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TRF・SAMさんが60歳に…15歳から「ダンサー」の道を歩んだ“知られざる半生”

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1月13日に還暦を迎えたばかりのTRFメンバー・SAMさん。明治時代、曽祖父が埼玉・岩槻で医院を開業し、現在も一族で総合病院を営む医師家系の一員でありながら、「ダンサー」という道を選んだ独立独歩の人としても知られる。「丸山正温」から「SAM」になるまでの半生を聞いた。(聞き手・構成=小泉なつみ/ライター)

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還暦を迎えたSAMさん(C)榎本麻美/文藝春秋

◆ ◆ ◆

――SAMさんが還暦を迎えるということですが……TRFでデビューされた90年代初頭から見た目がほとんど変わらないですよね。

SAMさん(以下、SAM) いやいや、当然体力も落ちているんですけど、動きのキレは確実になくなってきてますよね。

――毎日身体と向き合っているSAMさんだからこそ、微妙な変化にも気づかれるんでしょうね。髪型もずっとロングヘアで。

SAM 何回か切ろうと思っていろんな美容師さんに相談したんですけど、皆に「絶対SAMさんはそれがいいですよ!」と言われて切ってもらえなくて……。それこそタモリさんに「髪切った?」と言われたくて、髪型を変えるならそこしかないと思ってたら『笑っていいとも!』が終わってしまいました(笑)。今は完全にタイミングを失っています。それにもう少しハゲると思っていたんですけどね。

――たしかに額も狭いままといいますか。

SAM 昔のPVを見るとわかるんですけど、これでもだいぶ上がってきたんです。何十年も髪の毛を縛っているから毛根に負担もかかってるでしょうし、もちろん老化もあるし。

 でも、もともと額がないくらい狭かったので、今ちょうどいいあんばいになってきたと思ってます(笑)。僕の父は40代後半でかなり薄くなっていましたから、髪質は母方譲りなんでしょうね。

――お父様といえば、埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)に丸山記念総合病院を創設された方ですよね。SAMさんの実家は明治時代から続く医者の家系、というのは有名な話かと思いますが、やはり小さい頃はプレッシャーが強かったですか。

SAM ずっと病院が遊び場でしたし、「将来は自分も医者になるんだろう」という感じで、疑問にも思わなかったですね。結局、男兄弟は僕を除いて全員、医者になっていますし。

――SAMさんだけダンスの道に行ったんですね。どんな子でしたか。

SAM 僕が通っていた獨協(中学校・高等学校)はわりと進学校で、不良なんてクラスに数人しかいない環境でしたが、そのグループにはしっかり入っていました。といっても“ファッション不良”みたいな感じで、悪いことをするような感じではなくて。その流れで友だちと一緒に初めて行ったディスコでダンスを見て、もう衝撃だったんです。

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――ダンスのどんなところに心を奪われたのでしょう。

SAM きらびやかな空間の中、ダンスの上手い人がフロアに躍り出た途端、周りがわーっと注目して……完全にスターですよね。

 当時はフォーリーブスやJOHNNYS' ジュニア・スペシャルといったアイドルグループのダンスくらいしか見たことがなかったので、ディスコダンスのかっこよさに一瞬で魅了されました。

――ディスコに夢中になると、学校からは足が遠のきそうですね。

SAM 学校は寝に行く場所になりましたよね。歌舞伎町のディスコに通うようになっていたんですが、ディスコに5時までいて、新宿の喫茶店で7時まで時間を潰し、そのまま駅のコインロッカーに置いていたカバンを持って目白の学校に行く、みたいな生活でした。

――医者の道から外れていくSAMさんを、家族はどのように見ていましたか。

SAM 15のときに一度家出をしたんです。学校も嫌だし、勉強も嫌。とにかく自由になりたい一心で。まあ、すぐに連れ戻されたんですけど。そのとき親父から、「居場所を伝えること、学校に行くことだけは守れ」と言われて。

