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保阪正康 「軍部が欲した「国家の勲章」 日本の地下水脈28

文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)

保阪氏 ©文藝春秋

勲章制度は国のあり方のバロメーター

秋はまた叙勲の季節である。叙勲は毎年4月と11月、毎回おおむね4000人が対象となっており、いわば春秋の恒例行事となっている。

だが、あまり知られていないが、叙勲には根拠法が設置されていない。日本国憲法第七条は「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」とあり、同条第七項に「栄典を授与すること」と定められている。しかし、詳細については法的な根拠が定められていない。そのため、実質的には明治時代の太政官布告や戦前の勅令などをもとに、今も叙勲は続けられていることになる。

そうした曖昧さが表面化したのが、今年7月に暗殺された安倍晋三元首相への叙勲である。国葬をめぐる騒ぎのなかで忘れられがちだったが、暗殺事件の3日後、安倍元首相を従一位に叙するとともに、最高位の勲章である大勲位菊花章頸飾、および大勲位菊花大綬章を授与することを政府は決定している。戦後、大勲位菊花章頸飾を受章したのは、いずれも首相経験者の吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘に続いて4人目であった。安倍元首相に、はたしてこの勲位にふさわしい業績があったといえるのか。議論が分かれるところである。

しかし、ある国がどのような人物にどんな勲章を授与するのかをみれば、その国家の価値基準がおのずと明らかになる。たとえばフランスは国外の文化人や芸術に寄与した人物にも積極的に勲章を授けている。アメリカは功績のあった軍人に名誉勲章を授けているが、議会の名において授けられ、「議会名誉黄金勲章」とも呼ばれる。徹底的な文民統制を重んじるアメリカらしいあり方である。英国は1960年代にビートルズに勲章を授与したが、保守の伝統のなかにも新しい文化に対する寛容さがあることを示した。

このように見てみると、勲章制度はつまり、その国がどのような国のあり方を目指しているかを知るバロメーターであるといえる。

今回は、日本の叙勲制度に流れる地下水脈について考えてみたい。

国民に序列をつける

近代以降の日本社会には、「国民の序列化」という発想が地下水脈のように流れ続けている。明治時代に整えられた官僚制度がその最たるものである。官僚機構は序列が細かく分けられ、権能の大きさと範囲もその序列に従って分けられている。陸海軍も官僚機構そのものであった。戦後は内務省をはじめ強大な権力を振るっていた官僚機構の一部と軍が解体されたが、国民の序列化という地下水脈は今も流れている。教育の世界では、大学や高校を偏差値で細かくランク分けし、序列化している。さらに近年は、勤務先や年収、容姿によって人間に序列をつけようとする風潮さえある。

そうした序列化の原点は、日本の近代の始まりにあった。日本は19世紀後半に欧米列強の圧力を受けて開国したが、清や東南アジア諸国のような欧米列強の植民地にならないために、「富国強兵」を急いで進めなければならなかった。そのためには、強力な中央集権国家を作る必要があった。

それまで約260年間続いていた幕藩体制においては、政治的にも文化的にも多様であった。各藩はそれぞれの法律と政治体制、軍組織、貨幣を持っていた。だが、それでは中央集権国家は実現できない。明治新政府はまず膨大な人件費を削減すべく、武士の特権を奪った。徴兵制度を整え、増税にも踏み切った。

ところが、急激な改革に対する反発は多く、明治10(1877)年には薩摩の不平士族が西郷隆盛を担いで西南戦争を起こした。翌明治11年には、竹橋事件が勃発した。西南戦争の論功行賞を不服とした近衛砲兵第一大隊兵約260人が蜂起し、大隊長を殺害。さらには大隈重信邸に発砲するなどした。

これに危機感を覚えたのが、明治新政府の面々である。

明治維新の本質は、薩摩藩と長州藩の出身者を中心とする勢力による暴力革命であった。彼らは自分たちが暴力革命で権力を握ったことを自覚していたからこそ、クーデターの動きには敏感だった。権力基盤を維持するには、軍を抑え込まなければならない。かといって、帝国主義の欧米列強に対抗するためには、軍事に力を入れなければならない。

一方、権力を掌握して革命の果実を独占する薩長出身者に対する怒りから、自由民権運動が全国に広がった。自由民権運動は政府側の執拗な妨害もあって離合集散を繰り返すのだが、明治23年にアジア初の近代的議会が開設されると、自由民権運動の勢力が多数を占めることとなった。明治新政府が恐れていた最悪のシナリオは、自由民権運動などの政治勢力が思想・人事の両面で軍に入り込むことだった。軍に反乱されたら、瞬く間に薩長中心の権力基盤は崩壊してしまうからである。

そこで明治15年、政府は「軍人勅諭」を出した。軍人勅諭は、軍は天皇に直属するものであると規定している。これによって、自由民権運動を含む政治勢力が軍に入る余地をなくし、クーデターの可能性を消そうとしたのである。

爵位が軍人たちの「ニンジン」に

その後、明治27~28年の日清戦争に勝利して莫大な賠償金を得たことで、軍の存在は新政府にとってより重要になった。新政府は戦争を営利行為として位置づけるようにもなり、時代が下るにつれて軍が肥大して、政治勢力そのものになっていく。

