「軍事先導」の資本主義|保阪正康『日本の地下水脈』
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「軍事先導」の資本主義|保阪正康『日本の地下水脈』

後発帝国主義国家の日本は、軍の発展を優先した。そして「営利活動としての戦争」へと傾斜してゆく。/文・保阪正康(昭和史研究家) 構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)

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保阪氏

なぜ日本型雇用のシステムは続くのか

明治維新以降の近代を振り返る本連載では、これまで政治や思想の流れを見てきた。今回は趣向を変え、近代の日本経済と財界人に流れる地下水脈を中心に見ていきたい。

日本人の雇用形態はかなり変わってきたとはいえ、新卒入社した会社で定年まで働く終身雇用制が現在も主流である。年功序列の賃金体系が主で、定年と同時に退職金をもらい、その後は企業年金を受給する。

なぜ日本型雇用のシステムは続くのか。それは「藩」の意識がいまだに私たちの中に根強く残っているからだとみることもできる。江戸時代の藩士は藩に仕えて俸禄をもらい、生涯にわたって面倒をみてもらっていた。いわば雇用関係は「温情」を軸にしている。明治以降に登場したサラリーマンは「藩」が「企業」に替わっただけとの見方もできる。

一方で、日本の資本主義は西欧の先進帝国主義国家とは異なる独特の発展の仕方をしてきた。

西欧における資本主義は大航海時代、航海のたびに資本を集め、持ち帰った利益を出資者に分配することから始まった。18世紀に産業革命が起こると、株式というかたちで事業への出資を募り、上げた利益を株主に還元する仕組みの株式会社が発展した。欧米諸国で株主重視の経営が尊重されるのは、このような歴史的背景があるからである。

だが後発の帝国主義国家として出発した日本は、軍が先導するかたちで資本主義が発展していった。重工や海運など軍事に直結する産業が、政治と密接に絡みあいながら成長した。また、北海道や植民地の土地や事業を破格の安値で払い下げてもらうことによって、「政商」と呼ばれる資本家が台頭した。

「藩」の意識と「軍先導の資本主義」により、日本経済は独特の進化を遂げ、今なお私たちに大きな影響を及ぼしている。株主総会がシャンシャン総会で終わるのも、経済産業省の不適切な介入が指摘される東芝のような企業に「親方日の丸」意識が抜けないのも、このような歴史的背景のためともいえるのである。

まずは日本の資本主義の成立過程から詳しく見てみたい。

経済秩序は「藩」から「国家」へ

明治維新直後の日本は、藩の影響力が大きく、近代的な中央集権国家からはほど遠かった。討幕勢力の中心だった薩摩や長州でさえ、藩として独自の兵力を持ち、租税も徴収するなど、幕藩体制時代とさほど変わらなかった。欧米列強と肩を並べるには、新政府は中央集権を進めることが必須だった。

新政府がまず手をつけたのが、各藩主が領地と領民を天皇に返上する「版籍奉還」であった。明治2(1869)年1月に薩摩、長州、土佐、肥前の4藩主がそれを申し出た。薩摩藩出身の大久保利通、長州藩出身の木戸孝允らが進め、他の藩もこれにならった。藩主たちは「知藩事」という役職を与えられた。幕藩体制下では「殿様」として独立した権力者であった藩主たちが、明治政府の官吏となったのだ。

しかし、300年近く続いた近世の政体秩序は簡単には消えなかった。維新を先導した薩長では、藩上層部に不満が高まっていた。とりわけ薩摩藩は西郷隆盛や大久保ら下級武士出身者が新政府の高官になったこともあり、藩主の父、島津久光は維新政府の方針に従わず、独立国のような状態だった。この状態は明治10年、西南戦争で西郷が敗北するまで続いた。

明治政府はさらに中央集権を進めるべく、明治4年2月、薩摩と長州、土佐から計1万人の兵を東京に集めた(御親兵。のちの近衛師団)。この武力を背景に、廃藩置県を断行した。知藩事を廃止して元藩主たちを東京に移住させ、代わりに政府の官吏を県知事として派遣したのだ。2年前の版籍奉還は、各藩主が政府に願い出るという形を取った。しかし廃藩置県は詔勅、つまり天皇の命令で、有無を言わせなかった。幕藩体制はここで終わった。

幕藩体制下では、日本の中に大小の国主が数多く存在した。徳川家が最大の国主ではあったが、近代的な君主ではなく、各藩はそれぞれの法体系を持ち、経済秩序があった。他藩では通用しない「藩札」という独自の紙幣発行もしていた。

廃藩置県はその擬似的な連邦制が崩壊する革命的な出来事であったが、諸藩から大きな抵抗はなかった。理由は大きく言って3つある。1つは中央政府の政治・軍事力が強くなっていたことだ。2つ目は、多くの藩が財政的に火の車だったことだ。幕末の開国や戊辰戦争の混乱、物価の高騰などで、各藩とも困窮していた。300近くあった藩の負債総額は、廃藩置県当時で約8000万円、当時の国家予算の2倍近くに達していた。明治政府は、この借金の多くを引き継いだ。そして3つ目は、欧米列強に対抗するためには中央集権による国造りが必要であるとの認識が、諸藩にも広まっていたことだ。

藩士たちの大失業時代

中央集権国家に近づいたものの、新政府には頭の痛い問題があった。廃藩置県後も「武士」が存在したことだ。明治4年の散髪脱刀令でちょんまげと帯刀こそ禁じられたものの、江戸時代同様、家禄などの俸禄、つまりサラリーを得ている者が膨大にいた。藩を廃止した政府はその支払いを負担することとなったが、総額は国家財政のおよそ3割にも上った。これを解消すべく、政府は俸禄を打ち切ることにしたのだ。

