見出し画像

伊藤博文 危機の宰相だった高祖父

伊藤博文(1841〜1909)は、明治政府の最大の立役者だが、韓国統監を辞任後すぐに暗殺されたこともあり批判もある。玄孫の藤崎一郎氏がその実像を探る。

伊藤博文

「陛下(明治天皇)に伊藤のおじいさまが拝謁するとき、お供させられたことがあるのよ。おじいさまは申請の手続きが面倒だから私を馬車の座席の足元にうずくまらせて隠して御門を通ったのよ」

藤崎一郎氏 ©文藝春秋

 祖母清子の自慢であった。10歳くらいだったのだろう。清子は祖父母の伊藤博文夫妻と大磯の滄浪閣で少女の一時期を過ごした。伊藤は老後を過ごす地として大磯を愛した。小学校の建て替えに寄付し、また、全校生徒に10銭ずつ入った郵便貯金通帳を配ったという。町の人や漁師を招き陛下御下賜の樽酒などをふるまって楽しんだ。

 要人の訪問も多かった。韓国併合の要を説きに小村寿太郎が滄浪閣を訪れた。二晩続きで酒をのんで、つかみ合いになりそうな激論をした。給仕していた清子はこわくなって座をはずしたそうだ。伊藤暗殺の報が大磯に届いた時、妻梅子は「畳の上で死ねる人ではないと思っていた」と動じず、清子は感心したという。

 伊藤の評価は時代によって変わった。初代総理大臣、憲法制定、国会開設など多くの業績を残した。豪放で親しみやすく、カネにキレイで生前から人気が高かった。しかし第二次大戦後の一時期は、明治期の多くのものが否定され、また伊藤は前さばきは上手だが理念や思想を欠いた人物として評価が低下した。奔放な異性関係も男の甲斐性で通る時代ではなくなった。

 しかし伊藤之雄京大名誉教授、北岡伸一東大名誉教授、瀧井一博国際日本文化研究センター教授らが伊藤の功績を改めて調べるとともに、「剛凌強直」(木戸孝允が岩倉具視に伊藤を参議に推薦した書簡)な芯は持ちつつも、柔軟に現実主義の政策をとっていたことを考証して再評価されるようになった。

ここから先は

1,064字 / 1画像
noteで展開する「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。同じ記事は、新サービス「文藝春秋 電子版」でお読みいただけます。新規登録なら「月あたり450円」から。詳しくはこちら→ https://bunshun.jp/bungeishunju

文藝春秋digital

¥900 / 月

月刊誌『文藝春秋』の特集記事を中心に配信。月額900円。(「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。今後は、新規登録なら「…

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください