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“東大女子”のそれから|豊田真由子さん

日本の大学の最高峰「東京大学」に初めて女性が入学したのは1946年のこと。それから75年――。時代と共に歩んできた「東大卒の女性たち」の生き様に迫ります。女子校として唯一、高校別東大合格者数トップテンに入り続ける桜蔭中学・高校で成績トップレベルを保ち、東大卒業後は厚生省(現・厚生労働省)に入省した元衆議院議員の豊田真由子さん(1997年、法学部卒業)にお話を伺いました。/聞き手・秋山千佳(ジャーナリスト)

◆ ◆ ◆

――豊田さんは過去のインタビューで、幼少期から自信がなく、自己肯定感の著しく低い子どもだったと仰っていましたよね。「著しく」と強調するほどかと驚いた記憶があります。

豊田 父がとても厳格な人で、常に謙虚であれと言われていたのと、昔ながらの男尊女卑思想だったので、ほめられた事がありませんでした。

――男尊女卑というと、女こどもは下がっていろ、みたいなことを言うのですか。

豊田 そうですね、「男の子が欲しかったのに」と言われていたので、私は三姉妹なんですが、みんな、ずっと申し訳ないという気持ちだったと思います。家庭を平穏にしなければ、両親を喜ばせなければと、常に思っていました。

――お父様は進学塾をされていたとか。

豊田 父は東大法学部を出て企業に勤めていたんですが、体を壊して辞めることになって、学習塾を始めたんです。子どもの私が言うのもなんですが、ものすごく頭のいい人で博識、家には数万冊の本がありました。何でも聞いたら答えてくれるので、頼りにはしていました。ただ、子どもと一緒に遊ぶというようなタイプではなく、少し大きくなってから、よそのお家を見て「えー、お父さんって遊んでくれるんだ、いいなー」と思ったりしました。

――お母様はどんな方ですか。

豊田 母は東京外語大を出てロシア語の通訳をしていたのですが、父と結婚してやめてしまいました。そういう時代ですよね。愛情表現が上手な人ではないですが、どんなにしんどいことがあっても、毎朝早く起きてお弁当を作り続けてくれました。私は両親からしたら姉妹で一番不器用で、一番勉強する存在だったと思います。

――一番勉強するというのは、勉強が好きで?

豊田 はい、三度の飯より勉強が好き(笑)。他の子がゲーム好きとかサッカー好きとか言うように、私は勉強するのが楽しかったんです。父が就寝時間に厳しかったので、夜は寝たふりをして布団の中にランプを入れて勉強をしていたくらい。私は寝相が悪かったから父が布団をかけ直しに来てくれたんですけど、その時は本を隠して。なぜそこまでしたかというと、一つは、知らなかったことを知るのが純粋に面白いから。もう一つは、死ぬまでの限られた時間で、学ばなければならないことはたくさんある、時間を無駄にできないと思っていたから。幼稚園くらいから父が子どもと論語を読むというのをやっていて、朱子の「少年老い易く学成り難し」のフレーズがすごく心に刺さったんです。

 そしてどこまでいっても、自分に満足するということはなくて。やればやるほど、知れば知るほど、探究すべき世界の大きさを前に、己の未熟さを痛感していました。陽気で活発な子でしたが、一方で「自分はなんてダメなんだろう」と、よく悩んで落ち込んでいました。

――感受性豊かな子だったんですね。

豊田 周囲の色んなことを敏感に感じ取って、考える子どもでしたね。小学校の同級生にすごく賢い女の子がいたんですけど、放課後は友達と遊ばないし塾にも行っていない。ある日彼女の住んでいるアパートの前を通りかかったら、その子が外で弟の世話をしながら洗濯していたんですよ。当時は教育格差なんて言葉も知らないけれど、結果的にそこで実感したんです。世の中は不平等で、自分の時間を全部勉強にあてられる自分は恵まれているんだと。その分、人の役に立てるように頑張ろうとその頃から思い始めました。

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豊田真由子さん(写真=深野未季/文藝春秋)

