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保阪正康『日本の地下水脈』|共産主義者と「攘夷の水脈」

ソ連から流れ込んだマルクス主義に知識人層は感電する。ところが——。/文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)

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保阪氏

左翼の源流

大正7(1918)年に設立された結社「老壮会」には、国家主義者からアナーキストまで、あらゆる思想家たちが集い、活発な議論がおこなわれた。老壮会の活動はわずか4年ばかりであったが、日本の地下水脈の合流点となり、そこからまた新たな思想が分流していった。

前回までは、老壮会に集まった国家主義者たちのその後を追い、彼らの思想が昭和初期に軍部やテロリストに利用されてゆく過程を検証してきた。

今回からは、左派、社会主義者側の動きを追ってみたい。

連載第7回(1月号『「老壮会」という水脈合流点』)で詳述したが、老壮会が登場するまで、今日的な意味での右翼・左翼という思想の色分けは存在しなかった。明治政府が進めた富国強兵政策により、社会にさまざまなゆがみが生じ、その犠牲になる国民各層の姿が顕在化してきた。そうした社会矛盾を是正しようと、現体制に異議を唱える思想家たちが表面化してきたわけだが、これらは単純に右と左に分類できるものではない。

今日的な意味での左翼に最も近い結社としては、明治31(1898)年、安部磯雄、片山潜、幸徳秋水らが中心となって発足した「社会主義研究会」が、その源流と言えるだろう。この経緯は、すでに連載第5回(2020年11月号『反体制運動の源流』)で見たが、概要だけ触れておきたい。

当時はロシア革命(1917年)の前であり、この頃の社会主義者は、マルクス主義ではなくキリスト教的な人道主義や、英国の社会改革者ロバート・オウエンが提唱する空想社会主義の流れを汲んでいた。今日的な意味での社会主義というより、むしろ「社会正義」の実現を追求する思想と解釈したほうが、実態により近いかもしれない。事実、創立メンバーのうち幸徳以外はキリスト教徒であった。

社会主義研究会を母体として、政治結社「社会民主党」が明治34年5月18日に結党された。創立メンバーは安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、木下尚江、河上清、西川光二郎の6名だった。だが結党から2日後、警察権力に解散を命じられる。創設メンバーらはその1カ月後に綱領を変更して「社会平民党」を結成するが、これも即解散を命じられてしまう。

その後、日露戦争への方針を巡って日刊紙「萬朝報」を退社した幸徳秋水と堺利彦らが中心となり、「平民社」を設立。平民新聞を発行し、社会主義、反戦運動の拠点となった。しかしながら、政府の弾圧を受けて明治38年に廃刊となってしまう。

さらにその後、弾圧はエスカレートし、明治43年の大逆事件を受けて、社会主義者は根絶やしにされる状態になった。ここで日本の社会主義は表舞台からは姿を消し、いったん地下水脈化したのである。

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自由民権運動の水脈のゆくえ

ここで考えたいのは、明治10年代、薩長主導の藩閥政府への反対をきっかけに高揚した自由民権運動の水脈である。幸徳と堺の思想は、自由民権運動の流れも汲んでいた。では、自由民権運動の水脈は、どのように受け継がれてきたのだろうか。時系列がいったん逆戻りするが、明治14(1881)年に土佐藩出身の板垣退助を党首として自由党が結成された頃に戻りたい。

自由党の党是は、「自由を拡充し権利を保全し幸福を増進し社会の改良を図る」ことであった。これはのちの社会民主主義にもつながる理念だ。

しかし自由民権運動は迷走した。明治15年、板垣は遊説先の岐阜県で暴漢に切りつけられた。その後、板垣は運動を放り出し、同年末から翌明治16年にかけて、同じく土佐藩出身で党の幹部である後藤象二郎とともに欧州外遊に向かった。これは政府の意向を受けた三井財閥が資金を提供したもので、自由党員の一部は板垣の変節に強く反発した。こうした中で、反政府的な騒擾事件が相次ぐ。福島事件や秩父事件などがそうだ。自由党は運動の統制力を失い、明治17年に解党した。

