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小林秀雄『本居宣長』(後編)|福田和也「最強の教養書10」#8

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。今回は、小林秀雄が人生の最後に記した名著を紹介する。(後編)

★前編を読む

 昭和三十八年六月に「感想」が中断してほぼ二年後、昭和四十年六月から小林は、「本居宣長」を『新潮』に連載し始めた。

 本居宣長について、書いてみたいといふ考へは、久しい以前から抱いてゐた。戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思ひ、読んだ事がある。それから間もなく、折口信夫氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があつた。話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学の私には、のみこめぬ処もあつたが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成つてくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思つた。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はつきり気附いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだつたのではないでせうか」といふ言葉が、ふと口に出て了つた。折口氏は、黙つて答へられなかつた。私は恥ずかしかつた。帰途、氏は駅まで私を送つて来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居はね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言はれた。                 

 大作「本居宣長」はこうして始まる。

 本居宣長は江戸中期の国学者である。伊勢国松坂の商家に生まれ、二十三歳のときに医学修業のために京都に出たが、堀景山に儒学を学び、荻生徂徠や契沖の著作に触れたことで古学に開眼する。三十四歳の時に賀茂真淵に出会って門人となり、以後、『古事記』の研究にとりかかると、三十四年をかけて『古事記伝』を完成させた。

 小林の連載は十二年間続いた。昭和五十二年、単行本が刊行されると、批評作品として異例なことにベストセラーとなり、世評も高く、小林のライフ・ワーク、代表作として位置づけられた。

 小林秀雄で特筆すべきことの一つは彼の評論文が売れるということである。評論文が売れることで、作家なりジャーナリストなりから自立して、自分なりの立場を作ることができる。自分の読者を持つということを真剣に考えた批評家は、小林秀雄が嚆矢といっていい。

 今年の夏から秋にかけて、小林秀雄の『批評家失格 新編初期論考集』、『ゴッホの手紙』、『近代絵画』の三冊が相次いで新潮社から文庫本の新刊で刊行された。

 現在にいたっても、小林秀雄の本が売れているということは、彼の足元がいかにしっかりしているかの証明である。

 彼の批評は人間の本性を摑んでいる。これは小説家にも必要な能力だが、批評家の場合、さらにそれが何を彷彿させるか、存在感の輪郭をいかに書くかを考えることが非常に重要である。

『本居宣長』の前半で中江藤樹、伊藤仁斎について書いているが、小林の文章を読むと、彼らがそこにいることが厳然として分かる。

 その人間の本性の摑みが、時代を超えても読まれている理由なのだろう。

 『本居宣長』の単行本が刊行された時、小林は七十四歳だった。その後、「本居宣長補記」を『新潮』に連載して七十八歳まで書き、八十一歳で亡くなった。

 最後の作品は未完となった「正宗白鳥の作品について」だが、実質的に「本居宣長」が小林の批評の最終地点である。

 何故小林は、最終のテーマに本居宣長を選んだのだろうか。

 村岡氏は、決して傍観的研究者ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で書かれたゐるのだが、それでもやはり、宣長の思想構造といふ抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。私は、研究方法の上で、自負するところなど、何もあるわけではない。たゞ、宣長自身にとつて、自分思想の一貫性は、自明の事だつたに相違なかつたし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいといふ希ひと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は芸もなく、繰り返し思つてみてゐるに過ぎない。 (『本居宣長』)

 村岡典嗣の宣長研究に言及しながら、宣長を信じ、書きたいという小林の執着もまたダイモンである。自分の中のダイモンを明らかにするために、小林は『本居宣長』を書いた。ダイモン究明のために本居宣長を介在させたのである。

 とするならば、ベルグソンを通して自身のダイモンを露呈させた「感想」と同じである。全く異質に見える二つの作品の間には実は一貫性があり、「本居宣長」と「感想」は、戦い続けられている同じ一つの戦争の二つの局面と考えることができる。

『本居宣長』はとにかく長い。十二年間も連載したのだから、当然である。
その冗長に辟易した白洲正子が、昔の『無常といふ事』のスタイルでまた書いて欲しいと言ったところ、小林は「それは俺にはもう易し過ぎるのだ」と答えたという。

 人生が生きられ、味はゝれる私達の経験の世界が、即ち在るがまゝの人生として語られる物語の世界でもあるのだ。宣長は、「源氏」を、さう読んだ。誰にとつても、生きるとは、物事を正確に知る事ではないだらう。そんな格別な事を行ふより先きに、物事が生きられるといふ極く普通な事が行はれてゐるだらう。そして極く普通の意味で、見たり、感じたりしてゐる、私達の直接経験の世界に現れて来る物き、皆私達の喜怒哀楽の情に染められてゐて、其処には、無色の物が這入つて来る余地などないであらう。それは、悲しいとか楽しいとか、まるで人間の表情をしてゐるやうな物にしか出会へぬ世界だ、と言っても過言ではあるまい。(中略)さうすると、「物のあはれ」は、この世に生きる経験の、本来の「ありやう」のうちに現れると言ふ事になりはしないか。宣長は、この有るがまゝの世界を深く信じた。この『実』の、「自然の」「おのづからなる」などといろいろに呼ばれてゐる「事」の世界は、又、「言」の世界でもあつたのである。(『本居宣長』)

