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天皇皇后と愛子さま 令和流「ONE TEAM」“学習院大学進学”決定と“還暦の誕生日”を終えて

「急がない、急がせない」が令和流のキーワード。ONE TEAMとして同じ道を歩まれる天皇皇后陛下と愛子さまの「いま」をレポートする。/文・友納尚子(ジャーナリスト)

「辞書が恋人」

「ちょっと恥ずかしいですね」

2月10日午後、宮内庁三の丸尚蔵館(皇居・東御苑)で開催中の特別展「令和の御代を迎えて」で、天皇陛下は学習院高等科3年生の頃に書かれたという草書体の書初めを42年ぶりにご覧になって、照れながらこう述べられた。陛下が率直に感情を表されることは、実に珍しいことだった。

条幅(じようふく)紙には「慶雲興」(幸運を運ぶ雲が湧き起こること)と大きく書かれ、照れ笑いを浮かべられている陛下のご様子とは反対に、ダイナミックな筆遣いが印象的だ。

上皇陛下から譲り受けられたという、学習院初等科の入学式でお召しになった制服やランドセルも展示され、陛下は懐かしそうにご覧になっていた。

この日、淡いグレーのパンツスーツ姿だった雅子皇后陛下は、陛下の自筆で書かれた学習院大学文学部史学科の卒業論文(「中世瀬戸内海水運の一考察」)に驚かれて、「全部(手書きで)お書きになったのですか」と尋ねると、陛下は「間違えたところに原稿用紙を貼ったりして大変でした」とお答えになった。

雅子さまはじっくりとご覧になって、「よくこんなに細かく書かれて」と感心なさっていた。「これがお話しになっていた部分の」など、日ごろからお2人が話題にされていたことが会話からもうかがえた。

雅子さまは、米国ハーバード大学経済学部の卒業論文(「輸入価格ショックへの対外調整:日本の貿易における石油」)と、実際に大学時代に使われていたという辞書2冊(英英辞典と類語辞典)を公開。

使い込まれた革表紙の辞書「コンサイス・オックスフォード・ディクショナリー」は、父親の小和田恆さん(元外務官僚・元国際司法裁判所所長)から譲り受けたもので、皇室入りなさるときに一緒に持ってこられた“嫁入り道具”でもあった。

「ハーバード大学時代の雅子さまは、お1人で暮らす寂しさもあったのか、毎日、図書館で勉強をなさっていたそうです。そのため常に辞書を手放さず、『辞書が恋人』とからかわれるほど肌身離さずお持ちでした。ある日、食事会の時も『まさか、今も辞書を持っているんじゃない?』と聞くとバッグの中から出したり、引っ込めたりしながら辞書を見せて、皆を笑わせていました」(ハーバード時代の友人)

使用ー20070718BN00072ーアーカイブより

ハーバード大学時代の雅子さま(右から2人目)

全身をおおう赤のローブ

今回の特別展のために書斎から出して来られた辞書は、雅子さまの青春時代から現在までを見つめてきたものだった。辞書の他には、2006年の歌会始の歌を題材に制作された、かな文字の書と、ご婚約後にハーバード時代の友人からお祝いで贈られたという、見るからに頑丈そうな木製の椅子を出品されていた。

椅子は雅子さまが大学の寮で使われていたものと同型で、背もたれに雅子さまのお名前と卒業年次、大学のエンブレムが彫られている。雅子さまは、東宮御所の陽が射す窓際に椅子を置き、そこで束の間の時間を過ごされることもあったそうだ。

陛下は、留学のご経験がある史上初の天皇だ。学習院大学大学院在学中の1983年6月から85年10月まで、英国のオックスフォード大学マートンカレッジで、「17、8世紀における英国テムズ川の水運」を研究テーマに滞在された。今回展示された全身を覆う赤のローブと黒の帽子は、名誉法学博士号授与式で着用されたもので、衣装の側には、実際に陛下が着用なさった当時の写真が添えられている。

雅子さまも外務省時代に研修留学で、オックスフォード大学ベリオールカレッジで学ばれた。展示会場を回られながら、お2人は英国の留学時代を振り返られ、卒業後も御所などでお会いしていた陛下の恩師ピーター・マサイアス教授の思い出話をなさるなど実に楽しそうだったという。

「陛下にとって、英国留学はそれまでの生き方と違って、ご自分で考え、自由に行動することを経験された重要な時期です。ご自身も『おそらく私の人生の中で、最も楽しい時期』とお話しになっているように、英国での思い出は尽きないのでしょう。今でも、ご自身が撮影したオックスフォード市内の街並みの写真をご覧になって振り返られることがあるそうです」(当時の護衛官)

