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伊藤彰彦 「山口組の戦後史──日本最大の任侠組織を描いた映画」 仁義なきヤクザ映画史10

文・伊藤彰彦(映画史家)

★前回を読む。

「正義を貫くのが真のヤクザや」

 1973年8月11日。全国の東映系封切館で、日本最大のヤクザ組織の組長、田岡一雄の自叙伝を映画化した『山口組三代目』(山下耕作監督)が公開された(併映作は『夜の歌謡シリーズ なみだ恋』[斎藤武市監督])。当時小学生だった私は、通学路にあった劇場の看板の前を通るたび、見てはならないものを見た気がした。小学生でも知っている“山菱の代紋”とあの高倉健が並んでいたのだ。暴力団排除条例が施行された現在では考えられないこの大胆不敵な映画は、73年の時点でもマスコミに叩かれたが、この年の1月と4月に公開された『仁義なき戦い』『仁義なき戦い 広島死闘篇』(ともに深作欣二監督)を上回る観客動員を記録した。

 今回のテーマは、東映実録ヤクザ映画にとって欠かすことができない「山口組映画」である。『山口組三代目』の続編『三代目襲名』(74年、小沢茂弘監督)から、『山口組外伝 九州進攻作戦』(74年、山下耕作監督)、『実録外伝 大阪電撃作戦』(76年、中島貞夫監督)、『北陸代理戦争』(77年、深作欣二監督)といった“外伝”を経て、山口組映画の集大成『日本の首領(ドン)』三部作(77〜78年、中島貞夫監督)にいたる東映の「山口組映画」をもっとも多く書いた脚本家の高田宏治は当時、「ヤクザ」や「ヤクザ映画」をどのように考えていたのか――現在88歳の高田にあらためて聞いた。

 高田 尾崎士郎の『人生劇場 残侠篇』(1936年)で飛車角がこう言うんや。「私は人を斬るときには必ず斬られることを覚悟しています。闘争の結果が殺人になっても、制裁の刃が人を傷つけることがあっても、殺す必要のない相手を殺したことは一遍だってありません。刃の林の中で斬り死にをすることが、私の本望です」。これこそがヤクザの本質やとぼくは思う。誰もが自分の心に正義を持っている。けれど現実の社会では、我慢ならない、制裁されて当然という相手がいたとしても、法の力に頼るしかなく、法には逃げ道があるから泣き寝入りせんならんことがままある。飛車角が言うように、自分の法に従い、死を覚悟で正義を貫くのが真のヤクザや。

 そんなヤクザが人間本来の野性や怒りを刃にのせて闘う姿を見せ、日ごろ窮屈な法に縛られ鬱屈して映画館に来る観客に快哉を叫ばせ、刃の林の中で斬り死にする快感を体験させるのがヤクザ映画やねん。

 東映任侠映画は人殺しをした者が自らの美しい死を願う劇でもある。それが10年近く続いて、お客さんに飽きられた頃、任侠映画を全否定して、「任侠ものに出てくるヤクザなんているはずないやろ。そこらにゴロゴロおるヤクザを映画にせなおもろないで」とコペルニクス的転回を図ったのが『仁義なき戦い』から始まる実録ヤクザ映画やねん。そこらにいる利己的で打算的なヤクザを描いて何が面白いんや、わざわざお客さんに金を払わせ、劇場まで足を運んでもらうこともないやろ、と当初は思ったが、実録ヤクザ映画にも美味しい劇のネタはいっぱいあった。

条件は仮名ではなく実名で

 東映は極めて変わり身が早い映画会社である。実録ヤクザ映画が思わぬ大当たりを取ったことから、社長の岡田茂は、任侠映画の製作と鶴田浩二や高倉健の起用を即座に止める。戦前の神戸の名侠客、大野福次郎に可愛がられ、任侠映画の一時代を築いたプロデューサーの俊藤浩滋は『仁義なき戦い』の企画に名を連ねながら、任侠映画の衰退と岡田茂の決断には我慢ならなかった。そこで俊藤は『仁義なき戦い』を超える企画として、日本最大のヤクザ組織を作り上げた男、山口組三代目田岡一雄の自伝に白羽の矢を立てる。俊藤は三代目をこんなふうに捉えていた。

「当時、山口組三代目という親分に対しては、たとえていうなら、一般の人にとって一種のカリスマ的存在――普通の主婦でも、幻みたいな感覚で興味持っとったわけ。山口組の記事は、もうずっと週刊誌から何から毎日のように出るくらいやったですからね。三代目の映画をやれば、興行的には絶対成功すると思ってた。そこで僕は高倉健を連れて、三代目のところへ映画化のお願いに行ったわけです」(山平重樹『実録ヤクザ映画で学ぶ抗争史』2011年)

