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文藝春秋が報じた映画の肉声 黒澤が狼火をあげ、小津が呟き、高峰秀子、田中絹代が… 石飛徳樹(朝日新聞編集委員)

文・石飛徳樹(朝日新聞編集委員)

1940年10月号 映画統制への疑問と希望 森岩雄

「文藝春秋」の創刊から現在までの記事から、日本映画史を象徴するものを選んでみた。基本的に戦後の文章にしたのだが、唯一「映画統制への疑問と希望」だけは戦前、1940年の寄稿である。2022年の今、どうしても紹介しないといけないと思えたからである。

筆者の森岩雄は東宝の取締役。東宝は、PCL映画製作所を母体に、37年に生まれたばかりの会社だった。森は映画評論家などを経てPCLの経営に参画した。俗に、松竹は小津安二郎や木下惠介ら監督の力が強く、東映は片岡千恵蔵や中村錦之助ら俳優が強いと言われる。その伝でいけば、東宝は藤本真澄や田中友幸といったプロデューサーが強いわけだが、現在に至る東宝のこの路線の礎を作ったのが森岩雄だった。

彼は内務省警保局警務課にある映画の検閲部門に対し、強い口調で批判する。「いやしくも日本映画の性根を革命的に直そうという文化的な仕事を、勿論内務大臣の責任に於てではありますが、政府の機構としてそうした一部内にのみ任せておいていいものか」と読者に問いかける。

「統制のやかましいナチス独逸でさえ、ゲッペルス大臣が直接指導し、民間を主体とする映画文化評議会を以てそのことに当らしめ、検閲についても或は陪席員制度を設けたり、更に苦情があれば上級検閲所を設けたり、緩急を計っていると聞いて居ります」

この文章からは、ナチスが相当強引な政治をしている、と森が考えていたと推察できる。堂々とこんな表現が出来るということは、多くの常識人が同じ認識だったのだろう。

そのナチスより日本の検閲はひどいと言う。「内閣情報局に映画の文化統制を全部やらせるべきだと早急に結論することは危険です」と断言し、「映画の配給統制会社を作るということを役人から伺います。この目的がどこにあるか、まさか映画を電力や肥料と同じに考えられているわけではないでしょうが、こんなことはさすがのロシヤでもドイツでもやってはいません。満洲国位でしょう」。森の舌鋒は鋭くかつ正しい。

ナチスのみならず満州国も批判の対象に上げる。重要なのは、政府批判のこの文章が左派の言論人によって書かれたものではないという事実である。映画産業の先頭に立つビジネスマンが発表した文章なのだ。何と健全な言論社会ではないか。

1940年と言えば、真珠湾攻撃の前年だ。そんなきな臭い時期に、政府を批判する言論が許されていた。逆にいえば、こんな発言が出来た時勢から、一切の政府批判が封じられるところまで行くのにさほど時間はかからないということだ。

1940年10月号 映画統制への疑問と希望 森岩雄
1951年5月号 日本映画を面白くするには 城戸四郎/永田雅一/森岩雄/佐佐木茂索
1951年12月号 ベニスの「羅生門」騒ぎ 高田博厚
1958年11月号 映画界・小言幸兵衛 小津安二郎
1968年7月号 血染めのブロマイド 高峰秀子
1970年1月号 映画界にふたたび狼火を 黒澤明
1975年3月号 女優50年 田中絹代
1991年12月号 「七人の侍」ふたたび 黒澤明/山田洋次/井上ひさし
1993年9月号 ビートたけしへの訣別 奥山和由
2002年10月号 「千と千尋」はディズニーに勝った 鈴木敏夫

時代の正義に逆らえるか

タイトルは「疑問と希望」だが、森が映画界に希望を持っているのではない。内務省に任せないで文部省もしっかりやってほしい。希望とはすなわち「要望するぞ」という意味である。「事前によくその目的なり手段なりを検討し合って、それからやる、やらぬと決めるべきであります。日本の文化のために特にそれを希望する次第であります」

