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新連載 記者は天国に行けない 清武英利

組織や権力のくびきに無縁で矜持を忘れない記録者の顔。/文・清武英利(ノンフィクション作家)

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1945年8月30日、連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが日本に進駐してきたとき、日本のメディアを代表して神奈川県の厚木基地で取材した記者が4人いた。読売新聞の羽中田はなかだ誠はその一人である。

羽中田は火中に引き寄せられる蛾に似て、危うい社会部記者だった。社内では「酔いどれ」の異名を取った。当番の日になると、デスク席でチビチビやりながら原稿に手を入れるのを喜びの一つにしている。足下に置いたヤカンから冷や酒を少しずつ湯呑に注ぎ入れ、渇きをいやすのだ。

310万人の日本人が死んで、満州事変以来、14年に及ぶ昭和の戦争が終結した。それから数年後のことである。

敗戦直後の記者たちは痛飲したと言われている。敗戦の晩からじゃぶじゃぶと飲みだした、と高木健夫は書き残した。読売の看板コラム「編集手帳」を17年間も書いた論説委員である。慢性の胃潰瘍で酒を控えていたのに、解放感と自棄感から、やたらむしょうに酒が飲みたくなった、と『新聞記者一代』にはある。

だが、羽中田はそれから3、4年過ぎても、酔いどれていた。

戦後の社会部には夜も昼もなく、陰惨で奇怪、不条理な事件が飛び込んでくる。餓死者が続出し、浮浪者や戦争孤児が警察による「狩り込み」に遭い、買い出し女性たちが連続して犯され、12代目片岡仁左衛門一家が殺害され、闇米を拒否した裁判官が餓死した。1948年には、戦後史の謎と言われる大量毒殺の帝銀事件、さらに次の年には下山、三鷹、松川事件が立て続けに起きる。

その喧騒と塵埃に包まれて、羽中田はデスクにうずくまり、密やかに喉を鳴らしていた。締め切り時間が近づくにつれ、むしろ表情はさわやかに、機嫌よく青インキの筆も進むので、禁じる者はまずいなかった。

①厚木飛行場のマッカーサー

厚木飛行場に到着したマッカーサー

唯一の譴責使が1949年に社会部長に就く原四郎で、時折、酒の香を嗅ぎ付け、声を上げる。

「ナカ! また飲んでるな!」

それでも叱責は、それ以上のものではない。

原は羽中田より1つ年上で、やがて副社長に就いた。社会部長としても、新宿「惡の華」粛清キャンペーンやマグロ漁船「第五福竜丸」が水爆実験の死の灰を浴びたスクープなどを放って、「読売社会部帝国」と呼ばれる時代を築いた実力者である。原が社会部長に昇った時期に、羽中田は不惑を迎えて社会部次長に就いていた。

羽中田は原の罵声を浴びても、にやっと笑って飲み続ける。原はプイとどこかへ立って行った。羽中田の笑いの奥にあるものに出会ったからである。

デスクにいない夜は、社屋のあった東京・銀座や有楽町の裏町にいた。

首都の町は焼け野原に細い柱を立て、ベニヤ板を打ち付けたバラックから起き上がりつつあった。数寄屋橋の下を流れる皇居外堀脇や銀座の裏通りには、屋台より少しマシな飲み屋が雑然とひしめき合って、右に左にくねる迷路を作っている。

羽中田は、「でんちゅう」か「おばこ」か「おりん」か「薩摩や」か、そのあたりの飲み屋を一回りすれば、赤みを帯びた丸顔を見つけることができた。

「でんちゅう」は、小屋掛けの柱に木製の電柱を使ったので、その名が付いている。新聞記者のたまり場で、後年の読売新聞では検察・裁判担当記者がよく通っていた。

私は羽中田よりも3回り以上も年下で、読売の入社年次では35年も離れている。社会部では検察庁舎とは道を隔てた警視庁詰めの出身だった。

いわゆる検察記者とは文化を異にしていたのだが、私も時々、「でんちゅう」で隣の客に肘をぶつけながらグラスを傾けていた。

もしそこに羽中田がいれば、メガネの奥の細い目を糸のようにして、「とりあえず一杯やれよ」とすすめてくれただろう。彼は誰がやってきても飲ませたのだ。

若い人には愚かしく映るだろうが、記者が戻るところは締め切り間際の新聞社だった。インクの匂いのする新聞ゲラを読むために会社に上がるのだ。

金があればその後、朝まで飲み明かしてべろべろふらふら、羽中田ら4人が泥酔して会社の玄関に整列し、出勤する社員たちに、

「ご苦労様です」

と一人一人に挨拶したこともある。

金がなければ深夜の自動車部に行って車を出させる。「送り」と呼ばれる夜勤者送迎用の乗り合いだ。

帰るのさえも面倒なときは、車庫の車に持ち込んだ毛布にくるまって、エビのように丸まって寝た。会社の宿直室は一部屋に数十のベッドが並んでいる。そのなかの一単位になり果てることは、箱に詰めたハゼの佃煮のようだから嫌なのだ。