 そんなことくらいで自由になれるならラッキーと思って、どんなに遊んでも学校だけはちゃんと行くようになりました。

――SAMさんの本名は「正温(まさはる)」ですよね。「SAM」は「正温」をもじったネーミングなのでしょうか。

SAM 当時のディスコの常連って、ジミーとかトミーとか、外国人のあだ名を付けあっていて。その流れで僕はなぜか「サム」になりました。16、17からずっと「SAM」です。

 その頃からレコード会社の洋楽部の人たちから新譜のキャンペーンを任されるようになって。当時「ミッキーマウス」というダンスチームを組んでいたんですが、歌舞伎町ではそれなりに有名だったんです。毎日歌舞伎町のディスコに通っていましたが、それは本当に「踊るため」。今考えると女の子にも結構声をかけられていましたが、まったく興味がなかったんです。

――当時のディスコって、たぶん皆そっちが目的ですよね。

SAM そうなんですよ。僕らは女の子をナンパするっていう頭もなかったですね。だからかなり暑苦しい集団だったと思います(笑)。

――硬派なミッキーマウスだったんですね。その後SAMさんはアイドルでデビューされますが。

SAM 当時DJを20人くらい抱えていた「全国ディスコ協会」という、ちょっと怪しげなネーミングの団体があって。そこの会長だったドン勝本さんという日本ディスコ界の草分け的な方に声をかけられて、ショータイムに踊るためのダンサーチームに入ったんです。

 全国のディスコを巡業する中で、さらにチームにボーカルを入れてデビューさせよう、みたいな話になっていって。それが20歳のとき、1982年の話です。

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――トントン拍子で有名になられて。

SAM いや、実際には全然そんなことなくて。デビュー曲の歌詞の中に「朝まであなたとディスコで踊る」みたいな内容があったんですが、ちょうど同じ年に「新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件」という未解決事件が起きたんです。それで歌詞がよろしくない、となってA面とB面を差し替えることになり、デビュー曲もまったく売れず。

――しかも歌舞伎町のディスコは、当時のSAMさんの根城だったわけですよね。

SAM 犯人が捕まらなくて容疑者のモンタージュ写真が出回ったんですが、それが髪型を含めて、当時の僕にそっくりで。「聞き込みをしたらお前の名前が出てきた」と、警察の取り調べも受けました。「お前、この日どこにいた」「ディスコにいました」「やっぱり歌舞伎町のディスコか」みたいになって。今でこそ笑い話ですが、これは本当に参りました(笑)。

――前途多難の船出だったんですね。

SAM 一発目のデビューが失敗した後、今度は「リフラフ」という名前に変えて再デビューして。それなりに名前も出るようになったんですが、たのきんトリオの全盛期で、テレビに全然出られない。そもそもなんで僕がアイドルになったかというと、テレビに出られれば世の中にもっとダンスを広められると思ったからでした。なんか思っていたのと違うなと。

――今でこそ子どもにとっても憧れの職業になっていますが、当時の「ダンサー」はどのような存在だったのでしょうか。

SAM 結局、徐々にメンバーの熱も冷めていき、自分もダンサーとしての道を極めたいと思ってニューヨークにダンス修行に行くことになるんですが、「アイドルをやめてダンサーになる」と言ったとき、事務所の人から「お前はバカか」と言われました。「いま前で歌えているのに、お前は“バックダンサー”になって後ろに回るのか」と。完全に黒子的な扱いでしたね。前で歌わないと売れない、稼げないという意味でもあったと思います。

――ところでSAMさんは高校卒業の18歳以降、就職とかはせずにダンス一本で生きてきたわけですよね。この間、確定申告なんかはどうされていたんですか。

SAM 25、26まで親の扶養家族でした。親に聞いたら「まだ扶養でいいよ」と言ってくれて。家は半分勘当されていましたが、家族の中で母親が守ってくれていたんです。親父とはなかなか溝が埋まらなかったけど、ダンスの道に行きたいと言ったとき、「どうせやるなら真面目にやれ」と送り出してくれました。この一言は今もずっと心に残っていますね。

