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梯久美子 池田武邦さんと軽巡洋艦「矢矧」

文・梯久美子(ノンフィクション作家)

新幹線で東京から関西方面に向かうと、名古屋の少し前で線路は矢作川を渡る。川岸に立つ河川名の表示板が目に入り、この5月に98歳で亡くなった建築家の池田武邦氏のことを思った。

池田氏は海軍兵学校72期で、卒業後は少尉候補生として軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」に着任した。軽巡洋艦は川の名から命名されるのが通例で、「矢矧」という艦名は矢作(矢矧)川に由来している。

私が取材をきっかけに池田氏と親交を得たのは13年前のことだ。以来、氏が万感の思いを込めてこの艦の名を口にするのを何度も聞いた。

池田氏はマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、天一号作戦を「矢矧」の乗員として戦った。天一号作戦とは、戦艦「大和」とともに出撃した、いわゆる沖縄海上特攻である。この戦いで「矢矧」は沈み、池田氏は5時間あまり海を漂った後に救助された。

その沈没地点(鹿児島県坊ノ岬沖)の海域近くで行われた洋上慰霊祭に参加したことがある。沖縄海上特攻には「大和」以外に9隻が参加し、1026名の戦死者を出している。だがこれらの艦艇に光が当たることはほとんどない。

慰霊祭で生還者を代表して追悼の言葉を述べた池田氏は、「大和、矢矧、冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、霞、初霜」と、すべての艦の名を挙げ、魂あるもののように、海に向かって呼びかけた。

池田氏は昭和18年11月、「矢矧」に艤装員として着任した。艤装とは、船体が完成した後、航海や戦闘に必要な装備を取り付けることである。同年12月に竣工すると航海士に任命され、昭和20年4月、沖縄海上特攻で沈没するまで「矢矧」とともに闘った。

マリアナ沖海戦とレイテ沖海戦では航海士、沖縄海上特攻では測的長として、すべての戦闘を艦橋で経験しているため、戦闘の状況をつぶさに見た。竣工前から沈没まで、「矢矧」の全生涯を見届けたことになる。

海戦とはどういうものなのか、その一端を、私は池田氏の話によって知った。レイテ沖海戦では、直撃弾と銃撃によって船体が損傷し、艦橋にも死傷者があふれた。

「艦橋の床は海水をかぶっても滑らないよう格子状になっています。格子の下は普段は海水で濡れているんですが、このときはそれが血でした」

船が傾斜するたびに、大量の血がザーッと音を立てて右へ左へと流れる。血の上に立っている感覚と、強烈な生臭さが忘れられないという。

池田氏がもっとも哀惜を込めて語ったのが、沖縄海上特攻で「矢矧」が沈んだ後のことだった。「矢矧」の生存者の多くは駆逐艦「冬月」に収容されたが、佐世保港に帰投するまでに亡くなった戦友が何人もいた。彼らの遺体は手足を折り曲げて釘樽に入れられ、物資を装って陸揚げされた。

「棺桶が不足していたからではなく、機密保持のためでした。矢矧は、極秘のうちに誕生した艦だったんです」

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