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伊藤彰彦 ヤクザ映画最後の巨匠 中島貞夫監督インタビュー150分 仁義なきヤクザ映画史・特別編

弾き出された者たちの物語は終わらない/聞き手・伊藤彰彦(映画史家)

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 1月10日、京都御所に行った。参観のためではない。御所を睥睨(へいげい)するマンションの最上階に、東映ヤクザ映画を撮った最後の大物監督、中島貞夫が住んでいるからだ。

 中島はヤクザ映画のみならず、あらゆるジャンルの映画を50本以上撮った撮影所世代の監督だ。昨年は、『日本暗殺秘録』(1969年)が安倍元首相銃撃事件とともにふたたび脚光を浴び、今年に入ってからは毎日映画コンクールの特別賞を受賞し、彼のドキュメンタリー映画『遊撃/映画監督 中島貞夫』(松原龍弥監督)が現在公開中だ。この連載も残すところあと二回、中島にどうしても話を聞いておきたかったのは、その膨大なフィルモグラフィーの中で燦然と輝くのが、『893(ハチキューサン)愚連隊』(66年)、『現代やくざ 血桜三兄弟』(71年)、『鉄砲玉の美学』(73年)、『脱獄・広島殺人囚』(74年)、『実録外伝 大阪電撃作戦』(76年)、『総長の首』(79年)、『極道の妻(おんな)たち 危険な賭け』(96年)といった多種多様なヤクザ映画だからだ。

 中島は「義理と人情を至上の価値とする任侠映画とは肌が合わない」と公言し、戦後派的アナーキーな感性を持ちながら、「アンチ・任侠映画」としての「チンピラ映画」を撮り続けた。さらに、80年代以降、東映ヤクザ映画がピークを過ぎるなかで、東映のエース監督としてヤクザ映画を最後まで支え続けた。このように東映ヤクザ映画を醒めた目で見ながら、このジャンルと最も激しく格闘し、その終焉を見届けた男——中島貞夫に「ヤクザ映画とは何か」を聞いた。

インタビュー中の中島監督(2023年1月) ©文藝春秋

 ——ヤクザはあるときは権力末端の暴力装置として民衆を弾圧し、あるときは民衆のために闘うという両義的な存在でした。中島監督はヤクザという存在をどのようにお考えですか?

 中島 社会からほっぽり出された奴がヤクザだと思っています。放逐され方には色々あって、自分から暴れたのではなく、暴れるような状況に追いこまれて、怒髪天を衝く場合もあるわけです。僕が映画で描きたかったのは後者でした。助監督時代には、そういうはみ出してゆくヤクザを主人公に「こいつは何で外れてしもうたんや」と問いかけるようにシナリオを何本か書きました。

 ——64年に『くノ一忍法』でデビューしたあとも、山の民をテーマに据えた『山窩』や釜ヶ崎を舞台にした『通天閣の兄やん』の脚本を書きます(「山窩」は85年に『瀬降り物語』として実現)。また、79年の『真田幸村の謀略』では幸村(松方弘樹)に「草の者(被差別民)になる」と宣言させます。山窩、棄民、被差別民、在日朝鮮人など虐げられた者やマイノリティに対するシンパシーはいつごろ芽生え、どのように培われたものなのでしょうか。

 中島 分からないなあ。この資本主義社会で生き、本を読み、物を考えるうちに、自然と社会から弾かれた者のほうに関心がいくんですよ。

撮影所にヤクザがいた理由

 ——東大卒業後、東映京都撮影所に入ると元ヤクザのスタッフがたくさんいた、と書いておられます。京都の映画界とヤクザ社会の関わりについて教えてください。

 中島 僕の師匠であるマキノ雅弘(「日本映画の父」といわれる牧野省三の息子)の後ろ盾が「千本組」でした。千本組はいわゆる「かたぎヤクザ」。博奕を一切禁じ、材木の手配と国鉄(現・JR)二条駅の人夫の請け負いをなりわいとして、日活大将軍撮影所の大道具用の材木の手配、ロケ用のトラックの貸与、「露払い」(ロケ先の地回りを追い払う用心棒役)の手配を一手に引き受けていました。その三代目の笹井末三郎はヤクザであり、アナキストでもありました。

