「老壮会」という水脈合流点|保阪正康『日本の地下水脈』
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「老壮会」という水脈合流点|保阪正康『日本の地下水脈』

アナーキストから右翼までが大同団結した結社が、大正中期の日本には存在していた。/文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)

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保阪氏

右翼と左翼の勉強会

大正8(1919)年から10年は、近代日本の分岐点であった。維新後の政治体制が、この頃から形を変えていくことになる。その背景には以下のような出来事があった。

(1)第一次世界大戦の終結(世界秩序の解体と再編成)

(2)ソ連共産主義体制の成立(プロレタリア革命の可能性)

(3)新しい形のナショナリズム(民族的感情への帰依)

(4)大衆社会の誕生(市民社会への移行)

これは世界史的な潮流でもあった。市民社会では各個人が主体性を持って社会や人生と向き合うシステムとなるが、この労を惜しむ者は単なる体制順応者でしかなくなる。そうした弊を嫌った知識人の存在が浮かび上がってきた。むろん日本にもこうした風潮は入ってきた。そういう動きがこの時代の年譜の中に定着していることが見られるのである。

注目したいのは、この期に「老壮会」という結社が生まれたことだ。共産主義者、アナーキストたちと大川周明、北一輝などが大同団結した形の組織だった。今となっては信じられないのだが、いわば右翼と左翼の勉強会であった。一体なぜ、こんな結社ができたのか。今回はその時代背景を検証し、ここに集まった思想家、活動家の模様を見つつ、彼らが考えた国家改造とはどのようなものだったのかを見ていきたい。

近代日本の地下水脈が合流

その前に、反体制運動について、整理しておく。

近代日本には様々な形の反体制運動があった。明治政府が結局は西欧型の帝国主義国家を目指す中で、その路線と異なる像を模索する運動は、つまるところ4つの流れに分岐すると言える。

ひとつはその帝国主義的な流れの中での対立である。帝国主義的な方向は共にしていながら、明治政府に欠落していた国家社会主義的な視点やナショナリズム的視点を補完する勢力である。さらに天皇親政主義的な方向性なども含まれる。このグループをAとしよう。

もうひとつは社会主義(共産主義を含める)の方向を目指す勢力である。この勢力は、西欧的帝国主義には批判的なものの、近代そのものが持つ規範(例えば工業化など)は、ほとんど体制側と一体である。これをBと考えたい。

さらに、近代の範疇にあるABとは別の流れの反体制運動がある。全く新しい制度や機構を持つ思想や運動だ。これには純正右翼の国家観が当てはまる。天皇親政を目指すだけではなく、権藤成卿のいうような近代そのものの総否定であり、古代国家を範とする国家像を模索する。これをCと名付けよう。橘孝三郎の農本主義などもこれに近接している。

さらにCの流れの中のいわゆる左翼系にはアナーキズムがある。この思想は、体制そのものを否定することにより、国民の自治意識のもとで共同社会が現出されるとする。これをDとしようか。

このように見てみると、反体制運動を左翼とか右翼といった分け方をするのは、極めて便宜主義的だということがわかるだろう。

頭を整理したところで、明治期の反体制運動をもう一度見てみよう。たとえば中江兆民や大井憲太郎らは「天賦人権論」に基づき、自由民権論を唱えた。結社で言えば自由党だ。しかしこうした人物や団体を「左翼」とは呼ばなかった。また、日清戦争後の三国干渉によって民権論から国権論に転じた徳富蘇峰のような言論人もいたが、彼らを「右翼」とする考え方も希薄であった。

つまり近代日本の帝国主義国家には4つの反体制運動の水脈があった。大正7(1918)年に結成された老壮会は、これらが一堂に会した結社である。そして4年余りの活動を経て、自然解消の形になった。老壮会の解散後、治安維持法が成立するが、当初その対象になったのは、BとDであった。天皇制を否定したからである。

これ以後の結社はいわゆる左翼系、右翼系といった分類が可能になる。つまり老壮会という結社は近代日本の反体制運動の地下水脈の合流点であり、同時に分流点でもあった。これ以降、反体制運動の地下水脈は右翼と左翼に分かれて行ったと分析していいだろう。