政府の締め付けに、森が怒り心頭に発しているのがよく伝わる。彼がどんな覚悟をもってしたためたのか。政府に異を唱えるのは、相当に勇気が要ったのではないだろうか。

いつの時代にもその時代の正義がある。森の意見は当時の正義に適うものではないだろう。時代の正義に逆らう発言が出来る人間、これを載せる媒体がいくつあるかによって、社会の成熟度を測ることが出来る。

今、SNSの普及によって多様な発言が可能になるかと思いきや、逆に正義のパワーが強まりすぎ、時代の正義に反する意見は封じ込めてしまえという空気が生まれつつある。森のような論陣を張れる映画人が果たしてどのくらいいるだろうか。

もう一つ現代につながる論点が示されている。「ナチス独逸では1年に演劇の費用が見物の入場料でまかなえるのはその3分の1に過ぎず、残りの3分の2は国家その他の機関が補っていると聞いています。必要なものだけで後は何も要らぬという政治の方針は、(中略)今後の日本に必要なものも要らないとする文化政策を包含する政治には、私は甚だ同意しかねる次第であります」

いま、是枝裕和監督ら有志が映画文化支援制度の導入を訴えている。フランスのCNC(国立映画映像センター)に準じた日本版CNCの設置である。CNCは映画館の入場料などの一部を製作に回すなどしたり、様々な支援策を実施している。今の映画人と同じことを、森は既に戦前から主張していたのだった。

1951年5月号 日本映画を面白くするには 城戸四郎/永田雅一/森岩雄/佐佐木茂索

終戦から6年後の1951年、日本経済は朝鮮戦争特需によって復興に向かっていた。日本映画黄金時代に入る直前に行われた「日本映画を面白くするには」という座談会には、当時の三大映画会社の経営側のキーパーソンが顔をそろえている。

松竹の城戸四郎は、撮影所の名前から「大船調」と称されるホームドラマの伝統を築いた立役者。大映の永田雅一は勇ましい大言壮語で「永田ラッパ」という異名を取るほどのワンマン経営者。東宝の森岩雄は、前出の「映画統制への疑問と希望」で紹介した通り。戦後の東宝を支えた藤本真澄と田中友幸という二大プロデューサーの育ての親である。

城戸と森は戦後、GHQによって公職追放の対象となった。そして、この座談会の頃に映画界に復帰してきた。永田も一度は公職追放されたが、すぐに解除されていた。

個性豊かな3人に加え、文藝春秋社長で、東宝の企画本部長に任じられた佐佐木茂索が参加している。

佐佐木はともかく、映画界に怖いものがない3人は言いたい放題の連続である。例えば永田の発言。「久しぶりに溝口(健二)と衣笠(貞之助)に会ったから、『君等よう聞いてくれよ。君等は一流の大監督と俺は認めるが、年に一本か二本しか作らんで、一流の芸術家として暮してゆこうというのは根本的にまちがいだぞ。(中略)今日は年に少くとも三本は撮るのが当り前や。三本で一年暮せたらええやないか……』」

今なら大問題になりそうだが、当時は規制が緩かったのか、いけしゃあしゃあと収録されている。ここまで直接文句を言われたら、反論もしやすい。当時と現代の言論環境、一体どちらが成熟しているだろう。

座談会は互いに軽いジャブを繰り出した後、佐佐木が「ところで、いま洋画の進出ということが、相当問題になってるけども、これはますます進出しますか」と振っている。これに対し城戸が「邦画が洋画に煽られてるとかいうことを、しきりに云うけれども、これは何も今日始まったことじゃないんで、長い月日、煽られて来たんです」と応じている。

この後、永田が「いま日本映画の危機が伝えられとる。あらゆる強力な新聞、雑誌、御社だって採上げておる」と話したり、佐佐木が出版界について「ちょっと紙に印刷すれば売れる、という時代があったからね」と言ったりしている。

いつの時代も、社会は危機を迎えており、「昔は良かった」となる。とりわけ私たちマスメディアは危機がなくなると生きていけないのだ。

実際にこの時期の外国映画は極めて強力な布陣である。戦争が始まって洋画の公開がストップしていたからである。日本で未公開だった名作群が続々と封切られた。『風と共に去りぬ』(1939年)や『天井桟敷の人々』(1945年)が公開されるのは、この座談会の翌年である。

