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磯田道史 わが徳川家康論

次期大河の主人公に学ぶ危機のリーダーの要諦。/文・磯田道史(国際日本文化研究センター教授)

家康は戦国大名が苦痛だったのでは

2023年のNHK大河ドラマは『どうする家康』。主人公は徳川家康です。戦国の世を終わらせ、長い平和をもたらした家康の人間味には、私も日本史の研究者として興味があり、4年ほど、彼の旧領であった浜松に移住してみて、その生涯の細部を調べたほどです。

これまでにも多くの小説家、歴史家が家康の生涯を描いていますが、そうした従来の家康像、ことに若き日の家康の描き方には、あるパターンが見られます。それは「天下人」になった偉人・家康の萌芽を少年期、青年期に見出す、というものです。ゴールから逆算する人物論です。

たとえば今川義元に人質に取られていた少年時代、今川の屋敷で新年の儀が行われていた際、10歳の家康が少しも臆せず、さっと庭先に立って、立小便をした。それを見た周りの人々が「さすがは三河を席巻した松平清康の孫だ」とその胆力に驚嘆した、といった逸話を紹介して、家康の非凡さを強調するような話です。

しかし、その実像はどうだったのでしょうか。膨大な史料を読むにつれ、私には、家康という人は、ひょっとすると戦国大名をやらされたその運命自体が苦痛だったのでは、とさえ思えるのです。ましてや、はじめから天下取りの意欲を持っていたとは思えません。

なぜか。それは、家康が生まれた三河という地が、地政学的に非常に過酷な環境にあったからです。いつ滅びてもおかしくないくらい危うい状況に置かれた小国に、家康は生まれました。天下取りどころか、家の再興、存続を考えるだけで頭がいっぱいだったことでしょう。

そうした生育環境で、家康が考えたこと、学んだことは何だったのか。そして、その経験は「天下人」となるうえで、どのような影響を与えたのか。それを知るためにも、「若き日の家康」にきちんと光をあててみたい。そう考えて、いま、家康の前半生を描く仕事に取り組んでいます。

ここではまず、松平(徳川)家の歴史をたどり、武将家康を歴史に登場させた時代状況と環境を検討したいと思います。

2)大河の主人公となる家康

過酷な環境に生まれた家康

「日本の陸の潮目」だった三河

三河という地を地政学的に見た場合、最大の特徴は、周囲を3つの強国に取り囲まれていたことです。東の駿河には今川氏がいて、西の尾張には織田氏がいる。両勢力に挟まれた上に、北の信濃には甲斐から進出した武田氏がのしかかってくるのです。

両側に強敵がいるだけでも厳しいのに、三方をいずれも強敵に囲まれた小国には、3つくらいしか選択肢がありません。一番可能性が高いのは、そのまま滅ぼされることです。次に、なんとか家や領地は存続するのですが、いずれかの強国に飲み込まれ、いわば属国的な扱いを受ける。そして第三に、ごくごくまれなケースとして、強敵と繰り返し戦っているうちに「共進化」を起こし、化け物のように強くなってしまうことです。家康の時代、三河に起きたのは、この第三のケースでした。

三河の場合、もうひとつ大きな要素は、「日本の陸の潮目」に位置していたことです。

もともと日本列島は地質学的にいっても、2つの島から出来上がっています。その継ぎ目であり、裂け目が、本州の中央にあるフォッサマグナで、その西縁は糸魚川静岡構造線とよばれます。これが実は政治文化のうえでも、東西の境目になってきました。日本史上、このフォッサマグナのあたり、駿河、遠江、三河、尾張のエリアを境に、大きな衝突が起こり、文化的にも社会的にも東と西が分かれる傾向があった点は重要です。

それは邪馬台国の時代にさかのぼります。『魏書』や『後漢書』の東夷伝には、女王・卑弥呼の邪馬台国と、卑弥弓呼(ひみここ)と呼ばれる男王の狗奴国が「相攻撃」していたと記されています。これは文字で歴史に記録された日本列島最初の大規模戦争だと考えられますが、狗奴国の中心は巨大な初期古墳の立地から、駿河の国、いまの沼津付近とする説も有力です。

西の邪馬台国は巫女王的な女性をリーダーとする、儀礼や文字などを重んじ、腕力よりも脳内の観念に訴える「儀礼と権威」を原理とした支配を行っていました。これに対し、東の狗奴国のほうは、武を司る男性王が支配し、縦型の命令系統にしたがうような「力と服従」を原理とした国家が想定されます。東の王墓と考えられる沼津の高尾山古墳からは多量の武器が出土しています。