 東映は1949年にできた一番新しい映画会社で、東急から派遣された経理のプロである大川博社長は、ヤクザとの付き合いを根絶しようと、徹底的に領収書のない経費を削減しました。結果、東映では領収書がもらえないロケ先でのヤクザ対策費を使えず、「露払い」もいなくなってしまう。そんなある日、片岡千恵蔵が和歌山のロケ場所で地回りのヤクザに脅迫されて震え上がるという事件が起こります。これ以降、いかに冗費をなくし経営の近代化をめざす東映といえども、円滑なロケーションを行なうためには、ヤクザの力を借りねばならないと考え直したんですね。そこで戦前からの京都の博徒、中島源之助に露払い要員の紹介を頼んで、伊藤さんのこの連載にも出てきた松本元蔵さんや並河正夫さんが撮影所にやってくる。こんなふうに京都では、ヤクザが撮影所に入りこんだというより、撮影所のほうがヤクザを引っ張りこみ、「適材適所」で活用したと言った方が正確だと思いますね。

 63年に東映任侠映画路線が始まり、俊藤浩滋さんが東映京都で大きな力を持ち始めると、ヤクザの儀礼や賭博を指導する本職が出入りするようになります。

 任侠映画の時代には、北島三郎や村田英雄のような歌手出身や浪花節語りも俳優として撮影所にやってきました。村田さんとはよく夕飯を一緒に食べながら打合せをしましたが、スターだから金のかかった食べものが好きかと思いきや、いつも生ニンニクを3つ、4つコリコリと齧りながらうまそうに日本酒を飲むんですよ。それが晩飯。この人の生活感覚は労働者そのものだな、それを恥ずかしがるということがまったくないんだな、と感心したものです。

 ——いいお話ですね。ところで、山口組三代目・田岡一雄は、美空ひばりが東映京都で撮影するときにはときどき慰問に来て、自分が目をかけているスタッフに「ぎんつば」(大阪の和菓子)を配ったと聞きます。

 中島 僕が監督になったとき、「お祝いや」と三代目からぎんつばを頂きましたよ(笑)。三代目はお酒が弱くて甘党。ぎんつばが大好物で、貧乏な頃、腹いっぱい食べるのが夢だったそうです。撮影所に来られるときには子分が何箱も抱えて、俳優会館やスタッフルームに菓子箱を差し入れるんですね。特定のスタッフに対しては「きばってや」とぎんつばを手渡していました。

長谷川伸は抒情的過ぎる

 ——『関の彌太ッペ』(63年、山下耕作監督)の助監督、『股旅 三人やくざ』(65年、沢島忠監督)の脚本を経て、『兄弟仁義 関東兄貴分』(67年)、『木枯し紋次郎』二部作(72年)でいわゆる「股旅映画」を撮りますが、中島監督にとっての長谷川伸戯曲および股旅映画の魅力とは何なのでしょう?

 中島 股旅ものの主人公は、親分も係累も持たない一匹狼。そこが魅力でしたね。でも、股旅ものを代表する長谷川伸作品は独自の世界ではあるけれど、抒情的に過ぎると僕には思えました。現実の股旅は、もっと過酷で、非情で、長谷川伸戯曲のように甘くはないと。僕が股旅ものを監督するときには徹底的にロマンティシズムを排除し、主人公に厳しい境遇を背負わせようと思いました。72年に『木枯し紋次郎』『木枯し紋次郎 関わりござんせん』を撮りましたが、ハード過ぎたのか当たりませんでしたね。

 ——「任侠映画と肌が合わなかった」とことあるごとに語っていますが、なぜでしょう?

 中島 任侠映画が嘘っぱちに思えたからです。それに、親分から命じられて子分が美しい死を遂げる展開が好きじゃなかった。死はあくまで死だ。美しい死なんてありえねえと。そう思う背景には、僕の生い立ちが関わっていると思います。

 太平洋戦争で父が戦死したあと、僕は仇を討つために少年航空兵になりたいと心底望みました。その頃、僕にとって天皇は神であり、神国日本にかならず神風が吹くと信じ、アメリカ軍が上陸すると噂された千葉の九十九里浜で、連日、竹槍訓練に励んでいたんです。ところが、11歳のときに戦争が終わり、すべてが虚妄だったと知らされた。父も英霊になったのではなく、犬死にさせられたのだと。

