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福澤諭吉『文明論之概略』(前編)|福田和也「最強の教養書10」#9

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。今回は、福澤諭吉による、この1冊。(前編)

日本で初めて1万円札が発行されたのは、1958年12月1日である。

インフレと高度経済成長に対応するため、高額紙幣が必要になったという理由からだが、当時の大卒の初任給が1万3000円だったことを考えると、今だと10万円紙幣が発行されたようなものだろうか。

その表を飾ったのは、聖徳太子の肖像画であった。

聖徳太子はおよそ1500年前、飛鳥時代に用明天皇の皇子として生まれ、推古天皇の摂政として日本の政治体制を整備した。冠位十二階や十七条の憲法を制定して豪族の勢力を抑え、中央集権的官僚国家の基礎をつくった。

聖徳太子が1万円札の顔になったのには、こうした天皇家への貢献が高く評価されてのことと考えられている。

ちなみに前年に発行された5千円札の表にも聖徳太子の肖像画が使用されている。

その後、1万円札と5千円札は日本の高度経済成長の波に乗り、順調に流通量を増やしていった。

四半世紀の時が流れ、日本が世界の経済大国となった1984年11月1日、新紙幣が発行された。

聖徳太子の後を継ぎ、栄えある1万円札の顔となったのは、福澤諭吉。5千円札は新渡戸稲造、1千円札が夏目漱石であった。

当時私は慶應大学の大学院生であったが、母校の創設者がある意味、日本の顔になったことは単純に嬉しかった。

もっとも福澤自身にとってはいい迷惑だったかもしれない。生涯、官から離れて私人で通したというのに、死後80年も経って、勝手に国の顔にさせられてしまったのだから。

2004年に新紙幣が発行され、5000円札は樋口一葉に、1千円札は野口英世に変わったが、1万円札の福澤諭吉はそのままだった。

2024年の新紙幣でようやく澁澤栄一に変わるようだが、実に40年間も1万円札の顔であり続けた福澤諭吉がどのような人物であったかは、実は意外に知られていない気がする。

幕末・明治の思想家にして教育者の福澤諭吉は中津(現在の大分県)の人である。しかし、生まれたのは、大坂。中津藩の下級武士だった父の百助が大坂の中津藩蔵屋敷で廻米方の仕事をしていたからだ。

諭吉が生まれたのは、天保5年12月12日。同世代には、5つ上に吉田松陰、同年に橋本左内、1つ下に坂本龍馬、5つ下に高杉晋作がいた。

明治になったからの活躍が目覚ましい福澤諭吉は幕末の志士たちとは生きた時代が違うように錯覚してしまうけれど、実は同じ世代なのである。

諭吉は幕藩体制の中に生まれ、その体制が崩れる様を目の当たりにし、そこを生き延びて、新しい時代を迎えたのだ。

諭吉が生まれて1年半後に父が急死したため、母、兄、3人の姉、諭吉の一家は中津に戻った。ところが、習慣の違いから、家族そろって周囲から孤立することになった。

第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と言うところを、私共は「そうでおます」なんと言うような訳けで、お互いに可笑しいからまず話が少ない。それからまた母はもと中津生まれであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、子供の髪の塩梅式(あんばいしき)、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合(ありあい)の着物を着せるから、自然、中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うという外には何も原因はないが、子供のことだから何だか人中に出るのを気恥しいように思って、自然、内に引っ込んで兄弟同士遊んでいるというような風でした。(『福翁自伝』)

諭吉は晩学で、14、5歳になってようやく漢学の勉強を始めた。父の百助は下級武士とはいえ、漢学者でもあったのだ。

漢学を始めるまで、ろくに本も読まなかった諭吉であったが、ひとたび勉強を始めると、たちどころに頭角を現した。

しかし、いくら中津で漢学を勉強したところで、下級武士の上に大坂から来たよそ者である諭吉はうだつが上がらない。

そんな諭吉に兄は長崎で蘭学を学ぶことを勧めた。1854(安政1)年、諭吉は21歳で長崎に蘭学修業に行き、翌年には大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾に入った。するとここでもその優秀さが認められ、最年少で塾長に抜擢された。