送りで帰るときも、自宅の300メートル前の「駒六」という居酒屋の前で停めさせる。「もう一杯飲もう」と降りるのはいつものことだ。街が白々として少しずつ眠りからさめるころ、酩酊した羽中田を後輩が抱きかかえて自宅の夫人に引き渡す。それもよくある光景だった。

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羽中田誠

——と、ここまで書いて、私は黄ばんだ本や資料類を机の端に押しやった。

眼の前には、『酔いどれ記者』(鱒書房)や『鉄鯨魂』(太平洋書舘)、『墓碑銘——あるアナーキストの死』(東邦出版社)など羽中田の著書と、朝日新聞の名物記者・入江徳郎の『泣虫記者』シリーズ、同じ戦後の時代を生きた記者たちの刑事物、それにゾッキ本や戦記物など古書が小山を作っている。

そのうちの一冊を取り、とじ糸がゆるんでバラバラになりそうなページを繰りながら、飲んだくれの姿を思った。

——なぜ彼は浴びるほどに飲んだのだろうか。戦争が終わって、再出発していたのではなかったか。

そもそも私は報道者の顔について書こうとしていたのだ。新聞社やメディア企業ではなく、記者個人。いわゆる言論人ではなく、新聞人やテレビ、雑誌記者に限ったわけでもない。肩書はなんでもいい、ネット記者でもフリーでも、とにかく組織や権力のくびきに無縁で、矜持を忘れない記録者の顔だ。

ところが、思案しているうちに、戦中と戦後をまたいで生きた羽中田のことが頭から離れなくなった。一度も会ったことがないのに、ひどく懐かしい。

たぶん、彼は戦後の記者の源流だからだ。そして私の支局時代の光景とも重なっている。

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私は1975年4月に読売新聞に入社し、東京・大手町の本社で約1か月間の退屈な記者研修を終えて、青森支局に配属された。米軍がベトナム戦争で敗北し、クアラルンプールで米国大使館やスウェーデン大使館が日本赤軍に占拠された年である。

この年は「読売社会部帝国」の落日を告げる社内政変があり、のちに「ドン」と呼ばれる渡邉恒雄が、編集局次長兼政治部長の要職に昇進している。渡邉は私たちの記者研修で講義し、

「俺が講演すると大変なカネが入るんだ。君らに話しても一文にもならん」

と言い放ち、新人記者の度肝を抜いた。なんだ、こんな高圧的な記者にはならないぞ、と私は思った。

作家の山口瞳は、社会部の記者がスターであり英雄である時代があったという一文を、本田靖春の『不当逮捕』に寄せている。だが、最後の社会部スターだった本田も、私が入社する4年前に読売を去っており、酔いどれたちの姿も本社から消えつつあった。

ただ、私が赴任したのは、本社の管理の目が届かない本州最果ての地である。先輩たちは実によく酒を飲み、取り憑かれたように酒場に通う者がいた。

支局のデスクは締め切り前に顔を真っ赤にしていた。机の端に置いた白く小さな湯呑に酒を入れ、それをなめながら、若い記者の原稿に直しを入れていた。湯呑が空になったり、面倒な原稿に出会ったりするとペンを置き、ふいと席を立って台所へと向かう。そこで酒を注ぎ足し、天井を睨んだりして、またデスクに戻る。日中は時々手がブルブルと震えるような人だったが、湯呑を手にするとピタリと止まった。そして、

「どちらの言い分が正しいか、筆に迷ったら、まあ弱い方につくんだな」

と言ったりした。その傍のソファでは、原稿を書き終えた先輩記者たちが花札や軍人将棋に興じている。

羽中田たちが愛した無頼の空気は、支局でかすかに息をしているのだった。

同僚は嬌声の響くクラブに通ってアパートの家賃が払えなくなり、家主から逃げ回っていた。家主は業を煮やして、ついに「いいかげんにしてくれ!」と支局長室に怒鳴り込んできた。作家の開高健の説では、酒を飲むと人のスピリットが引き出されるらしいが、同僚は仕事をきちんとこなす真面目な記者だったので、なぜ家賃を何か月分も溜めるほどに通うのか、私には理解できなかった。