「本居宣長」で自らのダイモンを追及する小林が思考の中心に据えたのが、「物のあはれ」であった。

「物のあはれ」は外来の「唐ごころ」の理性や論理に把えられない、人の心を動かす、精霊、悪霊、森羅万象に開かれた情けが形として成されていく在り様である。

 小林はこの「物のあはれ」を一種の歴史的概念、つまり固有名詞として扱っている。紀貫之、藤原俊成、藤原定家を巡りながら、歴史的な意味を帯びた、知識階級の概念操作に捕らわれない、広い日本人の言語意識の背後にある詩情全般を反映した言葉として、「物のあはれ」をとらえている。「物のあはれ」は小林にとって、日本人と日本語に囁き続けるダイモンの声に外ならなかった。

 貫之にとつて、「ものゝあはれ」といふ言葉は、歌人の言葉であつて、楫とりの言葉ではなかつた。宣長の場合は違ふ。言つてみれば、宣長は、楫とりから、「ものゝあはれ」とは何かと問はれ、その正直な素朴な問ひ方から、問題の深さを悟つて考へ始めたのである。彼は、「古今集」真名序の言ふ「幽玄」などといふ言葉には眼もくれず、仮名序の言ふ「心」を「物のあはれを知る心」と断ずれば足りるとした。この歌学の基本観念が、俊成の「幽玄」定家の「有心」といふ風に、歌の風体論の枠内で、いよいよ繊細に分化し、歌人の特権意識のうちに、急速に、衰弱する歴史が見えてゐたが為である。それも、元はと言へば、自分は楫とりに問はれてゐるので、歌人から問はれてゐるのではないといふ確信に基く。「あはれ」といふ歌語を洗煉するのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、たゞ「あはれ」といふ平語に向かつて放つといふ道を、宣長は行つたと言へる。(『本居宣長』)

 さらに小林は、文字導入以前の日本語の姿への拘りを見せている。ここで小林が取り出しているのは、言葉が或る固有の言語、民族語として立ち上がっていく上での、抵抗と感触をもった、「形」の身もだえである。そのイメージを記録や理性によって整頓せずにありのままに見るという態度が、「物のあはれ」であり、『古事記』の編纂態度なのであった。

 知識人は、自国の口語言語の伝統から、意識して一応離れてはみたのだが、伝統の方で、彼を離さなかったといふわけである。日本語を書くのに、漢字を使つてみるといふ一種の実験が行はれた、と簡単にも言へない。何故なら、文字と言へば、漢字の他に考へられなかつた日本人にとつては、恐らくこれは、漢字によつてわが身が実験されるといふ事でもあつたからだ。従つて、実験を重ね、漢字の扱ひに熟練するといふ事が、漢字は日本語を書く為に作られた文字ではない、といふ意識を磨く事でもあつた。口誦のうちに生きてゐた古語が、漢字で捕へられて、漢文の格に書かれると、変質して死んで了ふといふ、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。

 この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によつて始まつたのではない、模倣の意味を問ひ、その答へを見附けたところに始まつた、「古事記」はそれを証してゐる、言つてみれば、宣長は、さう見てゐた。従つて、序で語られてゐる天武天皇の「古事記」撰録の理由、「帝紀及本辞、既違正實、多加虛偽、当今之時、不改其失、未経幾年、其旨欲減」にしても、天皇の意は「古語」の問題にあつた。「古語」が失われゝば、それと一緒に「古の実のありさま」も失はれるといふ問題にあつた。宣長はさう直ちに見て取つた。彼の見解は正しいのである。

「本居宣長」において、小林は、言葉の底にあるダイモンと、見ることの底にあるダイモンを一致させるに至った。「本居宣長」の、きわめて柔軟で、かつての小林秀雄には見られなかった穏やかで教え諭すような口調は宣伝や教化のために獲得されたものではない。或いは遺言などという収まりのよいものでもない。

「本居宣長」の持つ強い説得力は、これが思想でもなく、イデオロギーでもなく、まさに言葉の固有性、日本語という偶然で単独的な言葉のダイモンに耳を傾けたところにある。

 そこにおいて、私たちを誘うのは、言霊の力でも、ナショナリズムでもなく、まぎれもなく個別性の魔としてのダイモンそのものとしての批評にほかならない。

(完)

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