不思議な糸に導かれ|藤原正彦「古風堂々」
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不思議な糸に導かれ|藤原正彦「古風堂々」

文・藤原正彦(作家・数学者)

小学校4年生の春、新しい図画工作の先生が着任した。強い天然パーマとギョロ目が特徴の、やせて颯爽とした27歳の美青年だった。3年生以上がこの先生に習うのだが、瞬く間に学校一の人気者となった。母親譲りの不器用で図工の成績はいつも5段階の2という私でさえ、週に1度、2階建て木造校舎の1階西端にあった図画工作室へ向かうのが楽しみだった。

話が抜群に面白かった。十八番は二等兵物語だった。終戦直前にしばらく陸軍にいた先生の、ユーモアたっぷりの語り口に私達は腹を抱えて笑い、憤慨し、時にはペーソスにシュンとした。生真面目な堅物教師、軍隊上がりの鬼教師、日教組バリバリ教師などの中で、先生の自由奔放な発想は新鮮で私達の心を掴んだ。「君達、刑務所の塀の高さと棒高跳びの世界記録はどっちが高いんだろうね」と尋ねた時は、私が「先生、棒高跳びの練習しようとしてるんだ」とまぜ返し教室は笑いに包まれた。「フグを食べたサメは死ぬのかなあ」とか「双眼鏡を逆から見ると近くのものが遠くに見えるだろう。子供の頃にそうやって椅子から飛び降りようとしたらね、崖から下を覗くようだったよ」と言って私達を煙に巻いた。「君達も正月には近所の神社にお詣りに行くだろう。ところで自分の家の前に賽銭箱を置いてお金を集めちゃいけないのかな」、「ほんの少しのことを雀の涙って言うけど、誰か雀の涙を見た人いるかい」などと言っては私達を爆笑させた。

物語や詩の話も多く、藤村の「初恋」(まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき……)を黒板に書いたりした。数理的な話も好んでされた。5年生の時だった。「今年の進学適性検査(今の共通テスト)にこういうのがあった。太郎と次郎が百米競走をしました。太郎がゴールした時、次郎はまだ十米後ろにいました。そこで2度目は太郎がスタートラインの十米後方から出発して競走しました。さてどちらが勝つでしょう」。生徒達から「太郎が勝つ」「次郎が勝つ」「同時だよ」の声が入り乱れた。2分程して先生が「誰か自信のある人はいるかい。いないなら教えてあげよう」と言った。「待って、わかりそうだから」と私が甲高い声で叫んだ。間もなく再び叫んだ。「できた、太郎が一米勝つ!」「ほう、どうしてだ」「次郎の速度は太郎の9割ということになるでしょ。だったら太郎が百十米走ってゴールした時に、次郎はその9割、すなわち九十九米地点にいる」。先生は大げさに感心してくれた。私が数学の虫となるきっかけの一つとなった。その半年後、修学旅行先の箱根で、夜に酒を飲んだのも先生だった。「小学生引率という重い責任を負いながら酒を飲むとは何事か」とPTAが騒いだ。急先鋒がPTA副会長の私の母だった。夕飯時に私が先生を必死に弁護したせいか、口を尖らせて非難していた母が振り上げた拳を下ろしてくれた。

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