一方、明治4年に土佐に生まれた幸徳は、自由民権の息吹を浴びて育った。「自由新聞」を少年時代から愛読し、16歳で上京して中江兆民に師事した。

明治3年に豊前に生まれた堺もまた、少年期から「朝野新聞」や「福岡日日新聞」を愛読し、自由民権運動の影響を受けた。堺自身、「予の社会主義は、その根底においてはやはり自由民権説であり、やはり儒教であると思う」(『予は如何にして社会主義者となりし乎』)と回顧している。

帝国議会が開設された明治23年、自由民権運動は息を吹き返す。大井憲太郎や中江兆民らが中心となり、旧自由党の流れを汲む4派が大同団結して立憲自由党が結成されたのだ。結成翌年に自由党に改称し、衆議院議員の定数300のうち、130を占める最大勢力となる。時の第1次山縣有朋内閣は「超然主義」、つまり政党の意向にかかわりなく政策を遂行する意向を宣言した。自由党は同じ民党(民権派の流れを汲む野党)である立憲改進党とともに、「民力休養・政費節減」をスローガンとして藩閥政府と対立していく。

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山縣有朋

幸徳秋水の「自由党を祭る文」

その後、明治27~28年の日清戦争により政府と政党の関係は大きく変化した。戦時下で「挙国一致」が進んだ。戦後も自由党は第2次伊藤博文内閣と連携し、党首の板垣は内務大臣として入閣した。

明治31年には自由党と進歩党(立憲改進党の後身)が連携し、憲政党を結成した。さらに同年、同党を与党として大隈重信を首相、板垣を内務大臣とする「隈板内閣」が成立した。日本で最初の政党内閣だ。しかし自由党系と進歩党系の対立が収まらず、4カ月で瓦解した。

後継は第2次山縣有朋内閣である。藩閥政府の盟主とも言うべき山縣は明治32年に文官任用令を改め、政党員が官吏になる道を制限した。さらには「軍部大臣現役武官制」を布いた。陸軍大臣、海軍大臣には現役の軍人しか就任できないという規定である。いずれも、政党の力を抑えるための施策であった。

しかし議会が開設された意義は大きく、政府も政党と協力しなければ政治が立ち行かないことを痛感せざるを得なかった。政党側も、政府と連携して党勢を伸ばす道を模索していた。憲政党は伊藤博文との連携を深めた。そして明治33年8月25日、伊藤を党首とする立憲政友会が結成された。

立憲政友会の結成は、明治初期以来の自由民権運動支持者たちに大きな衝撃を与えた。例えば幸徳が同年8月30日の「萬朝報」に寄せた「自由党を祭る文」をみよう。

「歳は庚子に在り8月某夜、金風淅瀝(せきれき)として露白く天高きの時、一星忽焉(こつえん)(注・たちまちの意)として墜ちて声あり、嗚呼自由党死す矣、而して其光栄ある歴史は全く抹殺されぬ」

幸徳は冒頭、政友会の結党を「自由党の死」と断じた。さらに自由党の苦難と栄光をこう振り返る。

「汝自由党の起るや、政府の圧抑は益(ますま)す甚しく迫害は愈(いよい)よ急也。言論は箝制(かんせい)せられたり、集会は禁止せられたり、請願は防止せられたり、而して捕縛、而して放逐、而して牢獄、而して絞頸台。而も汝の鼎钁(ていかく)を見る飴の如く、幾万の財産を蕩尽(とうじん)して悔いざる也、幾百の生命を損傷して悔いざる也、豈(あに)是れ汝が一片の理想信仰の牢として千古渝(かわ)る可(べか)らざる者ありしが為にあらずや。而して今安(いず)くに在る哉(や)」

自由党は政府から弾圧を受けた。言論は封殺され、集会も禁じられた。それでも党員は命がけで変わらぬ理想を追求した。財産をなげうって自由民権のために闘った。逮捕され、追放され、投獄された。

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幸徳秋水

自由民権の志は死んだのか?

幸徳本人も弾圧された時のことをこう振り返る。

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