 戦後、僕は軍国少年から左翼青年になりますが、人間の生き方に対する絶対的な命題が持てなかったし、持ちたいとも思わなかった。絶対的な命題を掲げて生きる人間を信じられなくなったからです。ですから、義理と人情を絶対的な価値とし、親分・子分の関係が築かれる任侠映画に懐疑と反発を覚えました。股旅映画のような「上下関係への呪詛」を持たず、きわめて肯定的に、この縦軸を捉えるあり方に、憎悪すら感じましたね。定型化されたドラマツルギーと固定化されたスターシステムもぶっ壊さなきゃならないと思いました。その思いが『893愚連隊』を書き、そして撮るという作業に、自分を駆り立てていきました。

『木枯し紋次郎』(1972) 中島氏提供

組織に刃向かうチンピラ

 ——66年の『893愚連隊』は、京都で白タクや盗みを生業とするチンピラ三人組(松方弘樹、荒木一郎、広瀬義宣)がヤクザ組織に闘いを挑み、ひと泡吹かせる。ラストの「当分粋がったらあかん。ネチョネチョ生きるこっちゃ」という松方弘樹のセリフは、閉塞した時代のリアルな気分を表すものとして映画ファンの間で評判になり、映画は日本映画監督協会新人賞を獲得、中島監督の出世作になりました。「原案」を提供した菅沼照夫さんはどういう人だったんでしょう?

 中島 菅沼さんは撮影所で「ロケ整理係」(ロケーションのときに、遠方に映る人に指示をする係)の仕事をやっていた、ヤクザでもなければ堅気でもない、「自称・愚連隊」でした。「人間シコシコと真面目に働いて金を稼ぐのは愚の骨頂や。ペテン(頭)を働かせて金を稼ぐ、金の成る木はそこら中にありまっせ」とか、「勝たへん喧嘩は絶対しまへんで。日本かてそうでっしゃろ。勝てへん戦争してえらい目に遭(お)うて」とか、彼のセリフは、戦争をくぐり抜けた戦後日本が生んだ“哲学”に聞こえました。

 ——東映が任侠映画を作り続ける中、中島監督はヤクザの金看板と暴力に刃向かうチンピラを描きます。菅原文太との『懲役太郎 まむしの兄弟』(71年)、荒木一郎との『現代やくざ 血桜三兄弟』(71年)についてお聞かせください。

 中島 文ちゃん(菅原文太)は僕より1学年上ですけど、ほとんど同世代なので、戦後どういう歌が流行ったとか、こういう店があったとか、すごく感覚が近かったですね。荒木(一郎)の感性には天才的な閃きがありました。しかし、閉所恐怖症で旅館にもホテルにも泊まれず、飛行機にも乗れないので、京都で撮影があるときは東京から車でやって来て、ずっと僕の家に泊まっていました。

 荒木は俳優だけじゃなく音楽監督もやってくれて、『現代やくざ 血桜三兄弟』では野坂昭如の「マリリン・モンロー・ノーリターン」を、『鉄砲玉の美学』では頭脳警察の「ふざけるんじゃねえよ」を選曲し、映画に時代の空気を吹きこんでくれました。

ヤクザの心の奥底にあるのは

 ——71年の『懲役太郎 まむしの兄弟』では、川地民夫演じる弟分の出自を暗示する「満鉄小唄」、通称「雨ショポの唄」が流れます。脚本にはないこの歌を付け加えた意図は何だったのでしょう?

 中島 川地民夫を神戸新開地の在日朝鮮人という設定にしたかったんですが、あからさまに描くと東映に叱られる。東映は朝鮮総連などからクレームが付くのを恐れていましたから。だから、分かる人には分かればいいと、さりげなく朝鮮人慰安婦の歌を忍びこませたんです。

 ——69年の『日本暗殺秘録』の製作と併行して、「明友会事件」(山口組による大阪猪飼野の在日朝鮮人愚連隊組織の壊滅作戦)に取材した『殲滅(せんめつ)』を自ら企画し脚本を書きます(76年に『実録外伝 大阪電撃作戦』として実現)。

 中島 『日本暗殺秘録』のように暴力の奥にある心理を描くのではなく、背景に思想や情念がない、血で血を洗うような容赦ない暴力映画を、即物的にニュースフィルムのように撮ってやろうと思ったんです。

 ——実録ヤクザ映画路線の先駆けといえますね。しかし、明友会事件を取り上げながら、登場人物を在日朝鮮人でなくしたのはなぜでしょうか?