 ただ弟が勉強してないと、「はるちゃんみたいになりたいの?」と言って家族がたしなめていたらしいですけど(笑)。

今年、結成30周年を迎えたTRFは、小室哲哉氏のプロデュースのもと、90年代のヒットチャートを席巻し、「ダンス&ボーカルグループ」の先駆けとなった。チームの変遷と、「恩師で恩人」と語る小室氏とのエピソードを聞いた。

――約30年前、SAMさんをTRF加入へとつなげたのはグループの生みの親であり、プロデューサーの小室哲哉さんですか?

SAM そうです。90年頃に放送されていた『ダンス!ダンス!ダンス!』という番組に出ていた僕を小室さんが見てくれたのがきっかけで、声をかけてもらいました。

――当時の小室さんといえばTM NETWORKで大人気でしたよね。SAMさんはどんな印象を持っていましたか。

SAM 実は僕、その頃ほとんどテレビを見ていなかったのでTM NETWORKのこともよくわかってなかったんです。ただ周りから「ポテトチップスの人だよ」と言われて理解して。当時「オー・ザック」のCMに小室さんが出ていたのを見たことがあったので、「ああ、あの人か」と(笑)。

 渋谷のクラブクアトロで『ダンス!ダンス!ダンス!』の卒業記念ライブをやったんですが、そこに小室さんが来てくれたのが初対面。(小声で再現しながら)「普段はどんな曲で踊ってるの?」と楽屋で聞かれて。小室さん、すごい声が小さいから聞こえにくいんですが、その場で「プロのダンサーとグループを作りたい」と打診をされました。

――それからすぐにTRFが結成されたのでしょうか。

SAM 「よろしくお願いします」と話してから2、3カ月、音沙汰がなくて。小室さんが多忙過ぎたせいか、1回連絡を取るとその後に数カ月は必ず間隔が開くんです(笑)。

 しかも次会うとなったときにも突然「赤坂プリンス、17時でいい?」と呼び出される。こちらが時間通りに行っても、小室さんは18時半に悠然と降りてくる(笑)。

――マイペースな方なんですね。

SAM こんなことを言うと自分勝手な人に見えてしまうかもしれないけど、小室さんってものすごいソフトで優しいんですよ。僕らが提案したことに「ノー」と言ったことは一度もないんじゃないかな。

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――若い人の意見を積極的に取り入れると。

SAM そうかもしれないですね。当時クラブで毎週、僕がイベントをやっていたんですけど、そこにもふらっと遊びに来るんです。するとフロアの端っこの席に座って、若い子たちがどんな音に反応するか、どんなファッションで来ているか、じーっと見てるんです。

――カルチャーの研究をされていたのかもしれませんが、周りがドキドキしちゃいますね。

SAM 誰もが小室さんだって気づくから、こっちも気が気じゃなかったです。「VIP席取れてるんで行きましょう」と言っても全然気にしないんです(笑)。

 ただ一度お願いというか、言われたことがあるのは、「TRFのメンバーは5人にできないかな」ということ。「人が名前を覚えられる限界って5人くらいだと思うから」と(笑)。結成当時はDJ2人にボーカル1人、ダンサー8人の計11人いた。だから『EZ DO DANCE』のジャケ写は10人写っています。

 ブレイクした後シーブリーズのCMに出たんですけど、他のメンバー数人が競合他社のCMに出てしまったことで、自然とメンバー減になりました(笑)。

――TRFといえば、今や当たり前となった「ダンス&ボーカルグループ」の先駆けですよね。このスタイルはどうやって生まれたのでしょう。

SAM もともと僕の所属していたMEGA-MIXというダンスチームがTRFの母体みたいなもので、僕たちはダンスチームとしてデビューできると思ってたんですよ。

 そうしたら途中で突然YU-KIちゃんが出てきて、「私このチームのボーカルになるんです」と。当時彼女はZOOにいて以前から顔見知りでしたが、僕らはチームのメンバー同士なのに知らされていないことだらけでしたね。

