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小説「観月 KANGETSU」#61 麻生幾

第61話
逃走者(3)

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※本連載は第61話です。最初から読む方はこちら。

「どうぞ」

 七海は空いている椅子を二人の刑事に勧めた時、ふと辺りを見渡した。

 さっきまでここにいた母の姿が見えないのだ。

 視線がいったのは廊下だった。

 母が呆然とした表情で立っていた。

 七海は声を掛けようとした。

 だが七海は声が出なかった。

 母のその立ち姿がどこか異様だったからだ。

 カッと見開いた目でじっと虚空を見つめている。

「お母さん!」

 七海は堪らず声をかけた。

 だが母は何の反応もしない。

 2人の刑事に断ってから、七海は松葉杖を手にして母に近づいた。

「どげえしたん、こげなところに突っ立っちしもうて──」

 七海が言った。

 だが貴子は瞬きひとつせず身動きしない。

「お母さん!」

 強い口調でそう言った七海を、貴子はようやく振り向いた。

 ところが貴子は七海の両肩をむずっと掴んだ。

「あんたを襲うたんな、本当に田辺ちゅう職場の人なんね!」

 それは質問というより詰問だった。

「どうなん!」

 貴子は七海の肩をさらに強く握った。

「たぶん……」

 七海は戸惑った

 こんな形相の母を見たことがなかったからだ。

 いや、違う、と七海は頭の中で即座に否定した。

 熊坂洋平さんに対する警察の捜査について聞いてきた、あの時の母の顔つきと同じだ……。

「ちゃんと話しち! 本当に田辺ちゅう人なんね!」

 じっと見つめる母の瞳に、七海は猛禽類に睨まれた小動物になったような錯覚に陥った。

「そうちゃ!」

 七海は強い口調で言い返した。

 母の表情が一変し、柔らかなものになった。

 七海の肩を引き寄せた母はもう一度、七海を強く抱き締めて安心した風に言った。

「良かった……」

 七海は確かに聞いた。

 耳元で囁いた母のその言葉を──。

──こげな目に遭(あ)ったんに、良かってんいったどげなこと?

 だが七海はそのことに思いを巡らせた。

 母は、無事でいる自分のことを喜んでくれたんで、思わずそんな言葉が口から出たのだと──。

 さっきの姿にしても、田辺智之が自宅まで侵入され娘が襲われたことによるショックが母を襲ったのだろう。

「ごめんね、心配させち……」

 七海はなぜか涙声となった。

「あんたが謝ることやねえわ。本当によかった……」

 母もまた泣いていた。                   

                 *

 緊急走行の運転を正木から代わった涼の視線の向こうに、大分空港道路の杵築ICへ繋がる幅広の一本道の途中で、横付けにした数台のパトカーの周りで検問を実施している大勢の警察官たちの姿が目に入った。

「あれじゃあ、奴は大分空港道路には乗れちょらんです!」

 規制ラインの手前で涼が車をUターンさせた時、助手席から正木が警察官たちに機敏な動作で敬礼を送った。

「なら一般道や」

 正木が言った。

「しかし、我々の担当は大分空港道路ですが?」

 涼が訊いた。

 ナビゲーションシステムに一度手が向いた正木だったが、すぐに諦めて自動車地図を手にして急いでページを捲った。

「小倉方面やと県道387号線、福岡市方面なら国道210号線……どちらに行ったか……」

 正木が困惑した。

「田辺智之の携帯電話履歴から、博多へよう出かけちょったことが分っています!」

「冴(さ)えちょんど、首藤! 210号線を行け!」

 正木が言い切った。

 ピーピーピー。

 無線の呼び出し音が車内に響き渡った。

「杵築7や」

 無線機を握った正木が応答した。

「B号手配(指名手配)が使用したち思わるる車をJR杵築駅前付近で発見との目撃情報あり! 杵築7は最優先で向かえ!」

「了解!」

 正木が声を張り上げた。

(続く)
★第62話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生まれ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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