まず明治6年、「秩禄奉還の法」を定めた。公債、つまり国が出す借金証書と引き換えに自発的な俸禄返上を促した。さらに明治8年にはそれまで米で支給していた俸禄を金銭で支給するように改めた(金禄)。

そして明治9年、俸禄の支給を強制的に全廃した。その代わり、「武士の退職金」ともいうべき「金禄公債」を支給した。これは永世禄、終身禄、年限禄の3種類があり、金禄の額に応じて公債支給額が決められた。額は家禄の5~14年分で、総額は1億7300万円あまりだった。

財政難の政府にとっては大きな負担であったが、そうしなければ士族に永遠に俸禄を支払わなければならない。いわば武士階級をリストラしたことで、財政負担がなくなったことは大きかった。この改革は大久保や木戸らの強烈なリーダーシップと、西欧列強に比肩する近代国家を建設しなければならないという使命感によって実現したものだ。

明治政府は早い段階から、欧米式の企業設立が必要と認識していた。明治4年には、欧米の銀行業務や収益構造を解説した『会社弁』(福地源一郎著)と、株式会社設立の手引き書である『立会略則』(渋沢栄一著)が刊行された。渋沢については後述するが、幕末期に欧州に渡り、各国の政治や経済の仕組みを学んでいる。同著はその経験などに基づいて記されている。

さらに明治4年11月~明治6年9月、岩倉使節団が欧米を回って政治経済のシステムを学び、日本に持ち帰った。株式会社に市民が出資して株主となり、会社があげた利益を株主が分け合う。そして、国家に納税する——そんな資本主義の仕組みを、新政府は日本にも根づかせようとしたのである。

「政商」の誕生

だが、士族の大半を占める中下層の元武士たちは、公債だけでは生活できなかった。公債を元手に商売を始める者も多くいたが、商売感覚の薄い士族が江戸時代以来の商人に勝てるはずもなかった。客を客とも思わない商売ではうまくいかず、失敗者が続出した。これが「武士の商法」である。

困窮した士族たちの不満は、一層政府に向かった。明治初期に地方で反乱が相次ぎ、自由民権運動が高揚したのはそのためでもある。

政府は士族を救済すべく、開墾や移住を奨励した。北海道開拓を官業として始めたのもそのひとつだ。明治5年から10年計画で事業を進め、1400万円以上の巨費を投じて農園や炭鉱、ビール醸造所や砂糖工場などの施設を次々と作った。

なかには会社を興して成功する元士族もいた。たとえば薩摩藩出身の鉱山王、五代友厚はその1人だ。幕末に薩摩藩遣英使節団として欧州を歴訪した五代は、帰国後に藩の会計係となり、維新後は実業家への道を歩み始める。江戸時代に放置された鉱山跡に目をつけて再開発し、新たな鉱脈を発見して財を成した。

五代は「政商」の先駆的な存在であった。とりわけ有名なのが「開拓使官有物払い下げ事件」である。

開拓使の長官で薩摩出身の黒田清隆は、北海道開拓の官業事業をたったの39万円弱で民間に払い下げようとした。売却先は五代らが経営する「関西貿易社」という企業だった。政府はこの払い下げを認めたが、藩閥政府と政商との結託による国有財産の私物化との批判が民権派を中心に広がった。もともと「有司専制」、つまり薩長など藩閥の官僚が独断的に政治を司ることに対して、元士族ら民権派は強い不満を抱いており、この払い下げは火に油を注ぐものとなった。政府内部でも、参議の大隈重信が反対するなど首脳間の対立が深まり、払い下げは中止となった。

この一件は、もともと存在した政府首脳の権力闘争を激化させ、大隈の辞職(明治14年の政変)へともつれ込んでいく。

大隈は明治14年3月、1年以内に憲法を制定し翌年中に選挙を行い、2年後には国会を開設するべきであるという意見書を上奏した。大隈が考えていたのはイギリス型の議院内閣制、政党政治だ。これに対し、国会開設にはもう少し時間をかけるべきであり、同じ立憲体制でも君主の権限が強大なプロイセン型の政府を志向する勢力があった。伊藤博文ら政府首脳は、大隈が民権派と協力して政府を揺さぶっていると判断し、大隈を辞職に追い込んだ。

イギリスにならった大隈の構想も、本連載で見てきた「あり得た国の姿」の一つであり、検証が必要だが、結果的に日本はプロイセン型の国造りとなったのである。

三菱と三井の台頭

さて、「政商」の筆頭は、やはり岩崎弥太郎である。土佐藩の下級藩士出身の岩崎は維新後、土佐藩の財産を借金ごと引き継いだ。明治3年、海運会社の「九十九(つくも)商会」を設立し、明治8年には「郵便汽船三菱会社」と改称した。国策として自国の海運業者を育成したい政府は、官有船の無償供与などで三菱に手厚い支援を与えた。

三菱は明治7年の台湾出兵や西南戦争の軍事輸送で莫大な利益を得た。明治8年には外国航路(上海航路)を始めて事業を拡大し、のちに造船や保険業も加えて成長した。明治26年には「三菱合資会社」を設立し、金融や商社、製紙や鉱業などにも手を広げて国内屈指の巨大財閥となった。三菱は大隈重信の支援を受けていた。

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