――誰も小室さんの頭の中の「TRF像」の全貌は知らないままだったんですね。

SAM 小室さんって当時からずっと、基本的に何も説明してくれないんです。曲についても事前に希望を聞かれたからドロドロのヒップホップとかアシッドジャズを渡してたのに、完成した曲はバリバリのテクノ。正直どんなことがしたいのかさっぱりわからなかったけど、もしかすると小室さん自身もビジョンが見えていなかったのかもしれません。

――「ダンサー」が「バックダンサー」でなくチームの一員である、という体制は当初から?

SAM MEGA-MIXでやっていたときから、「歌手のバックでは踊らない」という変なポリシーがありました。「僕らは“ダンサー”として有名になってみせる」みたいな思いが強かったんです。その後『EZ DO DANCE』がヒットして、マハラジャやキング&クイーンといった全国のクラブを回るツアーをしていく中で、ライブのスタイルも確立されていった感じですね。

――クラブでツアーをしていたとは……。TRFはめちゃくちゃアンダーグラウンドから出発してたんですね。

SAM 全然ぽっと出でもないし、トントン拍子でもなく、めちゃくちゃ下積んでます(笑)。

――下積み時代を経て、93年に『EZ DO DANCE』が大ヒット、ロングセラーを記録したときは感慨もひとしおだったのでは。

SAM ところが僕は嬉しくなかったんですよね。やっぱりまだ世間としては「バックダンサーでしょ」という見方が強くて、誰もダンサーをTRFのメンバーとして見てくれなかったから。TRFが売れた後も、僕たちが一員として認知されるまでには時間がかかりました。

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――そういう受け止めだったんですね。当時私は小学生でしたが、SAMさん、CHIHARUさん、ETSUさんと、ダンサーメンバーの名前も覚えていた記憶があります。

SAM 最初の頃は、僕たちのソロパートでも照明を当ててくれませんでした。照明さんに言っても「お前らはどうせバックダンサーだろ」といった感じで聞く耳を持ってもらえず、結局小室さんに言ってもらったんですよね。「SAMたちのソロはギターやドラムのソロと同じだから、ちゃんとピンを当ててくれ」って。

――小室さんの言葉は、SAMさんたちダンサーの本質を理解している感じがしますね。

SAM 小室さんとは本当に苦楽を共にしてきた感覚があります。僕にとっては間違いなく恩師で恩人ですね。

――一方で、TRFは98年頃に小室さんプロデュースから離れます。これはどういった経緯で?

SAM その頃、僕たちが所属するエイベックスの中で「今後TRFをどうするか」みたいな会議が行われたんです。別に僕らは「このままでいいよ」と思ってたんですけど(笑)。

――方向転換、イメチェンしたい、みたいな空気が会社にはあったんですね。

SAM そこで「“trf”を大文字の“TRF”にして大人のグループにしよう」という結論になったんです。でもデビュー時点で30歳でしたから、「すでにけっこうな大人なんだけどな」とは思っていました(笑)。

 そういう経緯で、みんな黒っぽい衣装にスーツみたいな衣装を着たりとか、KOOちゃんも長いカラフルなドレッドだったのが、黒の本格的なドレッドに変えたり。その頃から小室さんからも離れてセルフプロデュース状態になっていきました。小室さんも拠点を海外に移していたので、前のように気軽に連絡が取りにくくなっていたこともあります。

――2000年代はリリースが途絶えた時期もありました。その時期SAMさんはどんな活動を?

SAM 2000年から2005年までは新譜も出さず、TRFとしてはまったくのブランクでした。その頃、僕個人はV6やBoAのコンサートプロデュースをやったりしていて、裏方に回っていた感じです。

――他のメンバーと連絡をとることもなかったのでしょうか。

SAM いや、逆に連絡をとるようにしてましたよ。CHIHARUとETSUはダンスを通じてしょっちゅう会っていたんですけど、YU-KIちゃんとKOOちゃんは本当に年に数回しか会わなくなっていたので、「元気?」って電話するようにしていましたね。

――30年の中で、「解散」というワードが出たことは?