ただし、城戸はさすがに凡人ではない。憂えただけでは終わらない。「邦画は将来性がないと考えることは、全然まちがいだと思うんです」と反転攻勢に出る。

「われわれは、今までの日本映画では満足しきれないという人に満足できるような映画を拵えなければならない。一方、そうやってゆくことによって、従来の邦画を見てる客の観賞力が或る程度高まってゆく。両々相俟って、邦画の前途は多幸だ」という結論を導く。そのためには、作り手が努力しなければならないという。「僕はその考え方如何によって、大変な幅が出て来ると思うんです」

永田も、城戸と森が公職追放から復帰してきた今年が映画界の「整備時代」であるとしたうえで、こう述べている。「そうして来年こそ、正々堂々と邦画が洋画と闘うべき年ですよ。私はそう思っとるんや」

それは、永田の想定よりも早くやって来た。掲載から数カ月後に、ベネチア国際映画祭で黒澤明監督の『羅生門』が金獅子賞を獲得した。永田の大映が製作した映画だった。ベネチアではその翌年から溝口健二監督が3年連続で賞を取り、カンヌでは衣笠貞之助監督の『地獄門』がグランプリを獲得するなど、50年代は、日本映画受賞ラッシュになった。

永田は51年当時の興行について「入場料を支払う観客が、年に7億から7億5000万人と見とるわけだ」と話している。それが57年には10億人を超え、58年には史上最高となる11億2700万人を記録した。邦画と洋画のシェアは76対24。座談会の数年後に彼らの見立て通り、邦画の時代がやって来た。

永田雅一

永田雅一

1951年12月号 ベニスの「羅生門」騒ぎ 高田博厚

筆者の高田博厚はパリ在住の彫刻家である。フランスの芸術家や知識人と交流を持ち、在欧邦人向け新聞を刊行していた。パリの日本人代表のような存在だったのだろう。

1951年、黒澤明監督の『羅生門』がベネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得した。その時ベネチアにいた高田によるリポートかと思って読むと、実は違っている。

高田の文章は毒の含有量が極めて高い。この寄稿は同じ年の第4回カンヌ国際映画祭から始まる。「世界の遊覧地である南仏海岸の各町の客引競争がはげしく、その中での一番贅沢地のカンヌが権威をおとさないため猛運動をして、貧乏なフランスの第一の金櫃である観光客誘引政策と、アメリカ・ドル映画に圧倒されてもがいているフランス映画政策とを結びつけて、あの風光明媚の海岸へ年中行事映画殿堂を建てたいきさつは、私も充分知っていた」

既に皮肉たっぷりである。日本から出品されたドキュメンタリー『稲の一生』をこき下ろす。カンヌ事務局から「来年はぜひ大きいものを出しなさい」と言われ「東和商事の川喜多さんに押しつけた」。川喜多が「一つ、『羅生門』というやつがあるのですがね」。ところが、高田と川喜多がベネチア映画祭からの勧誘に遇い、そちらに出ることになる。

高田はベネチアに行っていなかった。記者の電話で『羅生門』の金獅子賞を知る。そしてカンヌの国際映画委員会のC・ド・R課長からてんやわんやの一部始終を聞いた。『羅生門』はベネチアに「何の前ぶれも、説明もなしに、映画をぽんと一本送っただけで…それも伊太利の映画商人の手を通してらしい」。

この「映画商人」とは、東京でイタリア映画の配給を手がけていたジュリアーナ・ストラミジョーリのこと。日本を愛し、『羅生門』を愛した彼女が字幕翻訳や出品手続きを請け負い、送料も負担した。彼女の熱意がなければ、『羅生門』の受賞どころか、50年代の日本映画黄金時代もなかったかもしれない。

受賞の報を受けた大映の永田雅一社長は「グランプリとは何のことかね」と新聞記者に聞き(金獅子賞はグランプリと呼ばれていた)、黒澤監督は自宅近くの多摩川で釣り糸を垂れていたという。つまり日本からは誰も現地に行っていなかった。