この境目の感覚は、その後も引き継がれ、初の東国政権を開いた源頼朝も、墨俣川、いまの長良川を境として、そこから東を自分たちの縄張りだと考えていました。例えば、平家を打倒した後、義経をはじめ、頼朝の許可なく朝廷の官位を受けてしまった御家人がいましたが、これに対し、頼朝は、墨俣川より東に入ったら領地を取り上げた上に斬首する、と申し渡しています。

三河を軸とするエリアは古来より、日本列島の「陸の潮目」にあたるホットスポットだったのです。

では、そのような土地で、徳川松平一族とは、どんな存在だったのでしょうか。

家康に続く徳川松平家の祖とされているのが、松平親氏です。この親氏は、もとは徳阿弥(徳翁)といって、諸国を渡り歩く時宗の僧侶でした。それが三河の松平郷に入り込み、その一族が三河で根を下ろし、繁茂していったのが松平家です。三河は「陸の潮目」の係争地です。その不安定さが、よそ者の参入と展開を許しました。

しかし、この「境目の地」はけして安住を許す環境ではありませんでした。大雑把に言えば、愛知県の中央を流れる矢作川をはさんで西側が織田氏の尾張、東側が今川氏の駿河の勢力圏です。厄介なことに、松平家の勢力範囲は、矢作川の両岸にまたがっていました。西側の拠点が安城、東側の拠点が岡崎です。松平家の歴史をみると、安城(安祥)城を本拠としている間は、まだ安泰でした。しかし、そこに織田の勢力が押し寄せてくると、矢作川を渡って、岡崎城に移るほかありません。すると川の西側に取り残された家臣たちの中には、織田側と手を結ぶものも出てくる。

松平家は、家康の祖父にあたる清康の代で、大きく勢力を伸ばしました。1511年生まれの清康はもともとの拠点だった安城、岡崎のみならず、三河一国を平定したばかりか、西は尾張の守山まで勢力圏に収めたのです。ところが、そこに悲劇は待っていました。1535年、清康は守山で家臣によって殺害されます。このとき清康は25歳でした。跡を継いだ広忠はわずか10歳。家臣のなかでも織田寄りの姿勢をとる一派が現れ、広忠は岡崎城からも追放されてしまいました。

そんな広忠が頼ったのは今川義元でした。今川は織田への対抗もあり、軍勢を送って、放浪を余儀なくされた広忠を駿河から岡崎城に運び入れます。こうして広忠は、今川義元とは、対等の領主同士ではなく、主従に近い関係を結ばざるを得なかったのです。

人質時代の実態は“留学”だった

岡崎城に戻った広忠は、矢作川の西に取り残された親類や家臣を再び味方につけなくては、川沿いにある岡崎の安全は保てません。

広忠には、安城よりもさらに西、三河国西部の刈谷に、水野忠政というおじさんがいました。そこからお大という娘を妻に迎えます。イトコ婚でした。翌年、お大が1542年12月26日に男の子を生みます。幼名は竹千代。のちに今川義元の一字をもらって、松平元信(のち元康)となります。家康を名乗るのは、今川から独立したのちのことですが、ここでは家康で通します。

家康にとっての最初の試練は、生みの母との生き別れでした。ここにも三河の勢力争いが色濃く反映しています。家康誕生の翌年、家康にとっては祖父にあたる水野忠政が亡くなり、その跡を継いだ信元は、広忠を見捨てて、織田方に寝返ったのです。その結果、お大は離縁され、刈谷に帰されていきました。

さらに織田方からの攻勢は強まり、安城城も落とされ、求心力が低下して、広忠には岡崎城ただ一城しか残っていない状況になりました。織田方に、付城とよばれる監視砦を矢作川沿いにたくさん建てられ、身動きがとれなくなってしまったのです。広忠が頼るのは、今川しかありません。しかし、それには代償が必要です。この時代の習いとして、広忠は嫡男を今川に預けることになります。1547年、数えで6歳の家康は、駿河の今川義元のもとに人質に出されることになったのです。

この家康の人質時代は、これまで臥薪嘗胆、苦難の物語として描かれることが多かったと思います。しかし私は、そうは思いません。家康にとって、この人質の話はむしろ幸運だったといえます。

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