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村上宗隆 三冠への原点を見た 鷲田康

鬼コーチの説教に悔し涙を流した。/文・鷲田康(ジャーナリスト)

「自己啓発力が本当にすごい」

東京ヤクルトスワローズのGMを務める小川淳司は、村上宗隆の涙を一度だけ見たことがある。村上がプロ2年目、小川がヤクルト監督だった2019年のシーズン終盤を迎えた9月の広島遠征のときだった。

この年、村上は開幕から1軍スタートで36本塁打をマーク。規格外のホームラン打者として、覚醒したと言われた。しかしその一方で、まだまだプロ野球選手としての課題も多く三振数は実に184を数えた。守備面でも捕球、スローイングともに1軍レベルにはほど遠く、失策数も15と多かった。

そんな2年目の村上を徹底的に鍛えたのが、ヘッドコーチだった宮本慎也と打撃担当の石井琢朗、2人のコーチである。

特に課題の多い守備を中心に指導した宮本は、名将・野村克也の下で鍛え上げられたこともあり、技術だけではなく精神面や立ち居振る舞いも含め、一切の妥協を許さない厳しい指導で知られる鬼コーチだった。

広島戦後、村上は2人にコーチ室に呼び出されて懇々と説教されることになった。監督として同席した小川は記憶を呼び起こす。

「試合中のミスとか、そういう話ではありません。練習への向き合い方ですね。これからチームを背負って立つ人間にとって、練習での姿勢は大事だと……要はそういう話ですよ。シーズンも終盤に入り、きちんと伝えなければいけないと、2人からかなり厳しく注意された。その説教を受けながら村上は泣いていました」

その涙は、おそらく厳しく叱責されたことへの悔し涙だと小川は解釈した。ただ、その反発心こそが、村上のエネルギーになっている。あの悔し涙が、その後の成長の糧になったとも語る。

「村上はそこで“なにくそ”と思える。そういう負けず嫌いな部分がすごいんですよ。ただ反発するだけじゃない。そこで反発した分だけ、それならと課題を自分で考えて克服する。その精神力というか、自己啓発力ですね。その部分が本当にすごいなって思います」

村上の自己啓発力を小川が初めて感じ取ったのは、プロ1年目の2018年秋のことだった。

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村上宗隆

ド派手な1軍デビュー

熊本の九州学院高校で捕手だった村上だが、ドラフト1位で獲得したヤクルトの育成方針は明確だった。

球団のシニアディレクターとして村上獲得の中心的役割を担った小川はこの年から1軍監督に就いている。

「はなからキャッチャーで考えていなかった。打者として村上の才能を伸ばすためには内野手で、と判断していました」

すぐさま3塁へのコンバートを断行する。1年目の育成方針はファームで試合に出場させ、実戦の中で体力と技術の強化を図ろうというものだった。2軍で開幕から先発起用されると、村上は期待に応え、本塁打を連発。2軍戦では「4番・3塁」での出場が続くようになった。

「しばらくするとコーチから『そろそろ1軍にあげて村上を見たい』と、声が上がり始めた。それでもずっと我慢してもらっていたんです。しかし当時2軍監督だった高津(臣吾)に聞くと『打つ方は今でも戦力になると思います』と。それで9月に1軍に昇格させたわけです」

1軍デビュー戦は9月16日、神宮球場での広島戦。「6番・3塁」で先発した村上は、いきなり初回の守備で1塁に悪送球するエラーを犯してしまう。ところが直後の2回の初打席で、そのミスを取り戻すように右翼スタンドに本塁打を放った。高卒新人の初打席初本塁打はプロ野球史上7人目、衝撃のデビューだった。こうしてド派手な1軍デビューを飾ったものの、やはりプロの世界は甘くはない。その後の試合ではバットから快音が発せられることはなく、結局、1年目は6試合出場、安打はデビュー戦の本塁打1本だけで、2軍にUターンすることになった。

小川が続ける。

「1軍での経験から、彼はプロ野球でやっていくために必要な課題を見つけたようでした。2軍の残りの公式戦で『しっかりと課題に取り組んでいる』と、当時の宮本賢治ファームディレクターからも報告を受けていました。それで秋のフェニックスリーグでは10本塁打を放つなど、しっかり結果に結びつけていたのです。