幼少期の陛下は、赤坂御用地という閉じられた世界の中で成長されながら、外の世界への関心を持ち続けておられた。水運にご関心を持たれたきっかけは、小学生の時に赤坂御用地内で鎌倉古道の跡を見つけたことだったという。陛下は「道」の魅力について、そこをたどって行けば未知の世界に旅立つことができるからと振り返られている。母親である上皇后陛下とご一緒に松尾芭蕉の『奥の細道』を読まれ、古の旅人たちの足跡に思いを馳せたこともあるという。

外国人記者も会見に

留学時、23歳だった陛下は著書の『テムズとともに 英国の2年間』の中で、

〈多くの方々と会って、(略)こういうものの見方がある、考え方があるということを多く学べたように思います。自分でものを考え、決定し、そしてそれを行動に移すことができるようになったのではないか〉

と自由な環境の中で学んだ喜びを綴られていた。両陛下にとって、英国での留学経験は、その後の生き方の軸となっており、お2人を深く結びつけるご体験の記憶にもなっている。

陛下は、今年2月23日に60歳の誕生日を迎えられた。即位後、初めての会見は、外国人記者にも前代未聞の取材許可が下りた。陛下はこの会見の中でも英国留学について次のように触れている。

「青年に達してからの大切な記憶として、まず思い起こすことは、オックスフォード大学への留学です。(略)イギリス社会を内側から見つめるとともに、外から、より客観的に日本を見る視点を養うことができたこと、そして、研究生活を通じ、『水』問題への関心の1つの端緒となった研究論文に取り組むことができたことなど、現在の公務に取り組む姿勢にも大きな影響を与えている数々の貴重な経験をさせていただきました」

雅子さまも水問題にご関心

外国訪問を数多く経験された陛下も、自由に街並みを歩くことができたのは、この2年4カ月だけだった。一般の人のように、再度英国へ行こうと思っても、立場上、簡単には行くことができない。自覚なさっているお立場だからこそ、行った先々の出会いや風景を忘れないようになさると言われている。

「英国では、凍った地面からクロッカスの花が咲くと『春が来た』と皆で喜ぶ習慣があるそうです。陛下は帰国なさると、仮御所の庭の片隅にクロッカスを頼んで植えてもらい、英国を懐かしんでおられました」(学習院幼稚園以来の同級生、小山泰生さん)

今回の展覧会には、1987年3月にネパール国ご訪問の折に撮影された写真も展示された。水汲みに集まった女性と子供の姿を収めたものだ。

〈ヒマラヤの山々を一望するポカラ郊外の山歩きの際に、水汲みをする人々に出会いました。蛇口から出るほんのわずかな水を求めて多くの女性や子供たちが集まっていたのです。『この水で持って来た甕(かめ)を満たすのにどのくらい時間がかかるのだろうか』。『女性や子供が多いな』。『水汲みというのもたいへんな仕事だな』。(略)この光景こそ、私が水問題を考えるときにいつも脳裏に浮かぶものであり、私の取り組みの原点となっているように思います〉(徳仁親王『水運史から世界の水へ』)

このとき、カメラから目を離されて、感慨深そうな表情をされていたのが印象的だったと随行員の1人は振り返っている。

最近は、雅子さまも水問題に一層ご関心を寄せられている。

2月3日には、両陛下おそろいで「『水と文化』国際シンポジウム―水の遺跡から地域の発展を考える―」(東京・港区)にご出席された。

主催した政策研究大学院大学の田中明彦学長はこう話す。

「両陛下にうかがったところでは、特にアンコール遺跡群についての講演を興味深く聞かれたそうです。アンコールワットの中で水がどのように配置されているのかとか、その地域の灌漑とどのように繋がっているかについてのカンボジアの文化芸術大臣の報告でした。陛下は『水とか遺跡についても、それぞれ大変興味深い歴史があるのですね』とお話しになっていました。

雅子さまは、『持続可能な開発目標(SDGs)』にもご関心があるようです。うちの大学の授業は、開発途上国の官僚向けの公共政策なので、そのほとんどが持続可能な開発目標の取り組みに関係していると説明させていただきました」

