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菅首相になぜ国民の声「五輪開催反対」は届かないのか【広野真嗣】

五輪強行開催に突っ走る暴走機関車──政権中枢は何を考えているのか?/文・広野真嗣(ノンフィクション作家)

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▶ある官僚はこう述べた。「開催すれば、どこかで感染が起き、平和の祭典が非難の対象になる。中止すれば日本政府は国際的に信用をなくし、来年2月の北京冬季五輪にコロナに打ち勝つという政治的実績も奪われ、政権も倒れる」
▶過去12カ月の平均訪日外国人数は月に2万人である。海外からの観客を断念したとはいえ、その5倍近い数が、2カ月の間にやってくる
▶菅は今、国民の疑念の声に正面から向き合わず信頼を失っている。2001年の省庁再編以来、さまざまな政策決定の起動ボタンを官邸に集めた政治主導の弊害が、コロナで浮き彫りになっている

国民の懸念に向き合わない菅首相

「緊急事態宣言下でも五輪・パラリンピックを開催できると考えるか」

3度目の緊急事態宣言発出に追い込まれて以降、何度も訊かれたこの質問に菅義偉首相は一度も正面から答えなかった。宣言再延長を決めた節目の5月28日の会見でさえ、「まず当面は緊急事態宣言を解除できるようにしたい」と言うのみで、「できると考える」とも「この時期に可能かどうかを判断する」とも答えず、開催を前提とした抽象論だけを滔々と述べた。何一つ前進していないのに、観客も入れるという。

朝日新聞が5月15、16日に行った世論調査で五輪開催について「中止」が43%、「再び延期」が40%と「今夏の開催」への反対は8割を超えた。それでも菅は、国民の懸念に向き合わない。

ではなぜやるのか。さすがに前首相の安倍晋三から託された「コロナに打ち勝った証」という方便は引っ込めたが、代わりの開催意義も、安全に開催可能とわかる基準も工程表も示さない。

菅が語らないのは、語るに足るものを持ち合わせてはいないからだ。

6月20日までの3週間でワクチン接種が進めば、五輪まであと1カ月。やがて異論は消える――国民には語れない政治戦術の帳尻をあわせるために、「7月末完了」「1日100万回」という無理筋な目標が市区町村や自衛隊の現場に押しつけられた。

「短期集中」を掲げ17日間とした宣言は、2回の延長を経て57日間に延びた。延長期間に入る前から人出は増え始めた。休業要請のような強い措置をどのような理由で打ち、解除するか、納得できる説明をするために汗をかかない政権への国民の自然な反応だ。

なぜこれほどまでに菅政権は機能不全に陥っているのだろうか。

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菅義偉首相

医療従事者大量派遣に怒り噴出

「五輪への懸念」が膨張したのは3度目の宣言措置の初日、4月25日付の「しんぶん赤旗」が「看護師『5日以上を500人』五輪組織委が看護協会に要請」という見出しで報じたスクープがきっかけだ。

同紙が入手した東京五輪・パラリンピック組織委員会の要請文は、競技場の医務室に配置する医師や看護師について「新型コロナウイルス感染症等の拡大に伴い、看護職の確保が不十分な状況に陥って」いるとし、500人を募るよう求めている。

この時期、国内で英国型変異株の恐ろしさを見せつけられていた。大阪府では30代でも重篤化して重症病床は満床が続いた。入院できず自宅で亡くなる人が相次いだ。

大会期間中、医療には通常医療のほかに、コロナ治療とワクチン接種、競技場での負傷者等の治療、と3重の負荷がかかる。さらにはコロナに罹った選手を引き受ける医療機関も必要になる。それほどの負担を強いてまで開催するのかと、国民には急速に反対論が強まった。