近代日本の反体制運動をもう一度整理したのは、こうしたチャートを作成することで、反体制運動の構図を見直すことが必要だからだ。

富国強兵政策の歪み

ではなぜ、反体制運動が生まれたのか。その背景には、明治政府の富国強兵政策の歪みが随所であらわになったことがある。工業化が進むにつれ、都市での労働者は急激に増加した。しかし労働環境は劣悪であった。たとえば明治30(1897)年ごろの東京砲兵工廠の例を見ると、1日10時間以上働いて日給は現在の3000円ほど。休日は月2日程度しかなかった。

農村でも、急激な近代化、資本主義の進展に伴う矛盾が顕在化した。地方の農家の次男や三男などが東京や大阪などの大都市に集まって職を求めた。しかし日露戦争後に慢性的な不況になり、都市が地方の人口を吸収しきれなくなった。もともと耕地が少ない農村では労働人口が余剰となった。農民の窮乏が進むにつれ、小作人が組合を結成して地主に小作料の減免を要求する動きも広まった。このように労働運動が活発になると、その指導理論も生まれ、その論理が洗練されてゆく。その一つが社会主義思想だった。

国外に目を向けると、日露戦争後から第一次世界大戦にかけて大きな動きがあった。日本は明治43年、朝鮮半島を併合した。さらに明治45年2月には、孫文らによって清政府が倒され、中華民国が樹立された(辛亥革命)。2年後には第一次世界大戦が勃発。日本は日英同盟に則り、連合国の一員として参戦したが、日本政府はイギリスの要請を越えて戦線を拡大した。ドイツが東アジアの重要な拠点としていた中国山東省の青島を占領し、さらに南洋諸島のドイツ領にも侵攻した。

日本は、ドイツなど列強が中国での権益を守る力が弱まっているのを衝き、大正4(1915)年、中国の袁世凱政府に要求を突きつけた(対華二十一箇条の要求)。その内容は「山東省内の旧ドイツ権益を日本が継承する」「旅順・大連の租借期限及び南満州の鉄道権益期限を99年に延長する」「中国政府の政治・財政・軍事顧問として日本人を採用する」などだ。その後、日本は日本人顧問の採用を棚上げにするなど多少は内容を緩和したが、主要な部分は袁政権に飲ませた。

本連載ですでに指摘したが、戦前の日本は戦争を経済行為とみなしていた。日清戦争で得た巨額の賠償金で軍備や産業を整備した「成功体験」が土台になっている。日露戦争で賠償金が得られないと知った民衆が大暴動を起こしたのも、「戦争に勝ったら具体的な見返りがある」という発想があったからこそだ。

大正デモクラシーと米騒動

第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、さまざまな利益を得た。日露戦争後の明治末期からは慢性的な不況に苦しんでいたが、大戦景気で一気に回復した。大きかったのは、世界的な船舶不足だ。海運業や造船業は空前の好景気となった。目覚ましい経済発展の中で、資本家や経営者の意識、発言権は高まった。日本工業倶楽部や日本経済連盟会などの団体が相次いで結成された。

それと同時に、労働運動も勢いを増した。第一次世界大戦は、国を挙げた初めての総力戦となり、多くの市民が動員された。連合国側がこの戦争を「民主主義 vs.専制主義」と主張したこともあって、デモクラシー擁護の機運が高まった。日本では、前述のような急激な社会的矛盾の噴出を背景として、民主主義的な風潮が広まった。いわゆる「大正デモクラシー」である。

理論的支柱となったのは、吉野作造である。デモクラシーを「民本主義」と訳し、政治の目的は民衆の福利向上であり、政策決定は民衆の意向に基づくものであるべき、との主張をした。当時の選挙権は、一定の納税をしている男性だけに与えられていた。しかしデモクラシーの風潮は、必然的に普通選挙、つまり納税額に関係なく選挙権を国民に与えよという主張に結びついた。また、選挙などで国民に選ばれていない宮廷政治家や藩閥、官僚、軍部などへの批判も高まった。

