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王貞治 東京大空襲の夜

1977年9月、ホームランの世界新記録756号を放った日、王貞治(82)は、後楽園球場で花の楯を両親に手渡した。グラウンドに降りて日本中の脚光を浴びた両親は、その32年前、東京大空襲の中で幼かった貞治たちを守って生き延びた。姉の鹿田幸江氏が語る。

王貞治 ©文藝春秋

 母の登美が弟の貞治(当時4歳)を背負い、私(同12歳)の手を引いて東京・向島の家を飛び出したのは、1945年(昭和20年)3月10日未明のことでした。空襲に来たB29は300機といいます。すでに周囲は火の海でしたが、父仕福は自分が始めた中華料理店「五十番」を守るため家に残りました。

756号セレモニーで両親と ©朝日新聞社、時事通信

 あの夜のことは今も忘れません。最初は北の荒川のほうへ逃げようと思ったのですが、焼夷弾でやられていたので南の旧中川へ向かいました。その日は北風が強く火の手が北から襲って来ました。それで川沿いに南へ南へと逃げたのです。

 貞治は、母の背中で眠っていましたが、その夜のことは記憶していると言っていました。

「きっと寝たり起きたりしていたんだろうね。家々が燃えていたものだから、それが雲か何かに反射して、空が真っ赤だったことだけははっきり覚えているよ」

 堤沿いの道を南へ逃げ、平井橋のたもとまで来たとき、母は虫の知らせか、私の手を強く引きました。

 私たちと同じ向島区に住んでいた作家の半藤一利さん(当時14歳)は、船に乗って中川を下ったと書いていました。そのとき岸辺には、幼い子を連れた女性たちがおおぜい歩いていたそうで、川に飛び込む人もいましたが、子どもがいる母親は飛び込めない。黒煙がかぶさると、次々と倒れて行ったのが見えたそうです。母もその光景を見て危ないと思ったのかもしれません。

 踵(きびす)を返した母は住宅街に入り、神社を見つけると境内に入って行きました。そして古い祠(ほこら)のそばで貞治を背中から下ろし、うずくまったのです。私は神社の名前まで確認できませんでしたが、そこから見えた「吾嬬製鋼所」という看板だけは瞼に残りました。後年古い地図を見たら私たちがいたのは白髭神社でした。空襲は朝まで続き、周囲の建物はすべて焼失しましたが、神社の一郭だけは火の手を免れました。大正時代にできた古い祠が私たちを守ってくれたのです。

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