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うらやましい死に方2023 読者投稿 選・構成=五木寛之

日本人の死生観が大転換を遂げていたことが分かりました/選・構成=五木寛之(作家)

(写真はイメージ) ©iStock

「死の日常化」

 今回、皆さんから寄せられた404通におよぶ投稿を一つ一つ読み、非常に印象的だったことがありました。それは亡くなる人が「俺は死にたくない!」と是が非でも生きることに執着したり、あるいは家族が悲しみに打ちひしがれて、泣きわめいたりする場面がほとんどなかったことです。無念の死を感じさせる投稿は見当たらず、もはや人々の間で死が日常化してしまっている、それが私の率直な感想です。

 この「うらやましい死に方」の企画は今回で3回目です。第1回は1999年に、第2回は2013年に行いましたが、いずれもその時代の相貌を色濃く反映していました。とくに第1回目は、人々が死を心から恐れていることがヒシヒシと伝わり、事故死や変死など、若い人が不慮の死を遂げる投稿もありました。

読者からの投稿 ©文藝春秋

 ところが今回は70代以上の高齢者が癌を患い、終末期医療を受けた末に死を迎える例が圧倒的に多かった。医師に「あなたの寿命はあと何年です」と告げられ、死期が迫ると病院に運ばれる。そして家族が見守る中で息を引き取るといった場面が、投稿の多くに共通していました。残された余命のなか、家族で最後の海外旅行に出かけたり、去り行く妻が夫に「あなたと一緒になれてよかった」と言い残したり、人間的情愛に溢れた心打たれる投稿も少なくありませんでした。「畳の上で死ぬ」という言葉の通り、平和的かつ安定的な死、ある意味では「うらやましい死に方」が増えていることは喜ばしいことかもしれません。

 今回も不慮の死を綴った投稿がなかったわけではありません。ある投稿者の父親は、燈台下の岩場についた牡蠣を獲ろうと海に飛び込み、そのまま夕日が沈む日本海の沖合まで流されてしまう。そして無残にも2日後、水死体で発見される。投稿者は痛ましい記憶を打ち明けながらも、「父は寿命が尽きたのであって、それまで楽しく生きるのが『うらやましい死に方』だ」と心の整理を付けています。ただ、このような思いがけぬ死を扱った投稿はごく僅かです。

 その他の多くの人が死を自分の身に起こり得る出来事として、あるいは日常の延長の死をごく自然に受け入れている。今回の投稿募集をした時点から予想はしていましたが、改めて考えると驚くべきことです。日本人の死生観が大転換を遂げていることを、現実のものとして明確に実感できました。私なりの表現をすれば、「死の日常化」と言える事態が起きているとも考えられる。私自身、今年で90歳になりましたが、この歳になると、次第に死への恐怖がなくなり、生と死の境界が曖昧になってきます。死の観念が希薄になってくるのです。ですから、皆さんの中で死が日常化し、自然と受け入れられる状況があるのも、やはりそうかと納得のいくものがありました。

五木寛之 ©文藝春秋

戦争の影がすっかり消えた

 この「死の日常化」は決して一時的な現象ではなく、今後、ますます定着していくのではないでしょうか。というのも、今年はコロナ禍やウクライナ戦争の勃発、そして安倍晋三元首相の銃撃事件などが立て続けに起きた年でしたが、いただいた御手紙を読んでも、それら異常な出来事に人々が怯える様子はあまりなく、死に対する意識に影を落としている気配も不思議と少なかったからです。コロナ禍で死を迎える親との面会制限を強いられ、苦悶する心情を綴った投稿はたくさんありました。ただ、病院と争ってまで、面会を強要する人は皆無だった。ルールに従い、仕方がないことだと割り切っている。つまり、それだけ死が受け入れるべき存在として、確実に日常化しているのだと思います。

 その理由はいくつか考えられますが、手紙を読んでいくと、まず気づくのは投稿者の中から戦争を生き抜いた世代が激減していることです。今年は戦後77年の年にあたりますが、現在80歳の人ですら、終戦時に3歳ですから、物心ついたときには戦争が終わっていたことになります。ましてや現在は、戦後生まれの団塊の世代が次々と亡くなり始めることが話題になる時代。戦中戦後の生きるか死ぬかという時代を生き抜いた人はもはやいなくなり、手紙の中から戦争の影がすっかり消えてしまうのは当たり前のことかもしれません。

 それに比べて、この企画の第1回目は今から23年前に行われたこともあって、投稿者の中には大正生まれの戦争体験者がまだ何割か残っていました。東京大空襲の記憶や、終戦直後の食糧難で芋を食べて飢えを凌ぐ悲惨な場面もあった。今回も僅かではありますが、戦争体験者を描いた手紙があって、例えば戦時中に鹿児島の基地で米軍機の機銃掃射を受け、バリバリと音を立てながら銃弾が身体の真横をかすめる、そんな九死に一生を得る体験をした父親の姿を回想する投稿者もおられました。

 戦争は生と死が劇的に転換する強烈な体験を人々の記憶に残します。戦時下を生き永らえた人たちの中で死の存在感はいやが上にも高まり、その分、生への執着が増し、死への考察も自ずと深まっていく。現代のように平和な時代に生まれ、平和な時代の中で生涯を終える人は、死への意識が希薄になるのは当然のことです。ただ、それは裏を返せば生の意識も希薄化していることの証でもあるので、今回の手紙を読んでいてやや寂しくもあり、私が懸念している点でもあります。

死んだら自分の霊魂はどうなるのか

「人々はもはや宗教を必要としていない」ということも、今回の投稿を読んでわかったことの1つです。原稿の中に「お寺」や「お坊さん」という言葉を目にする機会が少なく、過去2回に比べて宗教色がはっきりと薄らいでいるんですね。たしかに数珠を手にする場面や、戒名について書かれている投稿はありました。ただ、古い昔は亡くなる際に「枕経」と言って枕元でお坊さんにお経を唱えてもらったり、西向きに布団を敷き、見守る家族との間に衝立を置いたり、あるいは仏像の指から五色の糸を伸ばして死にゆく人の手に握らせるなど、もっと仰々しい儀式、いわゆる臨終行儀が行われた時代もあります。ところが今回はそうした描写はほとんどなかった。

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