使用ー20040506BN03356ートリミング済みーアーカイブより

田中明彦氏

パネリストとの歓談は30分の予定だったが、話ははずみ1時間にも及んだ。

陛下の気合が入るとき

実は、環境問題に関しては、雅子さまも外務省時代に地球環境問題にかかわったことがあり、ご関心のあるテーマの1つでもある。

2003年からご療養生活に入られ、治療の一環として選ばれたのは国連大学(東京・渋谷区)での聴講だったが、05年に国連大学創立30周年の公開フォーラムにご夫妻で出席されて以降、「人道支援における日本のレシピ」「国際衛生年フォローアップ会議」などのプログラムを聴講されていた。

陛下も時間があれば、ごいっしょに聴講されることがあり、国連大学で席を並べられる姿が見られることもあった。陛下はご体調のすぐれない雅子さまに、できるかぎり寄り添うことでサポートされようとしていた。

陛下が今年のお誕生日に公表されたご近影ビデオで雅子さまと読まれていた『水の日本地図』を監修した沖大幹教授(東京大学未来ビジョン研究センター)はこう語る。

「国際会議等でごいっしょする機会がありますが、雅子さまとご一緒の時は、陛下はいつもより張り切っておられるご様子で、気合の入り方が違うように思います」

東宮御所でのご進講も、環境問題に付随するテーマなどはお2人でお受けになり、陛下の専門知識に雅子さまのグローバルな視野が加わって、専門家でも舌を巻く質問が出ることもあったといわれる。

「雅子さまのご関心は、環境問題から生じる貧困や教育などにも広がっているようで、前々からご関心のある福祉の分野とつながるので一層興味を持たれるのかもしれません。ご家庭でも、グローバルな環境問題や世界各地の歴史的背景などを陛下とお話しなさることが多いようです。陛下のご研究にも熱心に耳を傾けられることで、新しい世界が広がることはご快復に繋がっているように見えます」(雅子さまの同級生)

天皇陛下も2007年の「第1回アジア・太平洋水サミット」記念講演で次のように述べられていた。

「従来自分が研究してきた水運だけでなく、(略)環境、衛生、教育など様々な面で人間の社会や生活と密接につながっているのだという認識を持ち、関心を深めていったのです」

令和時代の両陛下の公務は、水問題からさまざまな分野へと広がっているようだ。

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★2020年4月号(3月配信)記事の目次はこちら

「新しい公務」とは何か

今では「水問題」を公務のひとつとすることが浸透しつつあるが、「人格否定発言」(2004年5月)後しばらくは、陛下が「時代に即した新しい公務」の必要性を訴えても、宮内庁からはなかなか理解が得られない時期が続いた。

2005年5月には、公務の分野の1つとして、「環境問題」を挙げられたが、私的なご研究を公務に繋げることは、上皇陛下もなさってこなかったため、当時の宮内庁幹部には、福祉や被災地のお見舞い、慰霊の旅といった分野以外の新しい公務には違和感があったのかもしれない。

使用ー20080519BN00233ートリミング済みーアーカイブより

雅子さまと愛子さま(2008年撮影)

2008年、当時の長官が会見の場で、「(陛下から)未だに具体的な(新しい公務の)提案がない」と苦言を呈した。宮内庁幹部の中には、皇太子のことを庁内で軽んじるような名前で呼ぶ職員も存在し、「(両陛下の)公務の先が見えない」などと言われた。

陛下は誕生日会見(2009年)の中で、「私がかつて言及しました『新しい公務』については、今まで行われてきている公務を否定する考えでは全くなく、時代の流れに沿って公務のニーズについてもおのずと新しい考えが生まれてくるので、それらの新しい公務のことを指摘したものであります」と説明された。そしてご自身の具体的なテーマとして、「水に関わる様々な問題」を再度挙げられた。

公務のテーマとして示された水を含めた「環境問題」は、2000年代から徐々に世界的なテーマとなっていた。陛下も「世界水フォーラム」や国連の「水と衛生に関する諮問委員会」「水と災害に関する特別会合」などで基調講演をされ、名誉総裁をお務めになる機会があった。「アジア・太平洋水サミット」(2007年)では、スピーチが拍手喝采を受けたという。

先の沖教授は、陛下のご公務についてこう振り返る。

「『アジア・太平洋水サミット』では、講演でトイレの話に言及されたのが印象的でした。上水道だけではなくてトイレも非常に大事だとおっしゃって、下水道関係の先生方や関係者は感激していました。日の当たらないところに目を向けて励まされるのは、天皇家の役割なのでしょう。