こうした中、吉野は大正7(1918)年、大山郁夫らとともに黎明会を結成した。さらに同年、東京帝国大学の学生や卒業生によって東大新人会が結成された。

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吉野作造

大戦バブルに沸く国内だが、為政者たちを震え上がらせる事件が起きた。「米騒動」だ。都市部の人口が増える中、主食であった米の消費量が増加した。さらに戦争が長引く中で、軍用米の需要も増えた。このため米価が急上昇し、庶民の生活を直撃した。たとえば、当時の東京の相場でみると、大正5(1916)年8月、米1石(約150キロ)は13円62銭だった。それがわずか1年半後の大正7年1月には倍近い23円84銭となっている。

さらに大隈重信内閣を後継した寺内正毅内閣が、ロシア革命に干渉すべくシベリア出兵を強力に進めたため、軍用米の高騰を見越した商人の買い占めが予想され、米価はさらに上昇していった。

大正7年7月、富山県魚津町の漁村の婦人たちが、米の県外移出を差し止めるべく浜辺に集まった。周囲の町でも米の移送禁止や安売りを求める活動が広まった。当初は、ほぼ非暴力で「お願い」中心の活動であったとされる。しかし「越中女一揆」と新聞報道されると、運動は全国各地に広まり、過激化した。8月中旬以降、米の安売りを求めるデモ行進が行われた。暴徒化した市民が米商人や精米会社などを襲い警官隊と衝突した。近年の研究によれば、米騒動は42道府県に及び、およそ70万人が加わった。2万人以上が検挙され8000人近くが起訴されている。近代以降今日に至るまで、日本史上最大の民衆蜂起である。

米騒動は自然発生的なもので、特定の政治勢力に操られたものではなく、イデオロギーによって連携したものでもない。だが、そうであったからこそ、為政者や知識人には大きな衝撃をもたらした。寺内内閣はこの米騒動の余波で倒れ、立憲政友会の原敬総裁が首相となった。

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原敬

ロシア革命が与えた“希望”

専制国家のロシアでも、民衆の政府に対する怒りは高まっていた。日露戦争の敗北などで皇帝による専制政治は弱体化していた。さらに第一次世界大戦への参戦で農民や労働者の生活は圧迫された。大正6(1917)年3月、首都のペトログラードで労働者がゼネストをすると、政府は軍隊を出動させて鎮圧しようとしたが、その軍隊までもが労働者に同調した。帝政は倒れ、自由主義者らによる臨時政府が成立した。

同年10月にはレーニンらが率いる社会民主労働党のボリシェヴィキ派が武装蜂起し、他派と協力して臨時政府を倒した。農民や労働者、兵士などのソビエト(ロシア語で「会議」の意味)を基盤とする、世界初の社会主義国家が樹立された。ロシアはそれまで連合国としてドイツやオーストリアと戦っていたが、ソビエト政府は単独で両国と平和条約を結び、戦争から身を退いた。

その後、ソ連国内では権力闘争が続き、ボリシェヴィキ派は対立する社会革命党などを弾圧した。同派は一党独裁体制を固めていき、やがて独裁者スターリンの恐怖政治へとつながっていく。

しかし民衆の行動によって新しい政府が生まれたロシア革命は、日本の社会、言論界に大きな影響を与えた。明治末期の社会主義運動は、ある種の理想郷(ユートピア)を探すような議論でもあった。ところが、現実に革命は遂げられた。それを見た日本の社会主義者たちは、具体的な現実を見て“希望”を得たのである。

ロシア革命により「左翼」の原型が生まれる一方、天皇を頂点とする国家体制を信奉する者たちや、国粋主義者たちの危機感も高まった。行きすぎた工業化や都市化、資本主義に対するアンチテーゼとしての農本主義も、地方を中心に深化していった。目指すところはさまざまだが、「現状の変革を求める」という一点においては、反体制運動の目指すところは一致していたのである。

「老壮会」を主宰した満川亀太郎

こうした改革を希求する個人や諸団体を結ぼうとした人物がいた。思想家・社会運動家の満川亀太郎である。明治21(1888)年に大阪で生まれ、京都で育った。早熟の満川は、自分で新聞を作り、記事も自ら執筆した。高等小学校在学中の明治35年2月、日本銀行京都出張所の雑用係となり、翌月高等小学校を卒業した。

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