そうした中で、軍人の天皇、国家に対する忠誠心を呼び起こし、繋ぎとめるための仕掛けが必要だった。

そこで利用されたのが、華族制度である。明治2年6月17日に「版籍奉還」が行われ、大名たちが土地と人民を天皇に返したが、新政府は国民すべてが平等な国を造るつもりはまったくなかった。近世までの貴族階級は再編成され、新しい特権階級が日本に誕生することになった。公卿や大名の血筋に連なる者にはほぼ自動的に爵位が叙されたが、もともと貴族出身ではない者にも爵位が授けられるケースもあった。それは新政府のもとで軍事的功績を挙げた軍人が対象となった。

明治17年、「華族令」が制定され、旧来の公卿、大名に加えて国家に勲功のあったとされる政治家・軍人などを「華族」とした。公爵を頂点に侯爵、伯爵、子爵、男爵の五つの爵位に分けられた。爵位を得ると、財産保護など多くの特権が与えられた。しかも一代でなく世襲だ。とりわけ公爵と侯爵は、25歳以上であれば無条件で貴族院議員となることができた。

その爵位を授けるのは天皇である。天皇を頂点とした国家をつくる以上、それは当然の流れであった。これは明治23年の帝国議会開設をにらみ、皇室の藩屏=守護を創設することが狙いだった。たとえば日露戦争で陸軍を率いた大山巌は伯爵、侯爵を経て、ついには公爵となった。またロシアのバルチック艦隊を壊滅させた連合艦隊司令長官の東郷平八郎も、伯爵から侯爵になっている。

日露戦争に勝利した後、軍幹部や官僚は論功行賞で爵位や勲章を得た。その数は、陸軍62人、海軍38人、官僚三十数人にもおよぶ。多くの兵士が戦死した一方で、軍幹部や官僚は名誉と実利を手に入れたのである。

満州事変を評価されて男爵に

昭和の時代では、皇道派の首領として知られた陸軍軍人の荒木貞夫が、昭和10(1935)年に男爵に叙せられている。荒木は犬養毅内閣と齋藤実内閣で陸軍大臣を務めたが、叙爵は「満州事変の功」も評価されてのことだった。満州事変は石原莞爾と板垣征四郎らによる謀略であった。陸軍はこれによって満州を実効支配し、傀儡国家である満州国を建設することになる。その一連の手続きに手腕を発揮したのが荒木であった。満州事変の功をもって爵位が与えられたことに、当時の日本政府の価値観が見えてくる。

荒木貞夫

満州事変を理由として叙爵されたのは、荒木だけではない。事変勃発時の関東軍司令官だった本庄繁も、荒木と同時に男爵となっている。本庄は昭和天皇に拝謁した際、「柳条湖事件は関東軍の陰謀であるという噂を聞くが、真相はどうか」との下問を受け、「関東軍並びに司令官である自分は謀略はやっておりませぬ」と虚偽の上奏をした人物である。また、海軍大臣の大角岑生も、満州事変には直接関与していないものの、これを理由に男爵となっている。

荒木らは、この叙爵を非常に喜んだとされる。実際、爵位は軍人たちにとって絶大な魅力があった。

華族になりたかった東條英機

その魅力によって道を誤った人物の代表格が、太平洋戦争を開始した時の首相、東條英機である。

東條英機

私は昭和50年代、東條の評伝を書くために、長い取材を続けていた。その過程で、昭和天皇の側近の1人であった木戸幸一への取材を試みた。木戸は、長州藩出身で明治の元勲だった木戸孝允の孫で侯爵だった。貴族院議員として長年国政に携わり、文部大臣や厚生大臣などを歴任。昭和天皇側近として実権を握った。そして昭和16年10月に近衛文麿が内閣を投げ出した後、後任として東條を昭和天皇に推薦したのが木戸だったのである。

当時、木戸は病の床にあり、私は直接会うことはできなかった。だが、ある人物を介して書面で木戸にインタビューをすることができた。私が発した質問には、「東條たちがあれほど戦争に執着した理由は、いったい何だったのか?」という項目があった。

私の質問に対する木戸の回答は、思いもよらぬものであった。

「(東條は)華族になりたかった」

――東條ら当時の軍幹部は、戦功を立てることによって、華族になりたいと思っていた。木戸ら従来からの華族から見ていれば容易に分かるほど、東條らには華族という地位への渇望の念があった。何百万人の犠牲者が出ようが、戦功を立てれば、自分は爵位を得られる。だから無謀な戦争を続けようとした――というのが木戸の見立てだった。

東條は、南部藩の能楽師の家系に生まれた。同藩は戊辰戦争の際、幕府を支援する奥羽越列藩同盟に加わった。討幕運動を進めた薩長からみれば「朝敵」である。その南部藩士に連なる東條には、薩長に対する屈折した心理がもともとあっただろう。加えて、東條の父・英教は陸軍大学校を首席で卒業していながら、陸軍を牛耳っていた長州閥に睨まれて冷遇されたということもある。そのため、東條にとって爵位を得ることは、積年の不遇を晴らす手段に思えたとしても不思議ではない。

私は東條の秘書だった赤松貞雄に、この点を確かめたことがある。赤松は、「いくつかの戦いで勝利を収めた後、『これで閣下は侯爵間違いなしですね』などと話をすると、東條さんは非常に喜んでいた」と話していた。

東條ら軍幹部が戦功争いに興じている間、戦争の現場では多くの貴重な人命が奪われていたのだが。

叙勲対象の8割が軍人

軍人たちにとって、爵位のほかに勲章も大きな魅力であった。

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