陛下のご関心は、例えば、堤防を作ったり、水路を引いたりすることにとどまらず、そうしたことで私たちの暮らしや都市や街、国のでき方も変わるという人と水との『共進化』(影響しあって共に進化すること)という考え方にあるようです。昨年の国連『水の日のシンポジウム』では、湧水が豊富な沖縄・金武町にあるウッカガー(金武大川)という共同井泉の写真をご覧になって、非常に関心を示されたご様子でした」

「急がない、急がせない」

陛下が皇太子時代に直面された、もう1つの大きな問題が「公と私」の兼ね合いだった。

天皇陛下の父である上皇陛下はご在位中にこう述べられていた。

「私にとり、家族は大切でありましたが、昭和天皇をお助けし、国際儀礼上の答礼訪問を含め、国や社会のために尽くすことは最も重要なことと考えてきました」

「私どもは、やはり、私人として過ごす時にも自分たちの立場を完全に離れることはできません」

これが平成流の天皇家だった。これに対していまの陛下は、

「私は、家族というものは、社会の最小の単位であると思います。家族を理解することによって社会を知るということ、これはとても大切なことではないかと思います」

「私は家族を思うことと、それから国や社会に尽くすということ、これは両立することだと思います」(2002年の会見)

というお考えだった。上皇陛下とは対照的に私生活も大事だと公言することには、宮内庁でも厳しい見方があった。

雅子さまが2004年に適応障害を公表されてからも、陛下はご回復を待ち続けられた。陛下お1人での公務は続き、ご体調が優れない雅子さまに代わって、公務の前や後に愛子さまを幼稚園へ送ることやお迎えに行くこともあった。雅子さまにお疲れが残って起きられない時には、愛子さまと2人でお食事を取ることもあった。それまでは絵本の読み聞かせやお風呂が陛下のご担当だったが、役割が増えたことも事実だった。当時の取材では、陛下の周辺から「愛子さまの元気なお姿から力をもらうこともあるそうですからご心配は無用です」との声も聞かれたが、時折、表情に滲むお疲れのご様子は否めなかった。

その頃、元東宮職の1人はこう語った。

「陛下は、いつか雅子さまのご病気が大きく回復して、お2人揃ってご活動ができることだけを強く願われていました」

主治医ともコミュニケーションをよく取られ、適応障害という雅子さまのご病気の性質を理解された。陛下は主治医の話を聞かれる以外に、精神疾患に関する本を読まれたという。雅子さまには、批判記事が掲載された雑誌の広告は見せないようにして、ライフワークに繋がるような新聞記事だけを選んで切り取り、手渡されていた。

古文書がお好きな愛子さま

陛下は常にご自身の感情をコントロールされ、「相手を急がせない、ご自分も急がない」という姿勢を断固として貫かれた。批判にさらされる中で難しいことだったにちがいない。「もともと精神的にタフな陛下ですが、これまで以上の忍耐を学ばれたのではないか」と元宮内庁職員は語る。

「相手を急がせない、ご自分も急がない」

という陛下のご姿勢は、愛子内親王殿下に対しても一貫していたという。

「愛子さまは小学生の時に『学校に行きたくても行けない』という状態になられた。それで雅子さまが付き添われて、行けるようになったことがあります。『行きなさい』と叱った雅子さまに対して、陛下は『無理をしなくても。行きたくなったら』とおっしゃったそうです。両陛下は相談を続けられ、今できる最善の策として、付き添いという手段を選ばれた。学校生活が送れなくなったら、大人になってからも社会との関わりが難しくなるのではないかとお考えになったそうです」(元東宮関係者)

学習に関しても遊びに関しても、興味を持たせるような環境は作られるが、強制は決してなさらない。親が良いと思っても、子どもの意見を尊重する。愛子さまが質問をなさった時には答えられることもあるが、ご一緒に楽しみながら調べて学ばれることもあった。

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愛子さま(2019年撮影)

例えば、愛子さまが漢字にご興味を持たれたのは4歳の頃だった。人の名前を記憶されてお書きになるようになり、難しい漢字が書けると喜んでおられたという。昭和天皇や陛下がそうだったように、東宮職約50人の名前と顔も憶えたという。日本語の成り立ちにも興味を持たれたといわれ、4月には、学習院大学文学部日本語日本文学科に進学することが決まった。

今では古文書に興味をもたれて、くずし字の読み方辞典や歴史辞典などを使って読まれるほどになっている。陛下は会見で「進路については、本人から私たちにも相談がありましたが、本人の意向を尊重しながら、できる範囲での助言をしてきたつもりです」と述べられた。