1856年に兄が亡くなると、福澤家を継いだが、中津には帰らなかった。58年には藩命により江戸の中津藩屋敷に蘭学塾を開き、これが後の慶應義塾に発展することになる。

ところがその翌年に横浜見物に行った諭吉は驚愕する。使われているのは英語ばかりで、これまで勉強してきたオランダ語が通じないばかりか、店の看板や貼り紙すら読めないのだ。

英語の必要性を痛感した諭吉は蕃書調所に通ったり、外国人に英語の発音や綴りを習った。60年に遺米使節団が組織されると、咸臨丸の船長、木村摂津守に接近し、従僕として船に乗せてもらった。

渡米中に英語を習熟した諭吉は帰朝後、幕臣となった。62年、ヨーロッパ使節派遣団に抜きん出た英学者として加わると、1年にわたって、フランス、イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、ポルトガルを旅し、その間、ヨーロッパの病院、銀行、郵便、徴兵、選挙、議院、政党などの実態を観察、調査した。

帰朝した後、洋行経験を元に『西洋事情』を書いて刊行すると、欧米諸国の歴史・制度の優れた紹介書と高く評価され、当時にして20万部を超えるベストセラーとなった。

慶應3年に再び幕府遺米使節に追従して渡米したが、その途中で「ドウしたってこの幕府というものは潰さなくてはならぬ。(中略)誰がこれを打毀(うちこわ)すか、これが大問題である。今の世間を見るに、これを毀そうと言って騒いでいるのはいわゆる浮浪の徒、すなわち長州とか薩州とかいう攘夷藩の浪人共であるが、もしも彼の浪人共が天下を自由にするようになったら、ソレこそ徳川政府の攘夷に上塗りをする奴じゃないか。ソレよりもマダ今の幕府の方がマシだ。けれどもどうしたって幕府は早晩倒さなければならぬ、ただ差し当たり倒す人間がないから仕方なしに見ているのだ」(『福翁自伝』)などと公言したため、日本に戻ってから謹慎処分になってしまった。

しかも国内は攘夷論まっ盛りである。洋学者というだけで目をつけられ、暗殺者に命を狙われる始末だった。

暗殺者から逃げ回り、『西洋旅案内』などを刊行するなどしてしのいでいるうちに、1867年10月に大政奉還、翌年4月に江戸城明け渡しで王政復古の世となり、命びろいをすることになった。

諭吉、33歳。

この時点での諭吉は、英語に長けた、西洋事情に通じる人間でしかなかった。

福澤諭吉は不思議なほど政治的野心のない人間だった。

中津藩は門閥制度が厳しく、公用のみならず、私生活においても貴賤上下の差があり、父親が下級武士だった福澤家はことごとく差別を受けたので、諭吉は「門閥制度は親の敵」とまで思うようになった。

このような状況下におかれた人間、とくに優れた素質を持っている人間ならばなおさら、その逆境をバネに出世しようと意気込むものだが、諭吉にはそうした気持ちが全くなかった。

人間が空威張りするのは見苦しい、威張る奴は恥知らずの馬鹿だという気持ちを持っただけだった。

こうした資質は父母から受け継いだものだと諭吉は言う。父は真面目で優秀な漢学者であったが、身分が低いために認められず、認められないばかりか、上流武士から蔑視され続けたが、自分自身はけして他人を軽蔑しない人間だった。

例えば大坂で廻米方の仕事をしていた時、勉学に熱心な中村栗園という染物屋の息子がいた。他の中津藩大坂蔵屋敷の武士たちは町人というだけで鼻にもかけなかったが、諭吉の父は栗園を実弟のようにかわいがり、儒者になるように取りはからった。

父から受け継いだこの資質は大人になっても変わらず、立身出世して高い身分になり、故郷に錦を飾ろうなどとは露ほども思わなかった。

咸臨丸に乗り込んで米国に渡ったのはただ英語が学びたい一心からのことであり、帰朝後に幕臣となったのも、通訳としてであり、いってみれば専門職員のような存在だった。

例えば早稲田大学の創設者である大隈重信は佐賀藩の砲術家の家に生まれ、明治維新まではほとんど活躍の場もなかったけれど、慶應4年3月に明治政府に出仕して外国事務局判事になったのをかわきりに、翌年には外国官副知事、大蔵大夫と目覚ましい出世をとげて新政府の中枢を担うようになり、ついに総理大臣の地位まで上りつめた。