 中島 たしかに、大阪を舞台にしてリアリズムに立脚してやるのが一番良いけれど、『殲滅』は純粋なチンピラ映画にしたかったんです。舞台を関東に移し、物語の抽象度を上げて、大組織に踏みにじられながら一矢を報いるチンピラたちを描きたかった。

 ——73年の『仁義なき戦い』の大ヒット以降、中島監督も実録ヤクザ路線を作り始めます。初めての実録ものは74年の『安藤組外伝 人斬り舎弟』。この作品では、花形敬という伝説的なヤクザのマゾヒスティックな側面が強調されています。いつごろ、またどのようにヤクザ者のマゾヒズムに着目されたのでしょうか?

 中島 いつごろだったかな……ヤクザ映画を作りながら、さまざまなヤクザに取材するうち、ヤクザは暴力を振るうのでサディスティックな存在と思われがちだけど、心の奥底に自らを傷つけたい自損衝動があるんじゃないかと考え始めた。喫っている煙草の火を自分の腕や掌に押しつけて消したり、自分の頬を切ったりした花形敬がその典型だと思えました。一方、安藤昇さんはヤクザの中では珍しく陽性の人。彼は『人斬り舎弟』の撮影中に競馬放送を聴いていて、「おい。俺がこのレースを取ったら、今日は撮影をやめてパーッと新宿で飲むぞ」と言ってスタッフを笑わせ、実際に安藤さんが大穴を当てたときには、スタッフ全員で撮影を放り出して、新宿に飲みに行ったことがありました。

『日本暗殺秘録』(1969) 前列中央に中島監督と千葉真一 中島氏提供

傑作『総長の首』秘話

 ——『神戸国際ギャング』(75年、田中登監督)のモデルで、山口組幹部の菅谷政雄は中島監督のことを「先生(センセ)」と呼び、一目置いていました。

 中島 菅谷さんとは気が合いましたね。子分の川内組長を射殺した廉(かど)で菅谷さんが山口組から絶縁されたとき、たまたま映画の取材をするため、脚本家の神波史男と松田寛夫とともに神戸の菅谷組事務所に日参していたんですよ。菅谷さんの絶縁を知り、「一緒に歩くとヤバい」と僕は身の危険を感じましてね。けれど、菅谷さんは昼飯時になると「センセ、メシ食いにいこか」と気楽に僕らを町に誘うんです。菅谷さんを組員3、4名が物々しくガードして、一行は三ノ宮商店街に向かうんですが、僕らが菅谷さんの一団から遅れがちになると、「何しとんや、センセ」と菅谷さんは人懐っこい笑顔で振り返るんです。

 ——78年の『日本の首領(ドン) 完結篇』の撮影中に火事が起き、三代目が撮影所を見舞い、その帰りに三条大橋の「ベラミ」で銃撃されます。事件の一報を聞いてどう思われましたか?

 中島 三代目がお見舞いに来られたとき、撮影所には所長始め偉い人はいなかった。もしいたら、当然「ベラミ」にもお供し、流れ弾に当たっていたかも知れねえなと思いました。

 ——79年の『総長の首』は、「三代目襲撃事件」を昭和初期の浅草に移して描いた傑作です。主演の菅原文太は、かつて強盗で闘争資金を稼ぎながら、要人の暗殺を企てて失敗し、中国革命支援のために大陸に渡るも、夢破れて故郷に帰って来た元アナキストです。なぜこのような設定にしたのでしょう?

 中島 三代目襲撃事件を現代劇として映画化するのはさすがの東映でも難しいということになり、舞台を昭和初期の東京に変えて襲撃事件を描けば、高見順の『いやな感じ』や石川淳の『白頭吟』のようなアナキストも出せるぞ、と閃いたんです。脚本家の神波ちゃん(神波史男)も角川映画で『いやな感じ』(76年、脚本名『いつかぎらぎらする日』、未映画化)を脚色したことがあって、アナキズムの空気が入っていました。文ちゃんもいままでの関西風ヤクザじゃなく、インテリジェンスを持った東京のアナキスト崩れの役にもの凄くノってくれたんです。