C・ド・R女史によると「誰でもい、ベニス中を探し廻った。(中略)とうとう警察へ頼んで、是が非でも日本人を一人つかまえてくれ」。それでも見つからず、「どこで探してきたのかしらんが、一人小っちゃなれっきとした東洋人をかっぱらって来てね、小汚ない男をさ、タクシードを着せて、例の賓客席へ据えつけた」。そんな時代だったのだ。

『羅生門』は日本では前年の50年に公開され、キネマ旬報ベスト・テンの第5位と、そこそこの評価にとどまった。次に松竹で撮った『白痴』は4時間を超す長尺になり、興行的に失敗。黒澤監督は窮地にあった。暗雲を一気に吹き飛ばしたのがベネチアの金獅子賞だった。

この2年前の49年、ノーベル物理学賞に湯川秀樹が日本人で初めて選ばれていた。高田はこの文章をこう締めている。「一つの老婆心は、日本映画がはじめて国際賞をとったからとて、湯川博士がノーベル賞をもらって、国中がひっくりかえるように騒いだようなことはくりかえさないでほしいということである。ラショモンが大賞をとったのも、日本にとっては寝耳に水で、身をつねってみたであろう。気がついてみて、ぎゃあぎゃあ騒がれるな。その時にこそ恬然と済まして居られよ! 問題は持続力があることである。賞などを大切に思うな」

しかし、高田の老婆心は現代まで全く顧みられていない。ノーベル賞でも国際映画祭でも、日本人が受賞した時だけお祭り騒ぎすることが繰り返されてきた。そしてマスメディアに籍を置く私自身が片棒を担がされている。私は高田の意見に全面的に賛成する者であるが、私に出来ることはせいぜい、文体をはしゃぎすぎないようにすることくらいだ。

今年のカンヌ映画祭では、早川千絵監督の『PLAN 75』が新人監督の作品に贈られるカメラドールの特別表彰を受けた。授賞式の前に早川監督にこう言われたことが心に残っている。「受賞しなくても『受賞逃す』と書かないで下さいね」。確かに新聞やテレビでよくある表現だ。幸い「受賞逃す」と書く機会は訪れなかったが、こういう小さなことから変えていこうと思っている。

1958年11月号 映画界・小言幸兵衛 小津安二郎

小津安二郎監督は溝口健二、黒澤明と並び、世界で最も人気のある日本人監督だ。『晩春』『麦秋』『東京物語』という原節子主演の「紀子三部作」を頂点に、戦後の作品群は、ワンカット見ただけで「ああ、小津の映画だ」と分かるほどのオリジナリティーを持っている。

小津といえばまず原節子が思い出される。ただ、小津映画が独特の空気を醸すのは、原よりむしろ笠智衆のたたずまいやセリフ回しの影響が大きいと思う。『晩春』『東京物語』などの悠揚迫らざる熟年を演じる時はもちろん、『麦秋』『お早よう』などの厳しめの中年を演じる時も、上品な可笑しみが滲み出る。

小津は、その言葉にも独特のリズムや文体がある。「僕は豆腐屋だから豆腐しか作らない」「なんでもないことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う」など、含蓄のある名言を残しているが、「映画界・小言幸兵衛」というエッセイも思いつきの羅列のようでいて、とても味わいが深い。

1958年、小津は初カラー作品『彼岸花』をヒットさせた。同じ年にもう一本、『お早よう』の撮影に入る頃の文章である。戦後の小津は基本的に1年に1作品を発表していた。前出の映画会社の座談会で、大映の永田雅一社長が自社の溝口監督や衣笠貞之助監督に、年3本撮らせようとしていたが、松竹にも、シビアな永田イズムが押し寄せていたのか。58年といえば日本の映画人口が最大値を記録した年である。

