「サトウのごはん」をパックご飯の王者にした男の“3倍返しの捲土重来”
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「サトウのごはん」をパックご飯の王者にした男の“3倍返しの捲土重来”

社運を賭けて勝負し続けた雪国の「半沢直樹」。/文・樽谷哲也(ノンフィクション作家)

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▶佐藤功は、並みの職人でも商人でもない。ものづくりには誠実だが、向こうっ気が強く、土性っ骨のある山師のような経営者だ
▶1年保存してもカビが生えないレトルト殺菌切り餅の開発に漕ぎ着け、1974年のCMをきっかけに一気に躍進する
▶「サトウのごはん」は、手軽に電子レンジで食品を加熱して食べるという生活習慣の変化を先取りした商品だった

パックご飯の王者「サトウのごはん」

2月半ばの昼下がり、新潟駅からタクシーに乗る。アスファルトの路肩のところどころに、積まれた雪がまだ子どもの背丈ほどの高さで残っている。10分ほどで、市内のサトウ食品の本社に着く。まだ定刻には早いからと、敷地の外から社屋を眺めたり、カメラに収めたりしていた。

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サトウ食品本社

黒塗りの高級車トヨタ・センチュリーが近づいてくる。ウインカーを点滅させ、敷地に入ろうとする瞬間、車内の左後部座席に座る人物と目が合った。本社の玄関前に停まったセンチュリーのドアが開き、横たわった大地からゆっくりと身を起こすチーターのように、長身痩躯の老紳士がやや猫背気味に現れた。すっくと立った人物は、軽く会釈し、どうぞ、というように、声を発することなく右の掌で招じた。どことなく剣呑な雰囲気を漂わせている。

佐藤功。1月に83歳になった。

業界では包装米飯と称されるパックご飯の王者「サトウのごはん」、そして「サトウの切り餅」の製造技術を一代で確立し、全国に知らしめた立志伝中の人物である。技術一徹の職人肌か、腰の低い商人のような人物像を想像していた。だが、およそ違うのではないかと、会話なき第一印象で思わせた。

相談役会長室に通され、時世ゆえ、透明なアクリル板越しに向き合って会話を始めてすぐ、この冬の雪はすごかったようですね、と訊ねるや、佐藤は顔をひどくしかめた。

「ひどいなんてもんじゃなかったです。例年、50センチも積もれば市内は多いほうです。前の冬はシャベルがいらないくらい雪が少なかった。ところが、この冬は倍返しどころか3倍返しですわ。もう、ほんっとうにたいへんで……」

日本海に面して南北に長く伸びる新潟県は豪雪地帯として知られるが、中心部の市内は、2つの大きな山地からなる佐渡島が防壁のような役割をなすため、比較的、大雪の被害に遭うことが少ないのだと、佐藤は絶句しつつ説明した。

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佐藤氏(新潟市宝町にある本社玄関にて)

炊きたてご飯と焼きサンマ

父と母を手伝いながら今日のサトウ食品をつくりあげてきた歩みを聞いているうちに、佐藤自身が銀行の支店長や地元の強面の財界人と渡り合い、平身低頭でピンチを凌いだり、逆に床に手をついて詫びられたりと、人気ドラマ「半沢直樹」シリーズを地で行くように、倍返しを見舞われたり、3倍返しで捲土重来を図ったりと、鉄火場で鎬(しのぎ)を削るがごとく生き抜いてきたとわかってきた。

「1日に100万儲かった」

「消費者の顔が見えたら、一気に勝負をかけます」

「喧嘩になった挙句、うちは何度もライバル会社から潰しにかかられた」

並みの職人でも商人でもない。ものづくりには誠実だが、向こうっ気が強く、土性っ骨のある山師のような経営者であると伝わってきた。掠れがちでハスキーな声は、剥き出しのカッターナイフを思わせた。

明治生まれの父の勘作は、戦争で負傷し、たびたび肺結核を病むなど、不運つづきであったが、独立心が強く、闇米のブローカーや北海道での海運業、イカ釣り漁船の操業など、いくつもの事業を手がけては、成功を収められずにいた。市内に構えた自宅の半分を工場に改装し、戦後まもない1950年、佐藤勘作商店として白玉粉の製造を始めたのが現在のサトウ食品の発祥といっていい。糯米(もちごめ)を搗(つ)く石臼を半自動で回す仕組みを考案するなど、探求心では人後に落ちなかった。母のトクも夫を支えて午前3時から働いていた。暮らし向きは決して豊かでなく、長男である功は、小学5年生のころから家の仕事を手伝った。

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佐藤勧作の銅像

「親父は寝込むことも多く、おふくろがリヤカーで臼や白玉粉を運ぶんです。女には重いでしょう。だから私がリヤカーを引いて、おふくろが後ろから押す。学校から帰ると、毎日、そうでした。勉強なんかしたことない。する暇もなかった」

そして、「でもね」とつづける。

「算盤だけは得意だった。儲ける勘定は誰にも負けんかった。大きな投資は全部、独断でやってきました」

市立山の下中学校に進むと、さらに幼い妹を含む家族の朝食の支度と自らの弁当づくりが早朝の日課に加わる。竈(かまど)に薪や木の枝をくべて釜で米を炊き上げる暮らしを、当時の家庭はみな営んでいた。パックご飯で他社の追随を許さぬ商品を誕生させた佐藤功の原風景を挙げるなら、このころのことになるのではないか。

「ご飯を炊くには松葉がいちばんです。風が吹くと、ああ、松葉が落ちるな、と思って、南京袋を持って松林に拾いに行って集める。最高なんです。マッチ一本で松の葉の油がさーっと燃える。熾火(おきび)の加減でいいお焦げもできるし、しっかり蒸し上げればご飯が立って美味くなります」

新鮮で安価な魚が手に入る町であった。少年時代の佐藤功がもっぱら好んで飽きなかったのが焼きサンマである。これをほかほかに炊いた白飯に添えて昼食の弁当とした。

「学校で隣の席のやつが『功、おまえ、きょうでサンマは連続13日目だな』なんてからかうんです。『え? 数えてたんか』と訊き返しました。自分が好きで入れていただけです」

めがね越しの目は穏やかである。

「私は、サンマ弁当が2週間でも3週間でも飽きなかった」

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創業当時の社屋

三度、あの世に行きかけた

中学校を卒業すると、製造よりも営業の仕事を覚えたらどうか、という父の勧めで、1953年、東京に丁稚奉公で働きに出る。中野の鍋屋横丁を経て、上野のアメヤ横丁、通称アメ横にある白玉粉や雑穀を扱う問屋に入る。早朝から深夜まで、オートバイやオート三輪で東京中を走り回り、品質の見極め方や取引の習慣、手形の扱いなど、商いのあらゆる知識を貪欲に吸収していった。

働き始めた時代を振り返り、「私は三度、死にかけた」という。

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