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ヒスと呼ばれた母|山本美希

著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、山本美希さん(マンガ作家・筑波大助教)です。

ヒスと呼ばれた母

「そんなヒス起こすなよ」と、父はいつも母に言っていた。子ども心に、母はヒステリーなのだと理解するようになった。細かいことでいつもカッカするのは、ヒステリーという母の資質だから、聞く耳を持つ必要はないのだ、と片付けることを覚えた。

母は、大学を出たあと銀行に就職し、数年働いて結婚、子どもを2人産んで今まで専業主婦をしている。父は仕事人間で、母は家のすべてを1人で担うことになった。おそらくそれは、母にとってはあまり本意ではなかったと思う。

わたしの中学生以降から高校生いっぱいまでの時期は、夫婦仲がかなり険悪で、よく尽きないなと思うほど、母は毎日涙を流しながら父に対する文句・愚痴をこぼしていた。母の口癖は「父さんはなにもしない」だった。ただ、わたしは繰り返し愚痴を聞かされることにウンザリしており、なるべく母と顔を合わせないようにして、いつまでも続く父への文句に耳を貸さないようにしていた。

さらに率直に言えば、そんな母のようにはなりたくないと思っていた。大学も出たのに数年しか働いていないし、父の文句ばかり言うくせに、離婚して自分の足で立つ勇気もないじゃないか。端的に、自分は強い立場のほう、父の役割のほうになりたいと思ったのだ。面倒くさい家事育児はせずに、並べられた食事を食べながら、仕事で成果を出したのだと自慢する父の立場に。

少し前に、ヒステリーについて書かれた本を開いてみた。ヒステリーは女性に多い神経症とされ、日本でもその認識が定着し、やがて女性の心身状態を形容する便利な言葉として広く使われるようになった。20世紀前半の日本文学には頻繁に登場し、泣く・笑う・怒るなど女性が感情を表すたび、ヒステリーという言葉で表現されてきたという。いわば、男性の視点から見て、理解できない・したくない女性の言動に押す烙印だったのだ。背筋が凍った。自分も強者である父の言葉を内面化して、母の言葉を「ただのヒステリー」だと決めつけ、耳を傾けようともしなかったひとりなのだから。

毎日を過ごす家庭のなかで、自分の感情や言葉を黙殺されながら何10年も過ごす人生というのは、どういうものなのだろうか。母を思うたび、苦い気持ちがこみ上げる。女性にとって家庭とはなんなのか、考えずにはいられない。

(2020年10月号)

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