小津安二郎

小津安二郎

興行性と芸術性の関係

当時の小津は既に大巨匠だが、そんな彼でも山本富士子、有馬稲子、久我美子とスター女優を揃えた『彼岸花』のヒットを素直に喜んでいる。

「このスター・ヴァリュウで客が入らなかったら、会社はびっくりするどころではなく、私はたちまち契約を解除されてしまうところだ」

そして次に大事なことを言っている。「若い頃には、興行性と芸術性とは相反するものだと、私は考えていた。儲からなくてもいいから、自分のやりたいものをやるんだという意気込みで、大いに仕事をしたものだ」と。さらに続けて「やはり若い時は、意あっても力が足りない」と書き、「気分だけは大変な芸術と取組んでいるつもりでも、ろくに腕も立たず、障子一枚、桟一つ削れない奴が、仏像を作ろうとしてもうまくゆくはずがない、職人の風上にも置けない奴だということになる」。

小津はこの時54歳。亡くなる5年前である。松竹には篠田正浩や大島渚、吉田喜重といった芸術肌の若者が入社していた。威勢の良い彼らに、小津はかつての自分を見ていたのだろうか。サイレント時代の小津はメロドラマからナンセンス、ハードボイルドまで様々なジャンル映画を撮っていた。ローポジションの固定カメラという揺るぎないスタイルを確立し、娘を嫁にやる家族の物語を繰り返し描くようになったのは、年齢を重ねてからのことである。

「監督も若いうちは色々な意欲を持つが、力倆がなかなか伴わない。意欲と力倆とのバランスがとれてこそ始めていいといえる」「そういうバランスは、とにかく何でもこなしているうちに、やがて自らとれてくるので、そこで始めて甲羅に似せて自分の穴を掘ればよいのである」。まさに小津自身の経歴を語っている。

一方で、小津は若者が駄目だと言うばかりでない。ベテラン監督が若い才能をつぶす危険性にも言及している。「若い助監督も、撮影所に入ってくるときには、大きな抱負を抱いてくるに違いない。しかし、永年監督について走り使いをしているうちに、自分の抱いている新鮮な手法が消えていく。既成の常識的な手法を見聞しているうちに、なるほど映画の文法はこういうものだと、自分から妥協してしまうのだ。そこで監督になっても、撮り方がいつも同じで普遍的なものになってしまう。日本映画に新鮮さが見られないのはこういう点に原因がある」

考えてみれば、『彼岸花』に限らず、小津の映画には当時のスター俳優が数多く出演している。それは溝口も黒澤も成瀬巳喜男も、どんな監督もそうだった。つまり、現代よりもはるかに興行性と芸術性が一致していたのだ。現代の日本映画は興行優先の作品と芸術優先の作品に二極化してしまっている。映画というのは本来、ファインアートとは違ってもっと幅広い層の観客にそのテーマを届けることが出来る。もう一度、映画の特性をしっかり考え直すべき時が来ているように私は思う。

1968年7月号 血染めのブロマイド 高峰秀子

2011年元旦。新聞各紙に高峰秀子の訃報記事が掲載された。享年86。彼女を送る記事を私はこんな文章で始めた。「美しさや演技力を競うならば、他の名前が挙がるかもしれない。しかし高峰さんほど多くの人々に親しまれた女優は、寡聞にして他に知らない」

「デコちゃん」と呼ばれた彼女は、子役時代から人気を得て、成長してからは木下惠介監督の『二十四の瞳』や成瀬巳喜男監督の『浮雲』など、日本映画の頂点に立つ作品に主演。女優生活が半世紀を迎えた時にスパッと映画界と縁を切った。見事な潔い人生だと言うほかはない。

高峰の魅力の源泉は、スクリーンに映っている姿だけではない。前出の「ベニスの『羅生門』騒ぎ」の中で高田博厚が、1951年にパリを訪問した彼女のことを書いている。「幼いときからその世界で苦労したせいでもあろうか、パリへ来てもおとなしく地味に日を過して、日本女優が来たとて会見したがる雑誌や新聞記者をつとめて避けている」と。

高田の知る多くの日本人とは、性根がまるで違っていた。「日本を発つとき大宣伝をして、『花のパリ』を大騒ぎさせるようなほらを吹いて来る女性や、パリで『世界的に有名な』文士や画家や俳優に会って、100年の知己を得たような文章を『日本の新聞雑誌』に出して得意なのがあまりに多すぎる中に、高峰さんはさすがに己れを知っている。これは謙譲の徳とかなんとかよりもっと美しいものだろう。自分で世の中に生きてみて己れを知る智恵だ」「パリへ来る日本知性者の粗雑さに絶望していた私は、この少女を見てほっとしたのであった」

