昭和天皇の独白 八時間 ―太平洋戦争の全貌を語る―【文藝春秋アーカイブス】
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昭和天皇の独白 八時間 ―太平洋戦争の全貌を語る―【文藝春秋アーカイブス】

2021年4月29日は昭和天皇の生誕120年にあたる。マッカーサーとの会談の通訳も務めた外交官、寺崎英成の遺品から発見されたこの「独白録」は、昭和21年3月から4月にかけて計5回、8時間にわたり5人の側近たちの質問に、昭和天皇が答えて語った驚くべき回想録だ。太平洋戦争の遠因として張作霖爆死から語り起こし、ポツダム宣言の受諾にいたるまで、あの戦争において天皇自らが見聞し、思ったことが率直に語られている。なかでも、当時の軍や政治の指導者たちへの人物評価が率直かつ印象的に語られていることが発表当時、大きな話題になった。

解説・半藤一利(発表当時の解説に加え、文庫版で増補した箇所があります)

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昭和天皇

第一巻

本篇は昭和廿一年
三月十八日(月) 午前十時十五分より午后〇時四十五分迄
〃 廿 日(水) 午后三時より五時十分迄
〃 廿二日(金) 午后二時廿分より三時丗分迄
四月 八日(月) 午后四時丗分より六時迄
更に夜に入りて八時より九時迄の二回
合計五回、前(ママ)后八時間余に亘り大東亜戦争の遠因、近因、経過及終戦の事情等に付、聖上陛下の御記憶を松平宮内大臣(慶民)木下侍従次長〔道雄〕(藤田侍従長は病気引籠中)松平宗秩寮総裁(康昌)稲田内記部長〔周一〕及寺崎御用掛の五人が承りたる処の記録である、陛下は何も「メモ」を持たせられなかつた
前三回は御風気の為御文庫御引籠中特に「ベッド」を御政務室に御持ちしなされ御仮床のまヽ御話し下され、最后の二回は葉山御用邸に御休養中特に五人が葉山に参内して承つたものである
記録の大体は稲田が作成し、不明瞭な点に付ては木下が折ある毎に伺ひ添削を加へたものである

昭和廿一年六月一日
本篇を書き上ぐ

近衛公日記及迫水久常の手記は本篇を読む上に必要なりと思ひ之を添付す

大東亜戦争の遠因

この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。

かヽる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業ではない。

〈注〉大正八年(一九一九)、第一次大戦が終ると、平和会議が招集されて、連合国二十八カ国がパリに集まった。日本全権は西園寺公望。このとき各国の人種差別的移民政策に苦しんできた日本は、有色人種の立場から二月十三日に“人種差別撤廃”案を提出した。しかし、さまざまな外交努力にもかかわらず、日本案は四月十一日に正式に否決された。日本の世論は、この報に一致して猛反対でわき上った。

さらに大正十三年(一九二四)五月、アメリカはいわゆる「排日移民法」を決定する。それは日本にとって「一つの軍事的挑戦」であり、「深い永続的怨恨を日本人の間に残した」ものとなった。日本の世論は憤激以外のなにものでもなくなった。「アメリカをやっつけろ」「宣戦を布告せよ」の努号と熱気に国じゅうがうまったといっていい。日本人の反米感情はこうして決定的となった。

張作霖爆死の件

(昭〔和〕四?年(ママ))〔正しくは昭和三年〕

この事件の主謀者は河本大作大佐である、田中〔義一〕総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云ふ事であつた。そして田中は牧野〔伸顕〕内大臣、西園寺〔公望〕元老、鈴木〔貫太郎〕侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考だと云つたそうである。

然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つた。

そこで田中は再ひ〔び〕私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。

こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云ひ方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことになつたと云ふのである。

田中内閣は右の様な事情で倒れたのであるが、田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣「ブロック」と云ふ言葉を作り出し、内閣の倒〔こ〕けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至つた。

かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とか云ふ、いやな言葉や、これを間〔真〕に受けて恨を含む一種の空気が、かもし出された事は、後々迄大きな災を残した。かの二・二六事件もこの影響を受けた点が尠くないのである。

この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した。

〈注〉大正十五年(一九二六)夏、蔣介石が国民革命軍総司令に就任、清国滅亡後乱れに乱れていた中国統一をめざして、北伐の軍を起こした。この波が満洲まで及んでくるのを恐れた日本陸軍は、大軍閥の頭領、張作霖を倒して、満洲の広野を日本の手で押さえてしまう計画を策した。これが昭和三年六月の「満洲某重大事件」として知られる張作霖爆死事件である。同じ年の十一月に即位の礼をあげた昭和天皇の時代は、謀略をもって始まったといえる。

これまでの記録、たとえば『岡田啓介回顧録』では、「『この前の言葉と矛盾するではないか』とおっしゃった。田中は、恐れ入って『そのことについては、いろいろ御説明申し上げます』と申し上げると、御立腹の陛下は『説明を聞く必要はない』と奥へおはいりになったそうだ」と間接的な言葉として伝えられていた。しかし、ここでは、昭和天皇が直接的に「辞表を出してはどうか」と強くいい、田中義一は恐れ入って総辞職した事実が明らかにされている。これが四年七月のこと、田中はその二カ月後の九月に急死した。

さらに、河本大佐が、軍法会議にかけられるなら「謀略を全部暴露する」と脅迫した恐るべき事実もはじめて明らかにされた。

イギリス式の立憲君主方式を理想とする西園寺に、「自分の意見を直接に表明すべきでない」と戒められた昭和天皇は、のちに「あの時は自分も若かったから……」(当時二十七歳)と鈴木侍従長に述懐したが、このこと以後、次第に政府や軍部の決定に「不可」をいわぬ「沈黙する天皇」を自らつくりあげていった。

例へば、かの「リットン」報告書〔昭和六年の満洲事変のさいの国連調査団による報告書〕の場合の如き、私は報告書をそのまヽ鵜呑みにして終ふ積りで、牧野、西園寺に相談した処、牧野は賛成したが、西園寺は閣議が、はねつけると決定した以上、之に反対するのは面白くないと云つたので、私は自分の意思を徹することを思ひ止つたやうな訳である。

田中に対しては、辞表を出さぬかといつたのは、「ベトー」を行つたのではなく、忠告をしたのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対し、意見は云ふが、「ベトー」は云はぬ事にした。

〈注〉満洲事変は日本の侵略である、と断定はしたが、日本の満洲における権益を認め、日中間での新しい条約を結ぶことを妥協的に勧告する――それがリットン報告書の骨子である。それを昭和天皇が「そのまヽ鵜呑みにして終ふ積り」であったとは、じつに興味深い発言である。なお「ベトー」とはvetoで、君主が大権をもって拒否または拒絶することをいう。

倫敦会議、帷幄上奏問題

(昭和四年(ママ))〔正しくは昭和五年〕

浜口〔雄幸〕内閣の或る日、加藤〔寛治〕軍令部長が、拝謁上奏を願出て来たが、鈴木侍従長と住山〔徳太郎〕侍従武官が相談して、宮中の御都合で、一日延ばせぬかと云つたら、加藤は承知した。そこで浜口が私に云つた迄の事で、別に帷幄〔いあく〕上奏阻止でも、大権干犯でも何んでもない。

当時海軍大臣の財部〔彪〕は、未だ倫敦〔ロンドン〕から帰朝して居なかつたが、加藤の上奏の内容は政府の意見と、略〔ほぼ〕一致したもので、至極穏健なものであつた。

加藤が辞表を出したのは、財部の帰朝后の事であるが、それは次の様な、経緯がある。当時軍令部次長の末次〔信正〕は、宮内省御用掛として私に軍事学の進講をしてくれてゐたが、進講の時、倫敦会議に対する軍令部の意見を述べた。これは軍縮に対する強硬な反対意見で加藤軍令部長の上奏内容とは異るものであつた。そして末次は後で加藤にこの事を話したと見え、加藤は軍令部の意見が図らずも天聴に達し云々の言葉を用いて辞表を直接私の処に持つてきた。末次のこの行為は、宮中、府中を混同する怪しからぬことであると同時に、加藤が海軍大臣の手を経ずに、辞表を出した事も間違つてゐる。私は辞表を財部に下げたら、財部は驚いて、辞表はどうか出さなかつた事にして頂き度いと云つた。

当時海軍省と軍令部と意見が相反してゐたので、財部としてはこの際断然軍令部長を更迭して終へばよかつたのを、ぐづぐづしてゐたから事が紛糾したのである。

〈注〉加藤軍令部長の上奏事件は昭和五年四月一日に起こった。この日の午後、浜口首相はロンドンへ送る条約妥結すべしの回訓案を、昭和天皇に上奏することになっていた。が、その日の午前、首相より先に断固反対を天皇に願い出ることを、加藤が悲壮な決意で申し出てきた。それを鈴木侍従長が海軍の先輩として諭して思いとどまらせた。加藤は納得してさがり、翌二日に、おだやかな意見に内容を改めて上奏することとなった。(これがのちに統帥権干犯騒動が起こった時、上奏阻止と非難され、上奏権干犯の暴挙と侍従長は攻撃された)

結局その時は何事もなくすみ、四月二十二日、ロンドン軍縮条約は締結されることとなった。が、その前日、軍令部は一通の通牒をだし、加藤・末次を先頭に、ロンドン条約に猛反対を表明、そこから海軍を海軍省系と軍令部系とに二分する統帥権干犯騒動がはじまった。財部海相の帰国は五月二十日。そして六月十日、加藤は政府を弾劾する上奏文を奏上し、直接に昭和天皇へ辞表を提出する。これが右の天皇発言の背景である。

なお、統帥権干犯という言葉は北一輝の造語といわれる。また、のちの二・二六事件の『蹶起〔けつき〕趣意書』に「元老、重臣、官僚、政党は此国体破壊の元凶なり、倫敦条約並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊〔天皇〕兵馬の大権の僭窃〔せんせつ〕を図りたる三月事件……」とあるには右の歴史的経過があったのである。

上海事件

(昭和七年)

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