青森県版の締め切り時間が近づくと、支局の前には先輩記者の夫人が車で迎えに来た。先輩は俳優の杉良太郎に似た男前で、遊び人を自称していた。仕事も口も達者だが、見えにくいものを内に抱え、深夜になると繁華街のどこかに消えていくのである。

「それで奥さんが逃がさないように捕まえにきているんだ」

私たちは噂をし、帰路に就く先輩の姿を2階の窓から眺めていた。支局には一か所しか出口がないから、夫人運転の車に乗り込むしかなく、それで家庭へと向かって行く。

「先輩、脱出しそこねたね」

「うん、引き立てられた」

私たちは無責任な会話の後で、裏の居酒屋に足を運んだ。だが、自分のことはめったに話さなかった。

先輩記者たちは、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大学から社会へ燎原の火のように広がった時代に学生生活を送っている。共産党系の日本民主青年同盟や反代々木系党派、あるいはノンセクト系のデモに加わり、機動隊に石や火炎瓶を投げた者も多かったはずだ。政治や自分に何の疑問も抱かずにメディアの門をくぐることなど考えられない、造反の時代である。その全共闘運動が見事なまでに崩壊し、血みどろのベトナム戦争も終結して、それぞれに喪失感や苛立ちを抱いて、社会に押し出されていた。

私は団塊の世代より遅れた世代で、学生運動からも逃げ遅れ、1年留年して新聞社に潜り込んでいた。仲間たちは労働運動に身を投じたり、大阪・釜ヶ崎の寄せ場に姿を消したり、自己批判の後、郷里の札幌に戻って蕎麦屋に弟子入りしたり、蜘蛛の子のように散りながら、生きる道を探している。少し飾った書き方をお許しいただければ、私もまた仲間や議論から遠ざかって、この先の道標となる人や出来事を求めて彷徨していた。

羽中田たちの酔いどれ伝説を知ったのはそのころだ。大きな石油ストーブが燃える深夜の支局や昏い酒場の隅で、先輩や出張してきた本社の記者に面白おかしく聞かされたのだった。その本社組には大変な酒豪がいて、夜の町で、

〽見よ東海の空明けて
旭日高く輝けば

と、「愛国行進曲」をいつ果てるともなく放吟し、飲み歩いたあげく腰を抜かすのはまだ可愛い方で、担ぎ込んだホテルの寝床で脱糞した大先輩もいた。私はその惨状の後始末をしたが、あまりの恥ずかしさに誰にも言えなかった。

羽中田は酔いどれの元祖だが、酒乱ではない。当時は、出向した報知新聞で文化部長や編集局総務を務めあげて退職し、文筆業に入っていた。私は彼の本を探して、少しずつ読んだ。

彼は社会部次長時代の1953年に、特ダネあさりのぐうたら記者を描いた『酔いどれ記者』を、娯楽よみうり編集部長時代の57年には、『足——新聞は足でつくる』(朋文社)を出版して、事件記者のいじましい特ダネ競争を軽妙に綴っていた。原四郎はその『足』の冒頭にこんな文章を書いている。

〈社会部デスクといえば、社会面作りの実行者、いわば新聞作りの大将である。部長などというものは天皇制のようなもので、ただ上御一人に奉るだけ実際は大将が何もかもやっている。その「何もかも」が、時々刻々に激しく変転する事象に対応してのことである。そこには不断に、神経と肉体と、そして責任の酷使と強制がつきまとっている。この三つのどれかに、或いはそのどれもにひっかかって、「デスク」は4、5年たたぬ間に次々と消えてゆくのである。しかるに羽中田誠という記者は10年以上もこの「デスク」を勤めて決して消えようとはしなかった。まことに不思議な男というほかはない。

しかも、この十幾年は、日本国民がはじめて経験したあの敗戦以来の歴史的な変動期であった。したがって、この変動期の新聞作りの大将であった〉

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私が驚いたのは、彼の経歴が錯綜し、細いロープの上を歩くような危ないものであったことだ。

羽中田は3歳で父親を失い、母親とともに東京・市ヶ谷から山梨県に移り住んでいる。ここで少年期を過ごし、法政大学経済学部に入学したものの、2年後に中退して山梨に戻る。そして1930年の奥野田争議など農民運動に参加した。

