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台湾危機は正しく恐れよ 小川和久

いたずらな脅威論は中国共産党を利するだけだ。/文・小川和久 (軍事アナリスト)、撮影・塔下智士

撮影・塔下智士

小川氏

中国による台湾侵攻は起こり得る?

8月2日、ペロシ米下院議長が現職としては25年ぶりに台湾を訪問した直後から、中国人民解放軍は台湾周辺で大規模な軍事演習を開始しました。これを受けて日本のマスコミは「台湾封鎖」「台湾有事」と一斉に報道。とりわけ中国軍が撃ち込んだ11発の弾道ミサイルのうち5発が日本の排他的経済水域(EEZ)に落下したことを受けて、いまにも中国による台湾侵攻が始まるかのような報道がなされました。

本当に中国による台湾侵攻は起こり得るのでしょうか?

結論から言えば、答えは「否」です。日本国内における議論は、専門家も含めて多くが的外れなものと言わざるをえません。中国がミサイルを台湾周辺に撃ち込んだのは、習近平政権が強硬姿勢を国内外に示すための精一杯の手段にすぎません。逆に言えば、中国の対抗手段は、ミサイルを発射することぐらいしか残されていなかったのです。それが今回「台湾封鎖」と呼ばれているものの実態です。

そればかりか、大袈裟に台湾危機を煽り、中国に踊らされることは、日本にとって本当に必要な防衛力整備の目を曇らせ、結果的に中国の策略に嵌まってしまうことにもなりかねません。

今回の中台緊張がすぐには戦争に発展しない理由を、順に整理していきましょう。

まず、しきりに口にされた「海上封鎖」から。ツノを突き合わせているように見えても、実は海上封鎖は戦争と和平を隔てる“分水嶺”なのです。例えば、1962年10月に米ソ間で起きたキューバ危機では、まさに両国はこの分水嶺に立っていました。ケネディ大統領の断固たる姿勢の前に、フルシチョフ第1書記がキューバからの核ミサイルの撤去に同意し、世界大戦が回避されたことは、歴史に刻まれています。

今回の場合、台湾本島に出入りする船舶を中国海軍が封鎖線で臨検し、台湾側が突破を断念したり、日米の軍事的圧力の前に中国側が封鎖線を解けば、軍事衝突は回避されます。逆に、中国側の臨検に対し衝突が生じ、封鎖線周辺に展開する日米などの艦船が阻止しようとすれば、ここから軍事衝突に発展する危険性があります。つまり、中国が弾道ミサイルを台湾や日本に向けて発射するとすれば、それは海上封鎖が分水嶺を越え、戦争の方に転げ始めたときです。そう考えると、今回、中国が海上に放った弾道ミサイルは、海上封鎖以前の単なる威嚇行為にすぎないことがわかります。

台湾上陸の能力がない中国

「台湾有事」を論じる上で大前提となるのは、そもそも中国軍に台湾上陸作戦を遂行できる能力が備わっているかどうかです。

じつは中国の軍事力は、台湾への上陸作戦を実行する能力を備えていないのです。これは米陸軍と海兵隊の専門家には周知の事実で、当の中国軍自身も自覚しています。

第1に、海上輸送の問題があります。台湾に上陸侵攻して占領するためには、計算上、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦に匹敵する100万人規模の陸軍部隊を投入する必要があります。それだけの部隊を運ぶためには、3000万トンから5000万トン規模の船腹量が必要です。ところが、中国が保有する民間商船を全部かき集めてきても、6200万トン。つまり中国には、台湾侵攻に必要な兵員を輸送できるだけの能力がないのです。

上陸作戦に投入する兵力に対して必要な海上輸送能力は、どの国も同じような計算式によって割り出します。私はソ連による北方脅威論が叫ばれていた1977年、防衛大学校の1期生から教えられました。

海上輸送の場合、重量トンではなく「容積トン」で計算します。兵士1人は4容積トン。重量40トンの戦車なら90容積トンと計算するのです。この計算式をもとにソ連軍の1個自動車化狙撃師団(定員1万3000人、車両3000両、うち戦車200両)と1週間分の燃料・弾薬・食料などを輸送するのに必要な船腹量を計算すると、30万~50万トンとなります。当時の極東ソ連では小舟までかき集めても、北海道侵攻に投入できる戦力は3個自動車化狙撃師団、1個空挺師団、1個海軍歩兵旅団、1個空中機動旅団にすぎませんでした。

この戦力しか投入できないとなれば、全滅を覚悟しない限りソ連軍には北海道への上陸作戦はできない、という結論になります。しかし当時の日本では、今にもソ連軍が北海道に攻め込んでくるとの報道が氾濫していたのです。

中国の台湾上陸をシミュレーションする際も、この計算式は基本中の基本ですが、台湾有事を語る自衛隊OBの言説も、これを忘れてしまったかのようで、残念でなりません。

第2に、「上陸適地」の問題があります。仮に中国が上陸作戦に必要な船舶を確保したとしても、海から兵士を送り込むためには、3000人あたりにつき岩礁などの障害物のない幅2㎞ほどの海岸線が必要です。

ところが台湾の海岸線1139㎞のうち、上陸適地はわずか10%ほど、13カ所しかありません。この限られた地点を目指し、中国軍は台湾側の砲兵部隊の射程圏外70㎞あたりの海域で輸送船から上陸用舟艇やホバークラフトに移乗し、殺到することになります。しかし、航空優勢を確保できない中国側には、上陸部隊を上空から支援するエアカバーに限界があります。