陛下が外国訪問に行く前やお帰りになった際には、地球儀や写真をご家族でご覧になってよく話をされてきた。昨年12月1日のお誕生日のご近影で、愛子さまは陛下とアフリカの地図を見ながらお話しになっていたが、これもいつもの家庭内の姿という。アフリカの環境問題や貧困問題などをご家族でお話しになることもあるそうだ。

「土俵の高さは何センチですか」

陛下は、2005年のお誕生日会見で、教育方針について次のように述べられていた。

「愛子にはどのような立場に将来なるにせよ、1人の人間として立派に育ってほしいと願っております。(略)愛子の名前のとおり、人を愛し、そして人からも愛される人間に育ってほしいと思います。それには、私たちが愛情を込めて育ててあげることが大切です」

ご自身は上皇上皇后夫妻から多くの場所へ連れていっていただいたことが良い思い出として残っているという。

「そのなさりようを見ていたことが、今日でもとても良かったと思っております。その意味でも、愛子が公務を始めるというのではなく、私たちがやっている姿を見せることも大切と考えます」(同前)

陛下は雅子さまと共に、愛子さまに楽しい思い出を作ることを心掛けてこられた。東京ディズニーランドやクリスマスにライトアップされた東京ミレナリオなどに私的外出をされたのはその一環だった。楽しかった記憶は時間と共に美しくなり、心の糧にもなる。苦しい時には力になってくれるものだとお考えになっていたという。

こうした私的な外出は世間から批判されたが、それで自粛されることはなかった。愛子さまが東宮御所で相撲中継を楽しんでおられれば、ご一家おそろいで観戦にも出かけられた。愛子さまが力士の名前や出身地、行司の着物などにご興味を持たれている時期でもあった。当日は、嬉しそうに星取表を付けられて、身を乗り出しながら観戦なさっていたといわれる。

あれから13年 ― 今年1月25日、愛子さまは13年ぶりに両陛下と両国国技館に足を運ばれた。関係者らに進んでご挨拶をされ、相撲好きらしく「土俵の高さは何センチですか」と意表を突く質問をされたので、関係者からは思わず笑みがこぼれたという。

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大相撲初場所を観戦

雅子さまは、諸行事以外では久しぶりの和装姿で、13年前とは異なりリラックスされている雰囲気だった。ご一家は互いに言葉を交わしながら終始楽しそうだった。雅子さまは、以前の相撲観戦では関係者らとほとんど言葉を交わさなかったが、今回は力士のぶつかりに目を大きく開かれて「凄いですね」とその迫力に驚かれていたという。

ふたたび思い出の英国へ

愛子さまが学習院女子高等科2年のとき、英国イートン校のサマースクールに参加されたのも、実は、英語を学ぶ目的だけではなく、かけがえのない時期にお友だちと良い思い出を作ることも大切という両陛下のお考えからだった。

「学校に行けなかった時期に、励ましの手紙や電話をくれたお友だちとはその後も関係は良好で、そのご友人から誘われたこともあって、愛子さまから『行ってみたい』とご希望があったそうです」(元東宮関係者)

両陛下も同じ年頃には、学校生活が中心だったが、愛子さまも学習院での生活が最優先だった。学習院は課題が多く、クラブ活動などにも参加されていたため、東宮御所の職員は、愛子さまが「あぁ、忙しい、忙しい」とお茶目に帰宅される姿をしばしば目にしていた。

「この冬にも愛子さまは両陛下とは別に、同級生とスキーに行かれました」(宮内庁関係者)

本格的な美術鑑賞は15歳の時が初めてだった。文化芸術にかかわりの深い皇族としては遅い印象もあるが、これに関しても陛下は音楽関係の知人に、「より深く理解できる年齢があるのではないでしょうか」と語っている。

陛下の急がない姿勢は生き方にも通じている。この知人が、両陛下の自然なお姿が国民の心を惹きつけているのではありませんか、と問うと「それはまた力になりますね」とおっしゃっていたという。

天皇ご一家は、苦しい時も互いに急がず急がせず、共に支えあうことで乗り越えて来られた。陛下と雅子さまがそれぞれのお誕生日に言及されたのは「ONE TEAM」。令和元年を象徴する言葉は、新しい天皇家の姿にもあてはまるのかもしれない。

即位後初の外国訪問では英国のウインザー城に滞在される。エリザベス女王からのご招待だが、英国は陛下にとって人生の転換点でもある。令和のスタイルもまた、ここから始まるのかもしれない。



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