田岡一雄組長 ©朝日新聞社

大好物のフグの肝

 俊藤が言う「山口組の記事」を他社に先がけて掲載したのが徳間書店である。65年の「アサヒ芸能」の大特集「異色ルポ“戦後最大の実力者”田岡親分の入院」に続いて、67年にカルチャー・マガジン「月刊タウン」に、栗原裕、溝口敦を始めとする特別取材班が1年かけて関係者に取材を行なった「日本一山口組の政治と犯罪」を掲載。この記事に加筆した溝口敦の『血と抗争 山口組ドキュメント』(68年、三一書房)が山口組関連書籍の嚆矢となる。この本を参照し深作欣二が『血染の代紋』(70年)を撮ったことは前回すでに述べた。

 さらに「アサヒ芸能」は、70年5月に元読売新聞社会部の記者、飯干晃一を抜擢し「山口組三代目」の連載を開始。それをまとめた『山口組三代目 野望篇』(70年)、『同 怒濤篇』(71年)がベストセラーになったことから、東映が映画化しようと動くが、広域暴力団一掃の世論に押されて取り止める(72年5月に「週刊サンケイ」で連載が始まった「広島やくざ・流血20年の記録 仁義なき戦い」[飯干晃一著]を東映は映画化した)。そんな折、警察の内部資料に基づいて書かれた飯干の『山口組三代目』を田岡一雄は「事実誤認が多い」と気に入らず、それを聞いた徳間書店はさっそく田岡自身に自伝の執筆を持ちかけた。

 72年10月。「アサヒ芸能」で「山口組三代目 田岡一雄自伝」の連載が始まる。担当編集者だった松園光雄によれば、松園は足繁く神戸市灘区の田岡邸を訪問し、1日3時間、1週間ぶっ通しで田岡に喋ってもらい、それをテープに取った。田岡の記憶が曖昧な部分はフミ子夫人が補足し、さらに不明な点は田岡が若頭を次々に呼んで確認するという手順で聞き書きは進められた。

『徳間書店の30年 1954-1983』(84年)によれば、田岡は話が一段落すると、防弾ガラスのキャデラックに松園らを乗せ、三宮まで田岡の大好物のフグ料理を食べに行った。「肝は3切れ以上食べるとしびれる」と言いながら、田岡は夫人の目を盗んでは5切れ、6切れと食べたという。

 73年、俊藤浩滋と高倉健を前にし、田岡一雄は自伝の映画化を承諾する。ただし1つだけ、「自分も家内も幹部も全部、仮名ではなく実名で出してくれ」と条件を付けた。同じ頃、岡田茂も田岡の長男の田岡満(芸能事務所経営者)を通じて三代目の映画化を打診しており、俊藤と岡田は、互いのわだかまりを解き、共同で『山口組三代目』の製作に当たった。

 岡田茂はまた、徳間書店社長徳間康快に呼びかけ、「アサヒ芸能」に連載中だった「田岡一雄自伝」と映画『山口組三代目』を連動させた。折りしも、74年に大阪ローオンレコード(浪曲・河内音頭・歌謡曲のインディーズ・レーベル)が“侠客もの”が十八番(おはこ)の初代京山幸枝若による浪花節LP『田岡一雄自伝 山口組三代目』を発売した。「一雄少年期」「二代目山口登との出会い」の二席からなる約一時間のLPを聴いてみると、社会の最底辺から生まれ、下層の人々によって担われた浪花節が、その持てる力で最下層から這い上がった田岡一雄の半生を謳いあげた名盤である。

俊藤浩滋の細心の注意

 映画『山口組三代目』は「実録ヤクザ映画」と銘打たれているが、印象は京山幸枝若の浪花節に近い、古典的な任侠映画である。高倉健が情誼に厚い理想的なヤクザを演じ、任侠映画の主軸を担った監督山下耕作が高倉健の立ち回りを美しく様式的に撮った。俊藤浩滋は、田岡や山口組を少しでも悪く描けば、田岡の周囲からかならず文句(いちゃもん)が付くことを想定し、細心の注意を払ったのだ。

高倉健 ©文藝春秋

 山口組関係者から広澤虎造まですべて実名で登場するというセンセーショナリズムと、山口組におもねったと思われても仕方がないほど三代目を立派なヤクザとして描く内容の“塩梅”のほどに、名プロデューサー俊藤浩滋の優れたバランス感覚の反映が見られるが、そこにまたこの映画の限界がある。

 映画『山口組三代目』は、赤貧の少年時代を送った田岡一雄(高倉健)が、“クマ”と呼ばれた喧嘩の強いクスボリ(チンピラ)から、1930年代に神戸港の下層労働者になり、沖仲士の供給業者にまでのし上がった山口組二代目の山口登(丹波哲郎)に拾われ、労働者の派遣業と浪曲の興行を生業(なりわい)とする一家の三下(さんした)として厳しい修業に耐える。そして登を襲撃しようとした大長八郎(菅原文太)を斬殺し、服役する場面で映画は幕を閉じる――。

田岡一雄のシビアな感想

 村尾昭の脚本はこのように35歳までの田岡を過不足なく描くが、脚本には山口組が神戸の下層社会から生まれた理由や、山口組と底辺労働者の関係が描かれていない。山口組の結成(1915年)の3年後に起こった米騒動では、山口組が民衆とともに決起し大きな役割を担い、昭和初期の労働争議では組合潰しには回ることなく、末端労働者の側に身を置き労使の仲介役を果たしたと猪野健治は『山口組概論――最強組織はなぜ成立したのか』(08年)で書いている。

 田岡一雄は映画についてシビアな鑑賞眼の持ち主で、娘の由伎とともに町の映画館で『山口組三代目』を観た際、こう感想を漏らしたという。「きれいすぎるなぁ。事実を、いくら事実どおりに描いても、きれいすぎると信じがたくなるかもしれんなぁ」「ヤクザがきれいに、人間的に描いてあると、あれは作り話やと、思われるのやろうなァ」(田岡由伎『お父さんの石けん箱』91年)。

 しかし、『山口組三代目』は『仁義なき戦い』を超える大ヒットとなり、東映は以降、「山口組映画」を陸続と作り続ける。高田宏治は『山口組外伝 九州進攻作戦』で初めて異形のヤクザ映画路線に参入した。

 この映画は倫理的な『山口組三代目』とは対極の、一匹狼の九州ヤクザ、夜桜銀次(菅原文太)の底冷えがするような虚無と衝動的な暴力を描いた実録ヤクザ映画である。『九州進攻作戦』はヒットしたものの、九州の石井組(山口組系)に挨拶に行ったプロデューサーの日下部五朗が、「夜桜銀次いうたら、うちの組じゃ三下以下じゃ! あいつを何で映画にするんや」とおどされ2日間軟禁されるなど、モデルとなったヤクザへの取材や挨拶が不可欠な実録ヤクザ映画の難しさを身をもって思い知らされることになった。

 高田は『九州進攻作戦』に続いて、『仁義なき戦い 完結篇』(74年、深作欣二監督)を任され、5部作の中で最も当たったものの、笠原和夫が書いた前4作との比較の上で批評家から酷評され、高田の笠原への敵愾心が燃え盛ったことはすでに記した。そんな折、高田は俊藤浩滋から『山口組三代目』の続篇『三代目襲名』の脚本を依頼される。高田はさっそくプロデューサーの日下部五朗とともに山口組幹部の取材に赴く。

 高田 最初に会ったのは、ボンノさん(菅谷政雄の綽名)やった。ボンノさんは画家の藤田嗣治に似た、物静かな人やけど、開口一番こう言うた。「極道はかたぎの倍、気が短いんや。だけどそれだけやない、かたぎの倍以上のかなしみと喜びを抱えてるのが極道や。ヤクザを書くときにはそのこと忘れんとき」とぼくの目を見据え、ヤクザ映画を書くときの心構えを諄々(じゅんじゅん)と説いたんや。

『三代目襲名』で高田宏治は、前作が切り捨てた、田岡一雄(高倉健)と国家権力や民衆との関係を描く。前作のラストで殺人を犯し、懲役刑を受けた田岡は公民権を剥奪されたために徴兵を免れ、お国のために役立てないことが歯がゆい。敗戦後、神戸市民をいたぶる戦勝窮民に対し田岡が命懸けで闘うのはその贖罪のあらわれである。

 高田は、田岡の戦勝窮民への憎しみが彼の民族差別に根差したものではないことを、田岡が服役中に、「こいつらは豚じゃ!」と虐待される朝鮮人(遠藤太津朗)を「朝鮮人だって同じ人間じゃ」と助ける描写で証立(あかしだ)てる。しかし、映画のラスト、戦勝窮民に捕らえられた田岡の絶体絶命のピンチを、突如姿をあらわした菅谷政雄(安藤昇)が救うという展開はいかにも唐突すぎる。

 劇中で菅谷は「朝鮮人連盟の顧問」を務め、彼らとともに「国際ギャング団」を結成したことが語られるものの、なぜ菅谷が戦勝窮民の朝鮮人、中国人たちに信頼を置かれ、いかに彼らを束ねることができたのかがこの映画では描かれていない。

 しかし、74年の夏休みに公開された『三代目襲名』(併映は『直撃!地獄拳』[石井輝男監督])は『山口組三代目』に続く大ヒットとなり、ただちに東映は、75年の正月映画としてシリーズ第3作『山口組三代目 激突篇』の製作を発表する。しかし、その直後に警察が動き始めた。前2作品のプロデューサーである三代目の長男、田岡満を通じ巨額の裏金が東映から山口組に流れているのではないかと疑った警視庁は、74年11月、商品券取締法違反容疑で東映本社と俊藤プロデューサーの自宅を家宅捜索する。

菊の代紋には負けへん

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