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静かに消えていきたい 小椋佳

銀行員、歌手、東大への再入学——人生をやり切った男の引退宣言。/文・小椋佳(シンガーソングライター)

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小椋さん

昔のような声は出ない

朝起きて、今日も生きなきゃいけないんだなと思うのがしんどいです。77歳になると生きること自体がしんどい。お釈迦様は人生には生老病死の4つの苦しみがあると言いましたが、若い頃には「生」が入っているのが不思議でしょうがなかったんです。生きることが苦だなんてどうしてだろうと。最近はよくぞ「生」を頭に入れられたと思います。

両足がすっかり駄目でね。血流がない。放っておくと壊疽になって両足切断だとお医者さんから脅かされてます。6、7年前まではよく歩いてましたが、この足ではとても。ゴルフも4ホールでリタイアしてしまいます。

10年ほど前にオーチャードホールで2日間のコンサートをやった後、倒れて入院しました。劇症肝炎でした。57歳のときには胃がんで胃の4分の3を摘出しています。

家族が葬式を出すのは大変だから、70歳で「生前葬コンサート」をやりました。4日間かけて100曲を歌うというものです。ところが翌年には「1周忌コンサート」をやっちゃったりして。今回は11月から2022年4月にかけて30ステージほど、各地を回る予定です。ファイナルという形で手仕舞おうと思っていますけれど、もともとステージは一生懸命やる方です。今回は身体の限界がもうそこまできていて、文字通り命懸けですよ。事務所の社長をやっている長男が「時間です、出番ですよ」と楽屋に言いに来るとゾクッとしますもんね。「ああ、やらなきゃいけない」と。幸か不幸か、若いときから座りっぱなしで歌うスタイルで、足を使わずに済んでいるのでなんとか保っています。

だけど、これで引退するのは実は変な感じがするんですよ。というのは、僕、デビューした覚えがないんです。第1作のLPレコードが出たのは銀行に就職して5年目、アメリカに留学していたときです。だからよく知らなかったんです。

今は静かに消えていきたいという感じですね。身体もしんどいし、残念ながら昔のような声は出ないです。歳をとったらとったなりの味が出るとか言うけど、そんなものはウソ。単なる衰えですよ。

睡眠薬がわりに若い日の自分の歌を聴きながら寝ています。自分で言うのは変ですけど、いい声が出ていたなと思いますね。その声がずっと頭にあるから、今でもステージであの声を出したいわけです。でも、残念ながら高音域が出ない。以前は薄くきれいにさあーっと広がりのある声で歌えたんですが、今は張らないと声が出ない。若い頃は歌がうまかったんだなとつくづく思います。特別に訓練したわけでもなんでもないんですから、親に感謝しなくちゃいけないんでしょうね。

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2021年ファイナル・コンサート・ツアーにて

原点は国語の斎藤先生

両親は現在の台東区上野にあたる東黒門町で料亭を営んでいました。父はかつて薩摩琵琶の師範でした。時折父のつまびく薩摩琵琶の音色は幼い時分から僕の耳に馴染んでいました。母も先生についていろんな習い事をしていました。僕も歌うことが好きでした。琵琶歌に「金剛石」という基礎的な歌があります。都立上野高校に入学して最初にクラスで自己紹介をするときに僕は「金剛石」を歌いまして、みんなぽかーんとしていましたよ。「なんだ、教育勅語みたいな歌を歌いやがって」と。

高2のとき、自分の日記から言葉を拾ってメロディーをつけたのが、歌をつくるようになった始まりです。僕のメロディーラインは、「あー」と歌い始めてから4小節とか8小節で歌が転換していきますよね。その転換する次の音出しの頭の音が、薩摩琵琶の音運びに似ているんです。僕の音運びが独特だとすれば、父の琵琶歌の影響を受けています。

音楽で生きようなんて考えていなかったのですが、今思えば、同じ頃に遠いきっかけがありました。僕を特別指導してくれた国語の斎藤先生です。先生はなぜか僕だけに一対一で文章の精読法を指導された。理由はわかりません。「お前、残れ」って言われて。哲学者阿部次郎の『三太郎の日記』という随筆評論集がありますよね。内省的な思索を深める難解な『三太郎の日記』をテキストに「このページのこれは何を指すんだ」など赤鉛筆と青鉛筆で線を引き、言葉を一つ一つ読み解くんです。文章を精読し始めると、言葉へのこだわりが厳しいものになっていきますね。人間は言葉でものを考えますから、考えるということは言葉の世界に没入していくことです。

それが後に僕独自の作詞につながって行くのですが、高校の途中から僕は無口になりました。自分の口から出した言葉が本当に僕の思いと重なっているか、本当にこれは正しい言葉遣いなのか引っかかってしまい、だんだんしゃべれなくなっていったんです。

生きる意味や真理を考え込んでしまってノイローゼになり、宗教、なかでも仏教に興味を持ちました。真理を唯一語っているのはお釈迦様だと知り、自分が現代のお釈迦様になって人を救わないと生きている意味がないとまで思い詰めました。