菅は世論に敏感な政治家だ。GoToトラベル継続に固執していた昨年12月、支持率が下落すると、一転して一時停止を決断した。

だが今回は、各紙の世論調査の結果が悪化しても、「選手や大会関係者の感染対策をしっかり講じ、国民の命と健康を守っていく」という、役人の抽象的なメモを読み上げるだけだ。

「看護師の五輪派遣」が炎上している頃、「五輪はやるも地獄、止めるも地獄」という内閣官房官僚のぼやきを聞いた。その官僚はこう述べた。

「開催すれば、どこかで感染が起き、平和の祭典が非難の対象になる。中止すれば日本政府は国際的に信用をなくし、来年2月の北京冬季五輪にコロナに打ち勝つという政治的実績も奪われ、政権も倒れる」

もちろん、簡単な決断ではない。だが、人権問題で北京への選手団派遣を留保する国際世論もある中で、日本国民の生命や健康をリスクにさらしてまで「国威」を重んじる独裁国家と張り合おうとする発想には首を傾げざるをえなかった。

懸念は膨らみ続けた。

5月21日、北海道・札幌では感染者が激増して最多を更新した。2週間前の連休中にマラソンのテスト大会があったのは暗示的だった。

国立感染症研究所の脇田隆字所長は「旅行の一大目的地であり、大型連休という要因が感染者数の上昇傾向を加速した」と分析した。これまでもそうだが、年末年始や入社・入学といった「ハレの日」は人出が増え、接触機会が増える。

夏の東京に五輪という非日常の祝祭の号砲が鳴れば、人々は街に出る。開催後に増大する感染リスクを、政府はどう見積もるのか。

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専門家の建議をスルー

この疑問をはっきりと政府に突きつけたのは、5月13日、参議院内閣委員会に招かれた新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長である。開催判断にあたり、次の3つの評価をするよう「オリンピック関係者」、すなわち政府・組織委員会に問題提起したのだ。

▽選手以外の大会関係者の感染リスクの評価▽スタジアムの会場外で想定される、開催に伴う人流(人出)や接触機会の増加による感染リスクの評価▽大会期間中、どの程度医療に対して負荷がかかるのかの評価――単純化すると「選手以外」「会場の外」「医療への負荷」である。

確かに組織委員会は、競技場と選手村を往復する選手たちを外部とは遮断する仕組み(バブル方式)によって「選手」や「会場内」は感染リスクを制御できると説明している。

尾身が挙げたうち前の2つは、その外側で生じる接触機会の拡大や感染リスクをシミュレーションし、リスク評価する必要がある、という指摘。3つ目は、大会期間中、医療のキャパシティが本当に耐えられるのか検証するよう求めるものだ。

4月半ばから極秘に専門家有志の知恵を結集して練り上げられたもので、ポイントは絞られた。尾身はこれを前もって決断して知らせるのは開催する者の責任だと提案した。

だが5月末の時点で、政府にはリスク分析を始める気配はない。

官邸には官房副長官の杉田和博を議長に、31人もの官僚や組織委幹部が集まる「調整会議」が昨年9月に置かれ、政府の感染対策案に関するアドバイザーとして、2人の公衆衛生の専門家が出席している。

だが、実際の会議は月に1度程度で、「意見を聞いた」という体裁を整えるためのものにすぎず、尾身が求めたリスク評価をしてはいない。

さらに再延長に追い込まれた5月28日の会見。菅は対策の具体例として、入国する大会関係者を18万人からオリパラ合計で7万8000人まで絞り込んだこと、選手・大会関係者へのワクチン接種を進めること、報道陣を含めた関係者と国民が交わらないよう完全に動きを分けること――の3点を挙げた。尾身の建議には、ここでも答えなかった。

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尾身茂氏

「中止」のシナリオには答えない

過去12カ月の平均訪日外国人数は月に2万人である。海外からの観客を断念したとはいえ、その5倍近い数が、2カ月の間にやってくる。同時に8万人のボランティアが会場周辺で働き、パブリックビューイングも予定され、接触機会が増える。

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