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吉田修一 百年を守る 巻頭随筆

文・吉田修一(作家)

 おそらく欅だと思われる。マンションのベランダから巨木が見える。

 四階建てのマンションよりも高いのだから、樹齢は優に百年を超えているのかもしれない。

 このベランダは決して広くはないが、とても居心地がいい。この季節になると冬の日が燦々と当たり、暖かい日は膝かけだけを持って、少し寒い日は室内から電気ストーブのコードを延ばして足元を温めながら、この巨木や中庭の紅葉を眺めている。

 思えば、ここ数年、紅葉の色づくのがずいぶんと遅くなった。去年などはクリスマスどころか、年末の声を聞くようになってやっと色づいた。ただ、色づけば色づいたで、それは見事なもので、紅葉にとっても一年に一度の晴れ舞台、その燃え盛るような色には圧倒される。

 紅葉がその美しさの骨頂にあるころ、巨木の葉々がはらりはらりと散り終える。風が冷たくなればなるほど舞い散る葉の数は増え、巨木の向こうに冬の青空が現れる。

 なにも人間様のためでもなかろうが、夏場はあの苛烈な日差しをその身を挺して遮ってくれていた緑の葉々が、こうやって寒くなってくると、ハラハラと自ら落ちてゆき、ベランダに暖かい冬の日差しを届けてくれるのだから、よくできたものである。

 いや、実によくできたものである。

 あるとき、近くの公園のベンチで休憩していると、大きな犬を連れたご婦人と隣り合わせた。なんとなく話を始めたところ、連れているのはご婦人の犬ではなく、お隣の犬らしい。ただ、その飼い主があまり散歩に連れて行ってあげないようで、見かねたこのご婦人が自ら散歩を買って出ているのだという。

「……お隣の悪口なんて言いたかないけど、かわいそうにいつも雪隠づめみたいにされてて。犬っていうのは、とにかく散歩なのよ。人間にはただの散歩でも、犬にはそれが生きがいなんだから」

 口調はきつかったが、彼女自身はこの犬との散歩が楽しみなようで、その頭や喉を撫で回している様子はとても幸せそうである。

 しばらく話をしていると、彼女の家の庭に巨木があるという。行政から伐採を禁止されているというのだから、相当なものである。

「樹齢なんか知らないけど、とにかく大きな木でね、葉が落ちると、まあ、お掃除が大変よ。それなのに重要な自然遺産だから切ってくれるな、でしょ」

「そんな大きな木があるんだったら、きっと立派なお宅なんでしょうねえ」

「もう五十年も前に買った土地だから」

「五十年ですか」

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