SAM 実はその言葉が出たことはないんですよ。ものすごく強い意思で「TRFは絶対続けるんだ!」というより、「望まれたとき、望まれた場所で何かできればいいよね」というスタンスというか。だからメンバーのみんなも「あえて解散を謳わなくてもいいよね」と。活動したくないときはしなければいいし、新曲が出したくなったら出そうよ、という感じでここまできました。

 ただ今年は結成30年を迎えます。ここ5年ほど新曲を出してないので、そこはちょっとエイベックスにも頑張ってもらいたいなとは思ってます(笑)。

 SAMさんはプライベートでは子育てに翻弄される日常を送りながら、健康寿命を延ばすことがテーマの「ダレデモダンス」の考案など、TRF以外にもさまざまなかたちで「ダンス」の普及に務めている。「自分が踊るのが一番好きなんです」とまっすぐに答えるSAMさんへ、最後に還暦を迎えた心境を聞いた。

――1月13日に還暦を迎えられたばかりなんですよね。60歳の心境はいかがですか。

SAM これが特に何もないんですよね。あまり実感がないというか。ただ20代の頃から「60になっても絶対踊ってようぜ」みたいなことを仲間とよく話してたんで、気づいたら普通にクリアできてたなと。

――お子さんはまだ小さいんですよね。

SAM 52のときにできた子で、今7歳です。

――うちは夫が49歳で4歳の子がいるんですが、「自分がおっさんすぎて遊ぶのがツラい」とよくこぼしています。SAMさんはその点、体力も筋力もあるから……。

SAM いや、キツいですよ。

――そうですか! 意外ですがちょっと安心しました。

SAM 今はもう大きくなりましたけど、赤ちゃんのときは抱っこが大変で……。抱っこ紐もやってましたけど、なんというか、「抱っこ筋」がつきますよね。ダンスのトレーニングとは次元の違う大変さがあります。といっても、うちはほとんど妻のワンオペになっているので申し訳ないんですが……。

――お休みの日はお子さんと何をして遊びますか。

SAM 家の中でかくれんぼしたり、自転車を走らせに行ったりとか。

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――お子さんとダンスはしないんですか?

SAM 何回かレッスンに連れて行ったみたいなんですけど、あまり興味がなかったみたいで。「ダンス教えてあげようか?」と言っても「いいや」と断わられてます。

――そういえばつい先ほども、通りすがりのダンスクラスの生徒さんと話をされていて、ダンスのプロフェッショナルであるSAMさんとこんな近い距離感で話せるなんてすごいことだなと。しかも若い世代だけでなく、おじいちゃんおばあちゃん世代にもダンスを教えているんですよね。

(※)この日の取材はSAMさんが講師を務める日本工学院蒲田キャンパス内で行われた。

SAM 「ダレデモダンス」ですね。健康寿命を延ばすことがテーマのダンスです。

――監修を務めるいとこの丸山泰幸医師とともに、心臓病を抱える患者さんを対象にワークショップをされたそうですね。これまでの若い世代の「生徒」とはまったくタイプが異なるかと。

SAM 最初は70~80代の循環器系の疾患を持つ方に協力してもらったんですが、集まってくれた皆さんがとにかく怯えている感じで。「今から私たち、何させられるの?」みたいな。

 接し方も、はじめはとても気をつけました。かっこよく踊る、みたいな「向上」を求めないとか。「難しくてできないわよ」と言われた時も「できますよ」と返すのではなく、「難しいですよね。無理しないでください」という感じで、寄り添うようにしています。今はだいぶ自然にできるんですけど、最初は大変でした。

