の「アクセル」を目いっぱい踏むことで、がん細胞をやっつけようという研究は、あらゆる実験がやり尽くされてきました。

 たとえば患者さんの血液を取って、免疫細胞を試験管で培養して増やしてから体内に戻す「免疫細胞療法」というものがあります。これは非常に長い歴史があり、多くの研究がなされてきました。しかしながら、明確な有効性は証明できていません。

 このほか「ペプチドワクチン」「樹状細胞療法」「サイトカイン療法」など、さまざまな免疫療法が何十年と研究されてきましたが、どれも結果としては「効かない」というエビデンスがあるだけです。

 そのため、「免疫学者は嘘ばかりついている」とがん治療の研究者からは言われ、誰も免疫でがんが治るなどとは考えなくなっていました。

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 しかし、私たちは、従来とは全く違う発想をしました。

 じつは免疫細胞には、体内の異物を攻撃するかどうかを点検する検問所(チェックポイント)のような機能があります。このチェックポイントには、免疫の暴走を防ぐための「ブレーキ」があります。がん細胞は、この仕組みを悪用し、免疫細胞のブレーキをかけることができるのです。これでは、いくら免疫のアクセルを強く踏んでも、がん細胞をやっつけることはできません。

 私たちは免疫細胞の「PD‒1」という受容体を発見し、これが免疫のブレーキとなっていることを解明しました。がん細胞は免疫細胞のPD‒1のスイッチを入れ、自らを攻撃しないようにしていたのです。

 ならば、免疫のアクセルを踏むのではなく、がん細胞が免疫チェックポイントのブレーキを悪用できないような薬を作ればいい――そのような発想をもとに開発されたのが、免疫チェックポイント阻害剤「オプジーボ」です。

 PD‒1のほか、アメリカのジェームズ・アリソン教授(テキサス大学。本庶氏とノーベル賞を同時受賞)らの発見した「CTLA‒4」という受容体も、免疫にブレーキをかけていることがわかっています。

 このようにして生まれたPD‒1抗体、PD‒L1抗体、CTLA‒4抗体などの免疫チェックポイント阻害剤は、従来のがん免疫療法とは全く異なるものです。そして、がん免疫療法のうち、科学的に有効であると判定された初めてのケースとなりました。

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 さらに最近、日本で承認されたがん免疫療法に、「CAR‒T療法」というものがあります。これは免疫細胞のT細胞を体外に取り出し、がん細胞の目印を見分ける遺伝子を入れて増やしてから体に戻す方法ですが、従来の免疫細胞療法とは明確に区別されています。また、CAR‒T療法が有効なのは、白血病やリンパ腫などの血液がんのみで、他の固形がんに対する有効性は立証されていません。「がん免疫療法」とひとくちに言っても、チェックポイント阻害剤と、作用機序は大きく異なることにも注意して下さい。

 また、これらのがん免疫療法とはまったく異なる、エビデンスのない免疫細胞療法なども、広義には「がんの免疫療法」と呼んでいる人がいることに、十分気をつけなくてはなりません。

科学的に「有効」と言うためには?

 がん免疫療法の歴史をたどれば、過去には「BCG療法」や「丸山ワクチン」がありました。これらは「効いている」と言う患者さんもおり、ひょっとしたら実際に効いていたのかもしれませんが、その有効性について、客観的データをもって示すことはできませんでした。

 その理由は、つねに同じ成分を調製することが非常に困難だったからです。BCGはウシ型弱毒結核菌をもとにしたワクチンですが、毎回少しずつ成分が違ってしまう。丸山ワクチンは、BCGの成分をさらに抽出したものと言われていましたが、科学的コンポーネントを記載することが不可能でした。今回と1ヶ月後に使用するものが同じである、という保証がなかったのです。これでは市販薬にはならないということで、承認されませんでした。

 丸山ワクチンの信者は、いまだに存在します。それは結局、医者に限界があるという部分と、患者も「鰯の頭も信心から」という部分にしか道が見えなくなっているからかもしれません。

 ただ、今日、エビデンスが確認されていないがん免疫療法の中にも、実際にがんが消えてしまった例が、1例か2例あったのかもしれません。そうした実例があったとしても、何ら不思議ではありません。

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 たとえば、私たちは日頃マウスを用いて実験をしていますが、なかには強力な免疫力をもつ個体がいて、何もしなくてもがんが治ってしまうことがあるのです。もちろん、がん細胞をどの程度打つのかといった条件は様々で、一概には言えません。通常、実験に用いるマウスは「純系」と言い、遺伝子が限りなく100パーセントに近い値で揃っている個体を何十匹も集め、同じ量の薬を打つ――こういう実験をするわけです。

 ところが、なかにはがんを完全に克服してずっと生きているマウスが出てくることもあります。生物というのは、それだけ個体差というか揺らぎが多いわけです。

 免疫の遺伝子が完全に破壊されているマウスでは、そういう現象は非常に起こりにくい。しかし、普通のマウスの個体だと、そのマウスに固有の免疫力が、がんをやっつけてしまうことがあるのです。これは実際、証拠として論文がいくつも出ています。

 ましてや人間の場合、実験に用いるマウスと決定的に違うのは、一人一人みんな違う遺伝子を持っているという点です。どれぐらい違うかというと、実験用マウスに比べれば「ものすごく違う」と言っていいレベルです。

 だから、Aさんで起こったことがBさんで起こるかどうか、その確率がどのぐらいかということを見極めなければなりません。それが「科学的」な思考法なのです。

 AさんとBさんに有効だった治療法がCさんでも有効だということを、何パーセントの確率で言えるか。そのためには、大規模な対照群を用意し、ランダム化比較試験を行い、一定の有意差を確かめなければなりません。

 そのような手順を踏んで有効性が確かめられた治療法でなければ、患者さんに有償で行うということには合理性がないわけです。

薬の規定用量を守るべき理由

 しかしながら、科学的に有効性が確認されたわけではない治療法を行う一部のクリニックが、現実には存在します。著名人が、有効性が定かではない自由診療を信じてしまった結果、ひどい目に遭ってしまったケースがニュースになることもあります。こうした事例は倫理的に問題がありますし、一般的に言って良心的な医師がやるものではありません。患者さんの不安心理につけ込むようなやり方は、非常によくないと考えます。

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 たとえば最近、インターネットに、オプジーボを規定用量より大幅に少なく投与している自由診療クリニックの広告があると聞きます。

 しかし、オプジーボの少量投与について、科学的な有効性は立証されていません。

 薬の規定用量は、エビデンスに基づいて決められています。たとえばオプジーボの場合、投与した後に血中に抗体がどのぐらい残るのかのデータをとり、薬理的な減衰曲線を描いて調べます。血中に抗体が一定量維持できるようにと、規定用量は決められているのです。したがって、規定用量の10分の1という極めて低い量で効果がでる可能性は、科学的な常識に照らしてみても、非常に低いでしょう。

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