高峰秀子

高峰秀子

戦地からの手紙

高峰は文才があることでも知られている。彼女自身の潔くて飾らない人柄に拠るところが大きいのだろうと思う。この「血染めのブロマイド」もまさにそうだ。

「私は写真を撮られるのが苦手だ」という、およそ女優らしからぬ一文で始まり、「私にはもう『撮られる顔がない』のである」と謎かけをしてきて、「5歳の時からキャメラの前に立てばニッコリする、つまり、営業笑いの習慣をつけられた私は、以後40年間、撮られっ放しに撮られて『もはや、する顔がなくなった』のである」と答えを示す。

話題はブロマイドの売れ行きに移り、子役時代の人気ぶりを披露するが、そこには自慢の影が全く見えない。かといって、わざとらしい謙遜もない。彼女は他人事のように自分を観察している。つまり、自意識を感じさせない文章なのだ。高田の見立てにも通じる高峰の特長である。

そういうマクラを振っておいて、さりげなく本題に入っていく。このエッセイの本題は、タイトルにもあるように「血染めのブロマイド」なのだ。つまり「戦争」である。前線の兵士に送られる慰問袋の中に、高峰のブロマイドが入れられていたという話である。戦地でブロマイドを見た兵士からの手紙を彼女は続々と受け取ることになる。

「ある兵士からは『もし、生還出来たら、あなたのような人をみつけて結婚したい』と書いてあり、ある兵士からは『私は明朝、突撃隊として出撃する。慰問袋に入っていたあなたの写真を今日まで胸のポケットに抱き続けていたが、戦死の道づれにするに忍びないから』と、わざわざブロマイドを送り返してきた。また、ある母親からは『戦死した息子の遺品の中にありました』と、血に染まったブロマイドを送り返してくれたこともあった」

このエッセイは1968年に書かれたものだ。戦後23年経っていたが、「私の心の中では、戦後は終ってはいない」と言う。明朝特攻機で出撃する航空兵を慰問した帰り道。「慰問隊の乗ったトラックに手を振りながら、いつまでも見送っていた特攻隊員たちの『さようなら、さようなら』という叫び声は、いまもまだ私の耳にはっきりと残っている」と書き記している。「だから、いまの日本の若者たちが『戦争はカッコいいな』などと無造作に言い放つのをみると、本当に飛んでいってブン殴ってやりたくなる。私は、もう戦争はイヤだ」

今年は戦後77年。戦争の空気を肌で知る人の多くが鬼籍に入りつつある。高峰のように、勇ましい若者をブン殴ってくれる人が映画界からも、政治の世界からもメディアからも、どんどん消えていっている。日本もまた、過ちを繰り返してしまうのだろうか。何年かに一度大きな戦争を経験しないと、人間は気づかないのだろうか。私たちは今こそ高峰のエッセイをもう一度読み、立ち止まって考えてみなければならない。

1970年1月号 映画界にふたたび狼火を 黒澤明

黒澤明監督にとって、「映画界にふたたび狼火を」が掲載された1970年頃は1番つらい時期だった。傑作『赤ひげ』を発表したのが65年。ベネチア国際映画祭で三船敏郎が最優秀男優賞を受けた。しかし三船とのコンビは『赤ひげ』が最後になった。東宝との専属契約が終了。60年代後半の黒澤は海外との仕事を摸索する。『暴走機関車』『トラ・トラ・トラ!』とハリウッド映画の企画が立ち上がったものの、いずれも頓挫してしまっていた。

「日本映画をどん底からはいあがらせるため、僕ら先輩にできる事は」という副題が付いているが、黒澤自身もはいあがろうとしていたのではないかと想像できる。冒頭は黒澤のこんな語りで始まる。「テレビで黒沢明シリーズをやるについてはね、やっぱり時の流れを思うというか、ある種の感慨はありましたよ」

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