――中高は、女子校で唯一、高校別東大合格者数トップテンに入り続ける桜蔭中学・高校で。

豊田 同級生の4分の1くらいは東大に進学しましたね。先に大学の話からすると、大学に入って初めて、楽に息ができると感じました。私は口に出すと恥ずかしいんですが、まっすぐ過ぎるというか、不器用なところがあって、そういうところも含めて、素の自分をそのまま理解して、受けとめてもらえたというか。特に女の子。クラス約60人中11人が女子でしたが、女子特有の怖さや嫌らしさが全然なくて、「真由ちゃんの良さは分かってるから、だいじょうぶだよ」「周りを気にしすぎ。気を遣いすぎ」と。学食にいつも集まっていたクラスのメンバーたちは、今に至るまでずっと仲が良くて、特に数人の女の子とは、家族のように信頼し合っていますね。東大に入って何が一番良かったかというと、人との出会いです。

 中高の頃は、私も含めてまだ幼いですからね。桜蔭は、地域で一番の子が集まって来ているから、やっぱりみんな他人の成績とかを、すごく気にする。本当は、そんなのどうでもいいことなんですけどね。中学では定期試験で、各科目の授業中に、成績順に答案が返却されるのですが、私は昔から自分に対してとにかく厳しくて、最初に名前を呼ばれて例えば95点でも「どうしてちゃんとできなかったんだろう、ダメだなあ」と本気で反省する……今考えると嫌なやつですよね(笑)。親御さんの意向でしょうけど、色んな子のおうちに招かれて、「どうやって勉強しているの?」と聞かれました。せっかくのお呼ばれを断っちゃいけない、期待に応えなきゃ、と思うから、千葉から慣れない電車を乗り継いで、都内のあっちこっちのおうちに行って、疲れたりしてました。すごいねと言われたり、特別視されたりするのが、本当はすごく嫌で悲しかった。そして、そういう表面的に見ている人たちの感情というのは、ちょっと空気が変われば、ネガティブなものに転じかねないですよね。

――それを肌身で感じていたわけですか。

豊田 決して無理をしていたわけではないけれど、いい子であらねば、人の嫌がることを率先してやらねば、みたいな規範に則って、常に行動していましたね。6年間ずっとクラス委員をやって、中3の時には学校を代表して「日本私立中学高等学校連合会会長賞」というのをもらって、ますます、先生や級友たちの望む私でないといけない、そうでないと好いてもらえないと。元々自分に自信がないだけに、余計に追い詰められていったようなところがありました。私もみんなと同じがいいよ、と思って羽目を外してみたら、すごく批判されたこともあって、何をどうしたらいいのか分からなくなったりもしました。だから、大学で友人たちが、自分を理解してそのまま受け止めてくれて、ただあなたといて楽しいから一緒にいるんだよ、というのが、とてつもなくうれしかった。初めて居場所を見つけた感じがしました。

――だから東大に入ってから息をしやすくなったということですね。サークルは官僚を目指す人が多く集まる行政機構研究会などということで、入学時点で官僚になろうと。

豊田 それはもっと前から志していて、中1の頃には、官僚というか「公のために働く人になりたい」と考えていました。

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――厚労省を選んだ理由の一つは、大学時代に児童養護施設や障害のある子が通うデイサービスのボランティアをしたのがきっかけと別のインタビューで仰っていましたね。

豊田 はい。それと先ほどもお話ししたように、小学校は公立で色んな家庭環境の子がいたので、虐待されていたのかなという子もいて、当時から気になっていました。私自身、幸せいっぱいの家庭環境では決してなかったのですが、一つの教室にも悲しみや苦しみが満ちているなと学んだのは大きかったです。

――1997年入省の同期は何人ですか。

豊田 入った時は14人で、女は私1人。

――14人中1人!

豊田 でも上の世代はもっと大変でしたからね。この連載の赤松良子さんの回を読みましたけれど、(旧労働省しか女性キャリアの採用がないなど)その頃が最も男尊女卑的で、女性にとって「排除の時代」ですよね。次が、私たちの世代で「過剰順応の時代」。

――過剰順応、ですか。

豊田 男性社会の論理に順応できるんだったら入れてやるよという……。

――男性社会に同化して行動する「名誉男性」になれ、というような?