一方、迎え撃つ台湾側は、海空軍の強力な対艦戦闘能力で過半の中国軍を洋上で撃破し、残りの中国軍も上陸適地を固める陸軍部隊によって阻止できます。航空優勢だけでなく海上優勢(制海権)を持たない中国の上陸部隊は海の藻くずと化します。

また、日本の領海に近い台湾北東海域は、世界最強の対潜水艦戦(ASW)能力を誇る日米の戦力が控えています。とりわけ日本のASW能力は一頭地を抜いており、中国の潜水艦の動きを完全に把握しています。日米を前に、中国海軍が封鎖線を展開することは困難です。つまり中国は台湾封鎖という分水嶺に立つこともままならない状況なのです。

中国の“軍事インフラ”を見よ

さらに中国軍の本当の実力を測るのに欠かせないのが運用面と「軍事インフラ」への視点です。これは、日本のマスコミを賑わせる最新兵器のカタログデータではわかりません。空母打撃群の編成状況と艦載機運用の習熟度や、軍事インフラの核をなすデータ中継能力から眺めると、評価は一変するはずです。

その現実は、10数年前からしばしば脅威が喧伝され、「空母キラー」と恐れられてきた対艦弾道ミサイル東風21Dと東風26を見ればわかります。時速50㎞ほどで移動する米空母打撃群は、米本土と比較しても最も濃密なミサイル防衛の傘に守られています。しかし中国の軍事インフラには、この防衛網をかいくぐって空母キラーを命中させる能力は備わっていないのです。

移動中の空母に弾道ミサイルを命中させるには、空母の探知→位置の確定→継続的な追跡→重層的防衛網の突破→戦果の確認という、「キル・チェーン」と呼ばれる一連の能力が必要です。動いているターゲットをリアルタイムで捕捉するには、衛星(データ中継、偵察)、レーダー、偵察機といった軍事インフラが十分になければ不可能です。

ところが中国には、この軍事インフラが決定的に不足しています。米軍はデータ中継専用の衛星を15機、他の衛星の中継能力を合わせて30機以上を展開しているのに、中国は5機が軌道上にあるに過ぎません。ターゲットの常時監視には偵察衛星を3つの極軌道上に数十個ずつ展開する必要がありますが、中国にはそれがない。極超音速滑空ミサイル東風17にも同じハードルがあります。

しかも米国側には中国のキル・チェーンを寸断する能力がある。空母艦載機は衛星攻撃ミサイルを搭載し、空軍のF-22戦闘機の即応ラプターパッケージは中国側の中継用航空機を撃墜する能力を持っています。

中国の軍事力に関する日本の言説は、とかく兵器や兵員の数に目を奪われる傾向があります。しかし軍事技術がハイテク化するほど重要になるのは、軍事インフラが支える運用の問題です。データ中継衛星などの評価を抜きに、中国軍の本当の実力を測ることはできません。

「凄み」を見せつけた米国

米中関係が緊迫する中でのペロシ訪台は、米軍制服組トップのミリー統合参謀本部議長が「訪台は望ましくない」と懸念を示した通り、米軍にとっても厄介な動きでした。しかし軍は政治に従わなければなりません。そこで米軍は行動に出ました。じつはペロシ訪台時、米軍は中国軍がたじろぐほどの戦力を台湾周辺で突きつけていたのです。

日本では中国側の弾道ミサイルの発射ばかりがクローズアップされましたが、米国側はおとなしく手をこまねいていたわけではないのです。

ペロシ議長一行はマレーシアのクアラルンプールから台北まで、直行すれば4時間ほどのルートを7時間かけてフライトしました。中国が領有権を主張し、岩礁を埋め立てて滑走路などを建設している南シナ海上空を避けたためです。F-15戦闘機18機とKC-135空中給油機5機が護衛する空軍の要人輸送機C-40Cが南シナ海上空を飛行すれば、偶発的な衝突が生じかねません。中国の海空軍の戦闘機は夜間の洋上飛行に不慣れで、威嚇のつもりが誤って機体が接触したりする可能性もあります。そのため迂回ルートを取った米軍ですが、同時に圧倒的な戦力を台湾周辺で誇示してもいたのです。

フィリピン海から沖縄東方海上にかけては、原子力空母ロナルド・レーガン(F/A-18E/F戦闘機48機を搭載)、強襲揚陸艦トリポリ(F-35B垂直離着陸ステルス戦闘機20機を搭載)、同アメリカ(同)がそれぞれ護衛艦艇を伴って展開していました。戦闘機だけで実に88機。これはオランダの空軍力に匹敵する強力な布陣です。そして、この戦闘機を活動させるために、37機のKC-135空中給油機(嘉手納基地所属機15機、増強部隊22機)を展開したのです。これは、台湾周辺に布陣していた空母遼寧と山東を含む中国海軍に壊滅的な損害を与えるに充分だったことは言うまでもありません。特に中国が苦手とする夜間戦闘になれば、その結果は目に見えていました。

台湾周辺での軍事演習が、ペロシ議長が去った翌日、8月4日から7日の間に設定されたことは、このことと無関係ではないはずです。強面を突きつけた米軍に圧倒された中国が、なんとか強硬姿勢を示し、面目を保つために残された手段……それが弾道ミサイル発射だったのです。

②ペロシ

訪台したペロシ米下院議長

中国が進める「三戦」のリアリズム

現状では台湾侵攻能力を欠く中国です。今後、どのようにして台湾を制するつもりなのでしょうか。

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