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柚木沙弥郎「民藝」は僕の原点

柳宗理さんとは共鳴する部分がありました。/文・柚木沙弥郎(染色家)

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柚木さん

時代が僕を捕まえた

先日、東京・立川で開かれていた僕の展覧会「柚木沙弥郎 life・LIFE」に予告なしで行きました。仕事を手伝ってくれている人に車を出してもらって、車いすで。僕に気づいた人たちがビックリした顔をしていて、おもしろかったね。

入口には絵本の原画が展示されていて、その先にはポスターや人形なんかが続く。最後に「布の森」が広がっていました。

飾られたのは、1950年代から2020年までの約50点の染色作品。それぞれの布には、まゆ玉、縞、あるいは四角やハートの組み合わせ、人や鳥の絵柄……さまざまな模様を、型染という技法を使って色とりどりに染めたものです。

近年の僕の展覧会は、フランスの美術館で開かれたものを含め、若い人の姿が目立ちます。彼らは僕の作品を見て、口々に「かわいい」と言います。初めはおかしいと思って聞いていたけど、「おもしろい」「美しい」「感動した」といった意味がみんなこの一言に含まれているんですね。今どきの言葉ですね。

僕の作品は深刻な美術じゃなく工芸だし、分かりいいものがたくさんある。だから、年齢も国境も関係なしに喜んでもらえるのでしょう。

この展覧会は、巡回が検討されているところです。

僕は今年で100歳ですが、80歳くらいから精神が自由になったと感じます。染色家として布を染めるだけではなく、アートの枠にとらわれずにいろんな表現をするようになりました。注目される機会が増えたのもこの頃からです。

高齢になって新しいことに取り組むと「挑戦」と言われますが、自分ではこの言葉を使いません。すべて自然の流れでやってきたことだからです。僕は普通にしていただけですが、時代が僕を捕まえたんだよ。

柚木氏は日本を代表する染色家であり、絵画や版画、立体造形といった幅広い作品を生み出すアーティストだ。1922(大正11)年、東京・田端生まれ。1946年、岡山・倉敷の大原美術館で勤務時に、柳宗悦の提唱した民藝運動に出合い、柳を師とする染色家・芹沢銈介せりざわけいすけに師事することになる。

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民藝とは“健康な美”

高校生の時に太平洋戦争が始まり、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部美学美術史学科に在学中、学徒動員されました。僕は内地で終戦を迎えましたが、旧制松本高校の同級生が2人、戦地で命を落としました。1人は小説を書くためにいつも手帳を持ち歩いていて、およそ兵隊には向いていなかった。亡くなった彼らの分も、自分は何かしなくてはいけないと思ったものです。

田端の自宅が戦火で焼けてしまったので、父の郷里の倉敷に復員しました。翌年には結婚し、大原美術館で働くことになりました。展示解説なんかもしたけど、まあ、受付の切符切りのようなものでした。

幸運だったのは、館長の武内潔真たけうちきよみさんという人が、柳宗悦先生と親しく付き合っていたことです。武内さんは民藝を知らなかった僕を自宅まで招き、色々と教えてくれました。

民藝とは、“用”と“美”が結びついた民衆的工芸のこと。王侯貴族が持っているような工芸品よりも、一般市民が日常的に使うような器や道具にこそ、健康な美があるのだ、という思想を柳先生が打ち出したのです。それまでの美の価値基準の転換でした。

そうした民藝思想を説いた柳先生の本を武内さんに借りて、貪るように読みました。

また、美術館には芹沢銈介先生の型染のカレンダーがありました。当時の僕には、それが染物だということさえわからなかったのですが、「おもしろいものだなあ」とひときわ心惹かれたものです。

美術館に8か月勤めて、大学にちょっとだけ復学しましたが、自分に学問は向いていないと感じました。西洋美術史を勉強していたけど、父も兄も画家だったし、自分もものを作る方が合っている気がした。

そこで武内さんから柳先生を紹介していただき、柳先生から「君は芹沢君のところに行きなさい」と示していただいたことで、染色の道へと踏み出しました。

芹沢先生を手伝うつもりが、先生に「まずは染職人のところで住み込みをした方がいい」と言われて、静岡の職人の家で1年ほど修業することになりました。妻は僕の実家に身を寄せ、その間に子どもも生まれた。しょっちゅう「早く帰ってきて」とせっつかれましたね。

結婚した段階で僕は何者になるか定まっておらず、妻からしたら不安が大きかったと思います。染色家を志した時点でも、どんな生活が待っているのか僕にも見えなかった。修業して初めて、染色は家族で仕事をするものだと知りました。画家だったら1人で完結しますが、染色の場合、いろんな工程があるので複数人で作業分担することも多いのです。

そういうわけで、修業が明けると、妻が仕事の上でも大事なパートナーになりました。

やがて助手として、中込理晴なかごめりはるという16歳の少年が加わりました。なぜなのか彼のお父さんが柳宗悦先生の甥の悦博さんに頼み込み、僕の元へ連れてきたのです。本人は染色の「せ」の字も知らなかった。

彼がやめなかったのは妻の功労です。うまくなだめて、仕事を終えると夕飯を食べさせては定時制の学校へと送り出していました。

中込君は立派な染職人になり、81歳になる今も、僕の仕事を手伝ってくれています。

80歳から自由になった

僕は染色家としての仕事の傍ら、1950年には女子美術大学の専任講師になりました。当時はカリキュラムもろくになく、材料を買いに行くのが1日仕事ということもあったくらい。72年には教授になりましたが、昔の大学は今と違って自由でしたね。

とはいえ、染色と大学の仕事の両立となると、時間のやりくりが大変ではありました。

1番苦労したのは、同大学・短大の学長になった1987年からの4年間です。会議、会議で、夏休みだろうが会議がある。自分の染色の仕事はまったくできません。任期が満了して、大学人としての勤めを終えた時にはホッとしました。

20世紀の終わりには、今度は染色家として、世の中が変わったことを痛感しました。テキスタイルの需要がなくなったのです。ずっと洋服生地を染めてきましたが、洋服は仕立てるのでなく既製品を買うのが当たり前になっていたし、生地にしても外国から安いものが入ってくるようになりましたから。

見方を変えれば、僕にとって、それまでの決まった仕事から自由になった時期とも言えます。

まず、ひょんなことから、絵本を手がけるようになりました。私家版を1冊だけ作るつもりが、それを知った出版社から注文が舞い込むようになったのです。

80歳が近づく頃から、0~2歳児を対象にした絵本を、お話も含めて作ることが続きました。猫の親子が公園のシーソーで遊ぶ『ぎったんこ ばったんこ』(福音館書店)や、人やいろんな動物の親が自分の子どもを持ち上げる『たかい たかい』(同)などです。

生活をより美しく

そういったお話は、自分の子育てを反映したわけではありません。仕事が忙しかったから、わが子に対してはずいぶん薄情な親だったなと思います。

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