 ——文太が棄てた恋人の妹(夏純子)が『シャボン玉』を口遊さみ、文太に姉との過去を思い起こさせます。

 中島 『シャボン玉』は野口雨情作詞、中山晋平作曲の童謡ですが、昭和初期のアナキストたちが、「志を見失った自分たちの歌だ」と思い入れたんです。

 ——頭(かしら)(小池朝雄)を殺された子分たち(清水健太郎、三浦洋一、ジョニー大倉ら)が復讐を誓い、小池の弟の文太に「二代目になってくれ」と頼みます。文太は「ヤクザは嫌いだ」と断り、「頭のいない“烏合の衆”でテロをやろう」と提案するところがいかにも「中島貞夫的」ですね。

 中島 そうか(笑)。

 ——ラストは文太がふたたびアナキスト時代の黒い二重廻しに身を包み、仲間の仇を討ちに行く。満身創痍となった文太が「東京音頭」で踊り狂う民衆の中に吸いこまれてゆくラストが秀逸です。

 中島 「東京音頭」は1933(昭和8)年の盆踊り大会で披露されるや、たちまち全国津々浦々まで広がり、人々は熱病に憑かれたように、広場さえあればこの音頭で踊りました。あれは、閉塞した時代に対する大衆の反乱、「昭和版・ええじゃないか」だったと思います。

山一戦争を描く

 傑作『総長の首』は当たらず、オールスターヤクザ映画『日本の首領』も三作(77〜78年)で終焉する。手詰りになった東映は82年に『鬼龍院花子の生涯』(五社英雄監督)で女性任侠路線を切り拓く。ここに新たなヤクザ映画の可能性を見出した中島貞夫は、「山一戦争」の勃発を女性映画の視点で描こうとする。

 ——82年の『制覇』は、三代目(三船敏郎)襲撃事件からその死までが描かれるオールスターキャストによる山口組映画です。しかも三代目姐(岡田茉莉子)が主役で、『極道の妻たち』シリーズ(86年〜)の先駆けとなりました。

 中島 この映画は、実際の三代目の「山口組葬」からキャメラを回し始めたんですよ。当日、山口組を絶縁になった菅谷政雄さんが弔問に訪れるかどうかが世間の関心の的でした。不謹慎ですが、菅谷さんが来るか来ないかを僕はスタッフと賭けてたんです。菅谷さんはやってきて、僕は勝った。けれど、入口まで来てすっといなくなったんです。それから2カ月後、菅谷さんは三代目のあとを追うように亡くなりました。

 ——菅谷政雄役の若山富三郎、山本健一役の菅原文太の芝居が見事でした。

 中島 78年〜93年の山口組は、三代目襲撃、四代目候補山本健一の獄死、三代目の死去、菅谷の死去、四代目竹中正久射殺、山一戦争……と次から次へと事件が起きて、前半部分を『制覇』、後半部分を『激動の1750日』(90年)で映画化しました。

『制覇』(1982)の撮影風景  中島氏提供

役者に飢餓感がなくなった

 ——『制覇』は女性客を意識し、文芸映画の格調があります。『日本の首領』三部作同様、ヤクザの抗争劇と家庭劇という二つの側面が描かれますが、この二つが最後まで溶け合わないもどかしさを感じました。

 中島 そうかな。このあたりから、上映時間が140分の一本立て興行になってきたんですね。

 ——映画が一本立て大作の時代になって、「いままでの東映作品にあった『映画の毒』が、急速に、駆け足ですっと萎んでいった」と『遊撃の美学』で語っています。「映画の毒」を「映画の濃密さ」と言い換えてもいいと思います。

 中島 そうね……。二本立て興行の時代は、工場労働者や水商売の人たちといった東映ファンの顔が見え、その人たちに向けて映画を作っていればよかった。けれど、77年からの一本立て大作の時代に入ると、従来の東映の観客だけでは製作費をペイできず、客層を広げなければならなくなりました。広い層に見せるためには、中庸の精神が働いて、映画の毒を薄めなければならなくなってくるんですよ。毒を削らなければならないのは、題材、キャラクター、それにエピソードの取捨選択ですね。幅広い客層向けの大作だと、過剰に薄汚なかったり、毒があるエピソードは使えなくなり、とにかく画調も物語も口当たりがよく、綺麗なものにしてくれとプロデューサーにオーダーされるんです。一本立て大作時代になって苦労したのはそんなことでした。