最近、村上本人に『あの時期、1軍でのプレーから課題を見つけていたのか?』と尋ねると、『はい、そうです』と。やっぱり並の18歳ではなかったですね。18歳で初めて1軍に上がり、わずか6試合で経験したことを、今後のプロ野球でやっていくための課題として取り組む。そういう自己啓発力が、現在の活躍に繋がっていると思うんです」

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小川淳司前監督

実はその自己啓発力の高さを早くから感じていた人物がいる。

村上の中学生時代に指導をしていた熊本東リトルシニア監督の吉本幸夫だ。

中3で打った伝説の本塁打

三兄弟の次男として生まれ育った村上は、幼い頃に兄・友幸の影響を受けて野球を始めた。ちなみに友幸は現在、社会人野球でプレーしており、弟の慶太は村上の出身校である九州学院の「4番」として今夏の甲子園大会に出場している。

野球一家で育った村上が、兄を追って熊本東リトルシニアの門を叩いたのは小学校6年生の時だった。

入団当初の印象を吉本が語る。

「入団前から兄貴についてきて、グラウンドで遊んでいました。最初は本当に普通の子供。先日、彼が中学2年だった頃の映像を見返したんですけど、やっぱりまだ普通の選手という感じで。驚くような選手では全然なかった。2年の秋には九州の選抜チームに入るくらいのレベルまで成長しましたけど、いまの活躍を想像できるほどではなかった。ただ、中3ぐらいから、身体が大きくなって急激に成長していきました」

当時、吉本を唖然とさせた本塁打がある。中学3年生の5月、佐賀での練習試合で放った一本だ。

「ライトスタンドまで90m以上ある広いグラウンドでの試合。そこでライトのネットを越える強烈な本塁打を打ったんです。半端ない飛距離だった」

その打球を見た瞬間、吉本は「うちのグラウンドであんな打球を打たれたら大変なことになる」と思った。

「逆方向へ引っ張る」感覚

チームが練習で使用していた熊本県益城町の町営グラウンドはライトまで85mほどしかなく、ネットを張り巡らせてはいたものの、すぐ先には民家があった。

「その民家のスレートの屋根にボールが当たると穴が空いてしまう。そうなると、父兄が修理をしなくてはいけなかったんです。それまでも村上の打球が屋根を直撃することはありましたが、3年生になって飛距離が急激に伸びて、このままいったら修理してもしきれないくらいのことになるぞと……」

そこで吉本は村上に対して、「右方向に引っ張らず、レフトに強い打球を打つ意識を持ちなさい」と告げた。

「後年、村上のお父さんに聞いたら、『本当は引っ張りたかったし、めちゃくちゃ嫌だった』と言っていたそうです(笑)」

しかし、そんな素振りを見せることなく、村上はティー打撃から逆方向を意識した練習を続けた。その結果、プロに入ってからも村上の打撃を支える「逆方向へ引っ張る」感覚を身に付けることとなる。

「やっぱり一生懸命に、本当に野球に対して真面目に取り組んでいました。自分で『こういうことをやろう』と決めたら、それを毎日、毎日、地道に続けることができていた。自分との約束とでも言うんですかね……。コーチから『500回素振りしろよ』と言われてできる子は大勢います。でも自分で課題を見つけて、コツコツとやり遂げられる子は少ない。それは彼の才能だったと思います」

もちろん野球の才能なくして、これほどの選手に成長できなかったことは言うまでもない。ただ幼い頃から目的達成のために課題を見つけて、地道に努力する。そうした自己啓発力も規格外の選手に育った大きな要因だったはずである。

「彼はね、大阪のおばちゃん気質ですよ。周りにいる子供に『みかん、食べ!』『アメ、食べ!』ってお節介を焼くようなタイプです」

こう村上を評するのは、九州学院の監督として高校3年間、指導した坂井宏安だった。

「周囲の面倒を見るのが大好き。試合中もずっとゲームに参加しないと気が済まない。いまもベンチで試合を見ながら声を出し続けているでしょ。プロに入ってからも性格は変わっていないなと思いますね」

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