――「上達」や「スキル向上」といった縦方向に伸ばすことが目的ではないレッスンって、SAMさんとしてもたぶん初めてのことですよね。どんな感覚ですか。

SAM 逆に、達成感がありますね。踊ったことがない人たちがはじめてダンスと触れ合って、最終的にすごい笑顔になるんですよ。

 冷え性でずっと手が真っ白だったおばあちゃんが、「手がこんなピンクになったのはじめて!」と言ってくれたり、100メートルも歩けなかったおじいちゃんがダンスを続けていたら10キロ歩けるようになったり。

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RUN DMCのロゴをオマージュしたオリジナルTシャツを着て「ダレデモダンス」を教えるSAMさん

――代々続く医者の家系の中で、ダンスというまったく違う道に進んだSAMさんが今、人々の健康に寄与しているということに、丸山家の「血」を感じてしまいます。

SAM 40代くらいまでは若い子のダンススキルを向上させて、自分のDNAを下に伝えていかなきゃ、みたいな思いが強かったんです。でもTRFの20周年記念でリリースしたエクササイズDVD『EZ DO DANCERCIZE』がヒットしたことで、「あれ?」と思って。こういう形で求めてもらえるものがあるんだ、と思えたんですよね。

――今やシリーズ累計300万枚を突破する人気シリーズですが、当時はまさかこんなに売れるとは思わなかったですか?

SAM 正直、「ハウツーもののDVDで、TRFの曲で踊りたい人なんかいないでしょ」と思ってました(笑)。2、3万枚売れたら御の字くらいに考えていたんです。

 でも『EZ DO DANCERCIZE』が大ヒットしたことで、「体に効くダンス」に需要があるとはっきり感じることができました。だから「ダレデモダンス」の開発は、『EZ DO DANCERCIZE』の延長線上にあるんです。

――そういえば「ダレデモダンス」Tシャツのデザインって、RUN DMCのロゴのオマージュですよね。

SAM  そうそう(笑)。RUN DMCは上下の横棒に英語を挟むだけでデザインになる、なんでも受け止めてくれるロゴですよね。2代目のTシャツはDef Jamオマージュです。

――それをおじいちゃんおばあちゃんが着て踊っているところにグッときました。

SAM 最近は、認知症に特化した「リバイバルダンス」というプログラムも作りました。小林旭や美空ひばりといった懐かしの名曲に乗せて踊れる、エビデンスに基づいた脳神経活性化プログラムになっています。

――「老化」も、SAMさんの大きな活動テーマなんですね。

SAM 誰にでも訪れるものだから。「アンチエイジング」といって加齢に抗うのではなく、「老い」を受け止めて楽しく健康的に過ごせる工夫を伝えたいですね。

 自分にとってのテーマと言えばもう一つ。能とストリートダンスのコラボレーションをやりたいですね。丸山家は医者の家系ですが、遠戚に能楽師がいたこともNHKの「ファミリーヒストリー」に出演した時にわかって。そのことを知る前、50代になって能にすごく興味が湧いたのも「これは偶然じゃないな」と。

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――SAMさんはありとあらゆるジャンルのダンスに挑戦して、15歳から休みなく踊り続けているわけですよね。正直、「今日はもうダンスいいわ」って日はないですか。

SAM それが45年間、1日もないんですよ。たぶん本当にダンスが好きなんだと思います(笑)。

――「ダレデモダンス」やコンサートのプロデュースなど、いろんなかたちでダンスと関わりがあるわけですけど、何をしている時が一番楽しいですか。

SAM 自分が踊るのが一番好きなんです(笑)。

――どんなシチュエーションで踊るのが最も好きですか?

SAM ライブのソロもいいですけど、スタジオで練習してる時が一番楽しいですね。自己満足でしかないんですけど。たぶんこういう調子で70になっても踊ってるんじゃないかな。

 あ、あとやってみたいことで言うと、本当にそろそろ髪を切りたいんで、ステージで断髪式をやってみたいですね。そのうちSNSで「SAMにやってほしい髪型」を募ってみようかなと思います(笑)。

写真=榎本麻美/文藝春秋

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