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レッテルのぐらつき|藤原正彦「古風堂々」

文・藤原正彦(作家・数学者)

人間は思考を整理したい動物である。森羅万象が混沌としたままでは、脳が負担に耐えられないから、似通ったものを一まとめにして言語で表したり、思考の節約のため共通する属性にレッテルを貼ったりする。アインシュタインもフロイトもマルクスもユダヤ人だし、世界の人口の0.25%に過ぎないユダヤ人がノーベル賞やフィールズ賞の約4分の1を獲得している。こうなると「ユダヤ人は頭がよい」と言いたくなる。私も、アメリカの一流大学で数学科教官のほぼ3人に1人がユダヤ人なのを見て漠然とそう思っていた。ある時、ユダヤ人のガールフレンドE嬢の指導教官で、やはりユダヤ人の文化人類学者が来日した。チャンスとばかり「バカなユダヤ人に会ってみたい」と言ったら、彼は大笑いし、「ニューヨークに来てくれたらすぐに何百人でもバカなユダヤ人を連れて来て見せてやるよ」と言って再び大笑いした。

帝国陸海軍について、海軍は善玉、陸軍は悪玉というレッテルがしばしば貼られる。戦前日本の軍国主義化、日中戦争の拡大、太平洋戦争の開戦など、責任のほとんどは陸軍にあり、海軍はむしろ暴走の歯止め役だった、というのである。私も海軍を賛美した阿川弘之氏や陸軍をこき下ろした司馬遼太郎氏の著作などを通じ、そう信じていた。

母も幾度となく陸軍をけなした。「関東軍なんて大嘘つきだ。『満州の守りは引き受けた』と豪語していたのに、ソ連が満州に侵攻して来た時には、司令部は130万の在満日本人を置き去りにして南の朝鮮国境に逃げていたんだからね」。満州国の首都新京(現・長春)に住んでいた私達一家は、このため1年余りの苦難の引揚げを強いられた。新京脱出の際も関東軍将校の家族が最優先だった。侵攻は昭和20年8月9日零時に始まったが、早くも9日の午前には、軍は軍用トラックで将校の家族と家財を新京駅に運び、列車で避難させていた。満州気象台課長の父が軍からソ連侵攻を知らされたのは侵攻後丸一日近くたった9日深夜だった。直ちに着のみ着のまま、父母が私と妹を背負い、できる限りの荷物を両手に駅まで4キロ余りの道を歩いた。夜を駅構内で明かし避難列車に乗りこんだのは、10日午前だった。間もなく38度線が閉ざされたから、この1日の差で私達を含む多くの人達が北朝鮮で難民となり、多くの犠牲者を出した。母にとって軍部=陸軍=関東軍であり、怨みは骨髄に徹していた。不思議なことに海軍の悪口は一度も口にしなかった。それどころか、「叔父さんが海軍の純白の礼服で軍刀を持った写真は格好よかったなあ。毎日家族でそれを眺めては感嘆していたんだ」と繰り返し懐かしそうに話した。私の中でこのレッテルは確固たるものになった。

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