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小説「観月 KANGETSU」#73 麻生幾

第73話
「タマ」(5)

★前回の話はこちら
※本連載は第73話です。最初から読む方はこちら。

「本当にいろいろ大変やったわね……」

 詩織が優しい口調で言った。

「ありがとうございます」

 七海はまたしても頭を垂れた。

「じゃあ、仕事ん話をするね」

 詩織の口調が変わった。その切り替えの良さも七海は嫌いではなかった。

「まず、怪我されちょった足ん方はどう? 大学での仕事は行けんやろうけど、アルバイトの大原邸でん仕事や、観月祭で働くんのもやっぱし無理かな?」

「それが、今朝、治ったみたいなんです」

 七海が弾んだ声で言った。

「治った?」

 詩織の怪訝そうな声が返ってきた。

「ええ。痛みはちいと残っていますが大丈夫です」

「歩けるん?」

 詩織が訊いた。

「ええ」

「でも痛みがあるんやねえん? じゃあ大事をとったら? こっちも、2日前ということで今日から準備は本番やろ。人ん配置を今日じゅうには決めないけんの。どう? 本当にちゃんとできるん?」

 詩織が一気に捲し立てた。

 いつもズバズバ言いたいことを口にする詩織らしいと七海は思った。

「詩織さん、私、今、どこにおると思います?」

 七海が石畳を踏みしめながら明るい声を出した。

「ん?」

「私、今、『塩屋の坂』を降りよんところなんです」

「えっ、そうなん? 私も、今、『おわたり』の前をそっちに向かっち歩きよんところちゃ」

 詩織が驚いた声を上げた。

 七海は、この石畳を「商人の町」まで降りきって、東へ250メートルほどいったところにあって、新鮮な魚が有名な洋食店「おわたり」の前を、いつもの速い足取りで歩いている詩織の姿をすぐに想像できた。

 七海が最後の段を目の前にした時、自分の名を呼ぶ声がした。

「七海さん!」

 目を向けると、谷町通りの舗道から詩織が大きな身振りで手を振っていた。

「塩屋の坂」に向けて大勢の観光客が押し寄せて来たのが分かった七海は、石畳を降りきった左手にある和菓子屋「松山堂」の前で詩織を待った。

「ほんと、治ったんね!」

 目を見開いた詩織は、七海の足元を見つめながら言った。

「完全に治った、ちゅうわけじゃないんですが、自分でもビックリしてます。病院の先生は、歩くるまで1週間かかることもある、ち言われてましたんで……」

「なのに、こんなに早く?」

 詩織は不思議そうな眼差しを七海に送った。

「きっと父の支えがあったからだと思います」

 七海が神妙な表情で言った。

「お父さん?」

「いやいいんです」

 七海が慌てて言った。

 しかし七海は、あの松葉杖を使っていた父が力をくれたんだ、と信じて疑わなかった。

「なんかなし(とにかく)良かったやねえ!」

 詩織が笑顔をみせた。

「昨日は休んでしまってご迷惑をかけてすみませんでした」

 七海は頭を下げた。

「そげなこたあいいんや。それより、じゃっ、観月祭んお仕事、できるのね?」

 クロシロをはっきりさせないと気が済まない詩織らしい言葉で結論を急かした。

「ええ、この通りです」

 そう言って詩織はその場で跳ねてみせた。 

 鋭い痛みが走った。

 しかし七海は表情には出すものかと必死に痛みに堪えた。

 それを見透かしたように詩織は苦笑した。

「もういいちゃ。歩くることが分かったけん」

 詩織の言葉に、七海は首を竦めてみせた。

「じゃあ、今から本番よ。行灯は間もなく私たち観光協会の手で運び入れるから、例年通り、後はよろしくね」

「もちろんです」

 七海は笑顔で答えた。

「それと、今回が最初の七島藺工芸の実演、そっちん準備はどう?」

(続く)
★第74回を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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