一方福澤諭吉は新政府から再三呼び出しがかかったにもかかわらず、一度も応じようとしなかった。

幕末の土佐藩士で後に法学者となった細川潤次郎が説得にやってきて、「政府から君が国家に尽くした功労を誉めるようにしなければならぬ」と言ったときにはこう返している。

「誉めるの誉められぬのと全体ソリャ何のことだ、人間が人間当たり前の仕事をしているに何も不思議はない、車屋は車を挽(ひ)き豆腐屋は豆腐を拵えて書生は書を読むというのは人間当たり前の仕事をしているのだ、その仕事をしているのを政府が誉めるというなら、まず隣の豆腐屋から誉めて貰わなければならぬ、ソンナことは一切止しなさい」(『福翁自伝』)

諭吉がこれほど明治政府を拒否したのは、古風一点張りの攘夷政府と思い込んでいたためであるが、それで何をしたのかといえば、教育である。

慶應4(1868)年4月、それまでの家塾を改革して「慶應義塾」と称し、商工農士の差別なく、洋学が学べる場とした。

塾の経営の仕方も画期的で、日本で初めて授業料をとった。どの生徒からも月に二分を徴収し、それを教師の給料にあてたのだ。

5月には上野で、官軍と彰義隊が戦争を始めたが、諭吉は砲声轟く中、舶来のウェーランド著の経済書を講述して授業を続けた。

慶應大学では今でも毎年5月15日を「福澤先生ウェーランド経済書講述記念の日」として、三田演説館で記念講演会を開催している。

明治の初めは戦闘、戦闘の毎日で、政府は教育を考えている余裕など全くなかった。日本国中、本を読んでいるのは慶應義塾だけという状態だったため、塾生は増える一方だった。

諭吉の教育、学問についての考え方は、彼の著書『学問のすゝめ』に明確に現れている。

この書は明治5年2月から同9年11月まで5年にわたり、断続しつつ出版された前後17編の小冊子から成っていて、総発行部数は340万部を超えるといわれている。

それまでにも諭吉はベストセラーとなった『西洋事情』をはじめ、『雷銃操法』、『西洋旅案内』、『西洋衣食住』、『窮理図解』、『世界国尽』など数々の書を著わしていたが、それらはいずれも西洋事物の紹介や新しい知識の普及を目的とするものであり、自分の思想を展開させたのは、『学問のすゝめ』が初めてであった。

何故明治5年になってそのような書が書かれたのかといえば、その前年に政府が行った廃藩置県に驚喜したからである。古風一点張りと思っていた政府が思い切った事を断行してくれた。これは面白い、だったらこちらも西洋文明の空気を吹き込んで、全国の人心を根底から覆してやろう、という気持ちになったのである。

とはいえ始めから遠大な計画に基づいて書かれたわけではなく、最初は学問の心得を同郷の旧友に示そうと思って書いていたら、人から公表するよう勧められ、出版するや、大きな反響を得たというのが実際のところであった。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」

『学問のすゝめ』の冒頭の一句には、「人間平等」を信じる諭吉の封建批判が如実に現れているが、その後には次のような言葉が続く。

されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。(『学問のすゝめ』)

本来人間は生まれてくる時、貴賤の上下はないのだけれど、学問をするかしないかによって、大きな差が生じる。だからこそ、学問において差別はあってはならないと、諭吉はあらゆる階層の者を塾生として受け入れた。

さらに学問とは「ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作る」ことではないとし、「人間普通日用に近き」実学の必要を説いた。

諭吉は幼い頃から、扶持米の不足を補う内職として、手工労働に従事していた。その経験は金銅鋼鉄といった原料に対する興味関心を喚起し、それが後の物理化学への興味につながった。

もっぱら洋学に専心したのは、西洋は物理化学の学問がはるかに進んでいたからであり、「東洋の儒教主義と西洋の文明主義とを比較して見るに、東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独立心と、この二点である」(『福翁自伝』)と言っている。

諭吉は実学に励んで日本人が目指すものは「独立」と考えていた。

「我日本国人も今より学問に志し、気力を慥(たしか)にして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」(『学問のすゝめ』)

★後編を読む。

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