豊田 そうですね。私は男尊女卑が当たり前と思って育っているから全然抵抗がなくて、むしろ女であることで周囲に迷惑をかけては絶対にいけない、男性の何倍も働いて初めて認められると考えていました。月300時間残業や泊まり込みも、自己肯定感が低いから必要とされると嬉しかったのもあって、もちろん男性と同じようにやっていました。職場の飲み会では、今で言うセクハラもありましたよ。でも波風立てるのも良くないと思って、やり過ごしていました。考えてみれば、確かにこれも過剰順応ですね。ただ、男性ばかりの組織に「入れてもらった」以上、我慢すべきと思っていました。でも、厚労省では、皆さんに大事に育ててもらって、今もずっと感謝しています。

――そうした頑張りが認められてハーバード大学大学院への国費留学というのは、男性でも滅多にない立場ですよね。

豊田 人事や評価の面では役所は平等で、女性だから差別されていると感じたことはないです。ただそれは、ようやく私の代になってからで、人事課の方に「女性は、採用しても辞めてしまう。留学に出すと辞めてしまう。だから、あまり採用も留学もしてこなかったんだよ」と言われて。留学する女性は私で2人目で、しかも1人目の方はすぐ辞めてしまったと。もちろん、辞めるつもりなんてなかったですが、そうか、後進の女性たちに迷惑かけないように、がんばらなきゃな、とは思いました。民間はもっと大変そうでしたよ。東大の同級生で民間企業に行った女の子は、半分から3分の2くらいは割と早い段階で辞めていたと思います。企業も採用時は世の中が男女平等とうるさいから女性を採用するけど、戦力とは思っていないようなところがあったと思うんです。就職活動の時に初めて皆、男女って平等じゃないんだと思うんじゃないですかね。

――そうですね。就職活動で実感して、入ってまた実感してという。

豊田 そうそう、もちろんみんな頑張ろうと思って入社するわけですが、戦力と思われていない、期待されていないという現実に直面して、続けられなくなっちゃうんだと思います。皆優秀なのに本当にもったいないですよ。例えば新聞社に入った子は今は大学で教鞭を執っていて、都銀に入った子は資格を取って独立しています。あとは転職ですよね。

――97年卒の同級生でも、男性だったら恐らくそこまでの割合で転職していないですよね。

豊田 はい、今は転職も珍しくないですけど、あの頃は「えっ、会社辞めちゃうの!?」とびっくりされる時代ですから。

――なるほど。豊田さんも後に転身されますが、厚労省での働きがいはどうでしたか。

豊田 仕事が大好きで、楽しくて、1日20時間くらい働いていました。責任の重い仕事や大変な仕事をいただくほどありがたいですし、越えられないハードルはないと思っていました。越えるために条件反射のように頑張るという……おかしな人に聞こえますか(笑)。

――いえいえ(笑)。1日20時間働くほど充実していて、ハーバード大学大学院で公衆衛生学を修めて、2009年の新型インフルエンザパンデミック当時はWHO担当外交官を務めて。順調にキャリアアップしている時に、結婚・出産をすることには迷いはなかったですか。

豊田 何に対する迷いですか。

――自分のキャリアがここで一旦足止めを食うとか、出産後に居場所があるかとか……。

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豊田 不思議と考えたことがないです。どんなことも頑張ればなんとかなる、と思っていたのかな。

――でも男性によっては妻に仕事をセーブしてほしいと言うこともあるかと。

豊田 そんなことを言う人とは結婚しません(笑)。夫とは、出会った瞬間にこの人と結婚するなと思ったんですよ。まだ一言も話もしないうちからそう感じて本当に結婚しました。

――えっ、そうですか! ハーバードで出会ったんですよね。

豊田 はい。彼が1年早く留学していたので1年早く帰国して、母がすぐ血相を変えて会いに行ったと後に知りました。

――結婚によって人生が豊かになる面はありましたか。

豊田 それは大きかったです。若い頃から「自分は生きている価値がない、誰にも必要とされてない」と思っていたけれど、夫と出会って、私はここにいていいんだと思えました。そこで自己を肯定できない生き方を一度乗り越えて、でもその後で転落していますからね……。

――衆議院議員になってから秘書への暴言騒動がありましたものね。

豊田 そうですね。騒動の真相は、今はまだ詳しく明かせないのですが。ただ、最近メディアに出ているので「選挙に出るの?」と聞かれることがありますが、とんでもない! あんなおそろしい世界には、本当に、もう二度と、絶対に、関わりたくありません。ジュネーブから帰国して、東日本大震災の混乱を目の当たりにして、この国を何とかしなきゃと思って、大好きだった役所を辞め、政治の世界に飛び込んだことを、めちゃくちゃ後悔しています。世間知らずといえばその通りなんですが、政治の世界には、それまで生きてきた世界では見たことがなかった人たちが、たくさんいました。

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