「これが最後」の予感

 ——『激動の1750日』や『極道戦争 武闘派』(91年)では、中井貴一や松山千春など新しい世代の俳優を起用しますが、「いままで自分が仮託してきた、日常を破壊する飢えや上昇志向のエネルギーがやくざ社会自体になくなってきた」「役者に飢えが出せなくなった」と語っています(『遊撃の美学』)。私も、中井貴一を始めとする若手俳優がヤクザというより商社マンに見えました。

 中島 若い俳優に飢餓感がなくなってきたのは間違いないです。文ちゃんは僕と同世代だから戦後まもない頃に飢えを経験した。恒さん(渡瀬恒彦)自身は飢えたことはないだろうけど、飢えとはこういうものだということを知っていた。しかし、貴一っちゃん(中井貴一)以下の世代に飢えは想像できないんですよ。そういう世代の役者がはたして社会の底辺で辛酸を舐めたヤクザを演じられるのか、と疑問を持ったこともあります。

 それに90年代になると、ヤクザを産み落とした貧困や差別の傷痕が残るスラムや集落の風景が完全に消え失せるんですね。90年代にヤクザ映画がなくなっていった理由は、観客の変質とともに、撮るべき被写体がなくなったからだと思います。

 ——そうした中、86年から始まった『極道の妻たち』シリーズだけはヒットし、2013年まで16作も続きました。なぜでしょう?

 中島 『極道の妻たち』はリアリズムではなくロマネスク(非現実の物語)なんですよ。実録ヤクザ映画より任侠映画に近く、勧善懲悪の物語だからこれだけ長続きしたんだと思います。日本映画のヒットシリーズはかならず勧善懲悪で定型(パターン)を持っているんです。

 ——『極道の妻たち』シリーズと並行して、俊藤浩滋は実在の親分の伝記映画『修羅の群れ』(84年、山下耕作監督)、『最後の博徒』(85年、山下耕作監督)などを作り続けます。その中でもっとも過激な企画が、北九州の工藤會とそこを離脱した草野一家の30年にわたる抗争を勝新太郎・松方弘樹主演で描こうとした『戦争と平和』(87年、鷹森立一監督、未完)でした。脚本は中島監督と村尾昭、鈴木英雄によるものです。

 中島 ハッタリが効いた面白い企画でしたが、警視庁から「即座に中止にしろ」と横槍が入り、モデルのヤクザからクレームが付き、クランクイン直前で流れたんですよ。正直なところ、実現は難しいと思っていました。九州のヤクザはたとえ俊藤さんであっても伝手(つて)がないわけですよ。九州はいわば「治外法権」だった。

 ——94年の『首領(ドン)を殺(と)った男』(松方弘樹主演)は「最後の東映ヤクザ映画」になってしまいましたが、監督自身に「これが最後のやくざ映画だ」という予感と覚悟はあったのでしょうか?

 中島 「ヤクザ映画にはもう命脈がねえな」と思っていましたね。92年の暴力団対策法の施行以降、まるで「国策」のように、ヤクザをすべて悪とし、取るに足りない、つまらない存在だと矮小化する警察やマスコミのキャンペーンが効を奏し、大衆がヤクザに一片の思い入れも持たず、ただ唾棄すべき存在と思い始めましたから。

ヤクザはドラマを作る

 ——観客が感情移入できるヤクザ映画はこれからもうできないと思いますか?

 中島 分からないね。ただ、社会から弾き出された奴のドラマはこれからも作られてゆくと思います。体制の中に、社会の仕組みの中に組みこまれている人間だけでドラマを作ろうとしても、作り切れない。社会から弾かれた人間がいて、そいつの目にまともな社会がどう映るのかというのは、ドラマの一つの祖型であり、そういう映画の作り方はなくならないと思う。ヤクザ映画がこれからの時代に普遍性を持つとすればそこではないか。

 中島貞夫は任侠映画路線の全盛時にテロリストの映画(『日本暗殺秘録』)を、実録ヤクザ映画路線の掉尾にアナキストの映画(『総長の首』)を作った。中島の衣鉢を継ぎ、ヤクザと、社会から打ち捨てられた様々なマイノリティの間の葛藤にみちた関係を凝視して、この社会の暗部を射抜く映画を撮る監督はいつか現れるのだろうか。

(文中一部敬称略、以下次号)


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