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奥泉光 前半と後半 巻頭随筆

文・奥泉光(作家)

『文藝春秋』が創刊されて百年だそうだが、いまその百年を半分に割ってみると、前半が一九二三年から一九七二年、後半が一九七三年から二〇二二年までとなる。とそう考えて日本国内を見渡したとき、前半と後半の出来事の密度に差があると思うのは自分だけではないだろう。なにしろ前半は関東大震災にはじまり、満州事変から日中戦争、太平洋戦争と敗戦、戦後復興から高度経済成長、東京オリンピックと大阪万博といった具合に、イベント目白押し、対して後半はといえば、バブル景気とその破裂、阪神淡路大震災、オウム真理教事件、東日本大震災といった出来事が並ぶだろうが、どこか「薄い」印象が否めない。サッカーでいえば、前半は激しくゲームが動いたのに、後半は停滞した試合のような感じだ。もちろん事件の当事者にとっては濃いも薄いもないのであって、そもそも人間の運命を左右する事件の連なり具合は、絶えず変わらぬ密度を保持していると考えてもいいはずだ。

 にもかかわらず全体を俯瞰したとき、密度に差があると感じられるのは、加齢のせいだとまずは考えられるだろう。自分は一九五六年生まれであるが、小中学生の頃、二〇〇〇年に自分は四四歳だと計算しては、二一世紀は遥か遠い未来だと感じていた。ところが実際にその年齢になってみれば、ミレニアムの閾は格別の感懐なく、列車の窓から見る小駅のように過ぎ流れ、それから二十余年が経過した現在、二〇〇〇年などはつい昨日のことに思える。

 だが、自分の物心がついたのは六〇年代、戦前戦中の出来事を直接知っているわけではない。それでもなお一九二三年からの五〇年間を濃密に感じるのは、個人の体感の問題ではなく、それを日本という国の歴史として捉えるがゆえであろう。すなわちこの百年の日本の歴史を俯瞰したとき、前後半でゲームの密度が違ったと感じられているわけだ。

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