東大文Ⅲ(文学部)の宗教学科に進んでサンスクリット文学を勉強してインドに渡ろうと思っていました。哲学もやりたかった。ところが、当時の上野高校では成績上位者から順に東大文Ⅰ(法学部)、文Ⅱ(経済学部)と受験先を割り振っていくんですね。僕は成績がよかったものですから、教師が「文Ⅰに行けるだろう」と。結局、1浪して文Ⅰに進学しましたが、「あれだけサンスクリット文学をやると言っていたのにお前はなんだ」という気持ちで、しばらく自分を正当化できませんでした。法律にも興味が持てず勉強せずに大学は終わりました。

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2014年の生前葬コンサート後、家では白装束を着る

突然おしゃべりな販売員に

寡黙な男だったのががらりと変わったのが大学2年のときです。ある出会いがあって会社を始めたんです。42歳の社長と学生の僕の2人で「日米観光」という観光会社でした。客集めのためにセールスマンは饒舌にならざるを得ない。突然おしゃべり上手になりました。「社長さんだったら一生に1回ぐらいヨーロッパに行かなきゃ嘘ですよ」「外遊しませんか」なんて、調子のいい嘘八百を並べ立ててヨーロッパに連れて行くみたいなことをやるんです。海外旅行を「外遊」と言っていた時代です。この体験は銀行に就職してから生きました。

でもノイローゼは尾を引きました。人には言えませんでしたが、定期的に頭の中が狂うんです。27歳まで10年ほど続きました。

東大法学部を卒業すると、成績優秀者は法曹か官僚、そうでない僕のような学生は民間企業に就職するわけです。1967年に当時の日本勧業銀行に就職するとき、「組織内存在の一人となるけれど、同時に何らかの創造的作業をなし、何らかの表現者となる」と飲み会で言っていました。組織社会でうごめく自分と周囲の人間と社会を観察し、それをベースに表現者として人間の疎外の問題を扱おうと思っていたんです。でも、まだ歌を歌うことになるとは思っていませんでした。

きっかけは週刊文春

実は大学時代の最後の頃には寺山修司さんのところに出入りして、サロンに集う寺山ファンのつくった詩にメロディーをつけたりしていました。入行後に疎遠になっていた寺山さんに呼ばれ、制作途中のアルバム「初恋地獄篇」の中の3曲のレコーディングに参加しました。そのアルバムを聴いたプロデューサーが会いに来たのは、銀行で見習いのようなことをしていた時期でした。顔を見るなり、「これじゃあ売れねえ」って思ったようです。美少年が流行っていたような時代です。顔を出さずに行こうと、1枚目のLPレコード「青春―砂漠の少年」が発売された1971年、僕は銀行からノースウェスタン大学に留学してシカゴに住んでいました。銀行には競業避止義務があり、副業は禁じられていましたが、アメリカにいたため、自分ではLPレコードが発売されることがどういうことなのか、よく認識していなかったのです。国内にいる先輩が心配して人事部に相談したところ、「どうせたいしたことにはならないだろう」と、銀行は歌創りを温かく無視してくれました。ところが翌年に発売された3枚目のLP「彷徨さまよい」は100万枚を超す売上となりました。「顔を出さなかったからよかったんだよ」と後から人に言われたものです。

小椋佳が銀行員だと知れ渡ったのは週刊文春がきっかけなんです。「彷徨」が出る前後だったと思いますが、「70年代に活躍しそうな人たちの特集を組むから」と、週刊文春の外部記者から取材を受けました。

銀行の重役にも取材を済ませているとの話だったのですが、発売されると「一銀行員の副業に驚愕した重役会」というショッキングな見出しで、銀行内は騒動になりました。重役に詫びを入れて回った後、人事部長から小椋佳としての仕事をやめてはどうかと言われ、僕は「歌創りは自分にとって日記をつけるようなものです。銀行員は日記をつけてはならないという法はないはずです」と。歌をやめなくてはならないのなら銀行を辞めますと啖呵を切り、次善の策として「顔を一切出さない」という約束で歌も続けることになりました。おおらかな時代でした。ところが32歳のときには役員とNHKとの間で決まった話が降りてきて、NHKホールで初めてのコンサートをする羽目になりました。「シクラメンのかほり」がレコード大賞を受賞したのはその1年前です。

「銀行員と歌の仕事をよく両立しましたね」と言われます。でも、僕の認識では仕事は銀行員だけ。歌創りは僕にとってはもっと日常的なことです。ですので、レコードが100万枚売れたからと言って銀行を辞めるなどということは考えませんでした。観察者として組織の中で個を失っていく日本人を見続けようという意識があったと思います。プロダクションに所属していなかったので、レコード会社のポリドールがマネージャーをつけてくれました。ふつう、マネージャーの仕事は仕事をとってくることですけれど、僕のマネージャーの役割は仕事の依頼を上手に断ることでした。

証券の勉強のために31歳でアメリカの証券会社に派遣されました。戻ってから、証券部に配属され、社債の募集業務を担当しました。社債とは企業が債券を発行して資金を集める資金調達手段です。社債に関する業務は証券会社の領域だと思われがちですが、実は銀行が債券募集の受託を行い、そのあと債券の販売などを引き受ける証券会社を決めるという流れです。ところが、当時の銀行はこの募集業務に関して、取引企業に依頼されたらやってあげるという受け身の姿勢でした。

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銀行員時代の小椋さん

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