奥野田争議は山梨県東山梨郡奥野田村(現・甲州市)で起きた小作争議である。発端は、凶作を理由に農民側が小作料の引き下げを申し立てたところ、地主が土地を取り上げるために法廷戦に持ち込んだことにある。『山梨農民運動史』(竹川義徳著・大和屋書店)などによると、小作人たちは全農県連合会に応援を求め、

「骨が舎利になっても土地は放さない」

と抵抗した。地主側が取り上げた土地に粟の蒔き付けを強行したため、農民たちは鍬や鎌を持って殺到し、17人が検挙された。全農側は近隣から約300人の全農系闘士を集め、赤旗や組合旗を立てて示威行動を展開したという。

羽中田もその列に加わって駆け回ったのだろう。21歳である。

そこから流転の人生は加速する。

31年に山梨日日新聞社に入社し、翌年に読売新聞社甲府支局に転じ、妻を迎えると、またも上京して東京の聯合映画社、旭日映画社と職場を変えた。奥野田争議から10年後の40年には、読売新聞映画部に転職し、翌々年には社会部に移っている。

さっそく海軍報道班員として、南太平洋の潜水艦基地に従軍を命じられる。それが1年半続いた。

彼が乗船した伊号第11潜水艦は、オーストラリア沿海の海上交通破壊戦に参加し、5隻の艦船を沈めている。そのたびに敵駆逐艦の執拗な爆雷攻撃に耐え、漆黒の波間に浮上しては蘇生する。喘ぎながらまた潜る。頭上の敵を破滅させようという潜水艦の苦闘を、羽中田は新聞や著書『鉄鯨魂』で生々しく報じた。

「鉄鯨」とは日本潜水艦のことだが、連合軍によって127隻が沈められ、残ったのは52隻に過ぎない。現実は「鉄の棺桶」だったのである。伊11も最後には南太平洋で消息を絶っている。

だが、羽中田は無傷で棺桶から戻ってきた。

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終戦間際、彼の姿は千葉県佐倉市に疎開していた弁護士正木ひろしの自宅にあった。正木は冤罪事件の刑事弁護を引き受け、無辜の人々の救済に生涯を捧げた抵抗人である。

48歳の彼を一躍有名にしたのは、1944年1月の「首なし事件」であった。それは正木が警察官による拷問死を立証する過程で起こしたもので、羽中田はその真相を取材しているうちに、正木と親しくなったのだった。

事件の被害者は、茨城県那珂郡長倉村(現・常陸大宮市)にあった長倉炭鉱の鉱夫頭である。賭博の取り調べ中に脳溢血で倒れたとされていた。医師の診断や水戸検事局の結論も病死だ。ところが、石炭採掘場の人々は、

「花かるたに興じた仲間が、前日にも取り調べを受け、警官に棒や素手で殴られて失神したり、厳冬の中に裸で放置されたりした」

「死んだ男は頑健で脳溢血の血統でもなかった。警官に撲り殺されたのではないか」

と言う。当時は警官や憲兵たちによる拷問が公然と行われており、警察や検事局は全く相手にしてくれない。調査依頼を受けた正木は憤然とし、深夜、埋葬された寺に忍び込んで、死体を墓から掘り返した。

それどころか、首をノコギリとメスでちょん切ってバケツに入れ、満員の列車で東京に持ち帰って鑑定に出した。乗り合わせた乗客は風呂敷に包んだバケツから腐臭がするのに気付き、鼻をふさいでいたという。他殺の証拠を捨て身で押さえたのだ。もちろん違法である。

それをもとに当局鑑定のウソを暴き、拷問致死や証拠隠滅容疑で告発したのだが、正式な鑑定人が死体を掘り出したときには、首がついていなかったから誰もが仰天した。検察当局は激怒して墳墓発掘罪や死体損壊罪で起訴する構えを見せる。だが、正木は1937年に3000部で創刊していた個人雑誌『近きより』にいきさつを詳細に暴露し、逆に警察や検察、医師の非道を訴えた。

そして、事件から10か月後、水戸地裁が拷問を加えた警官に無罪を言い渡すと、正木は裁判長を「卑怯者!」と面罵した。あきらめない男なのである。

正木が拷問死を立証し、最高裁で警官を有罪に追い込んだのは、実に11年後のことである。

③正木ひろし

正木ひろし

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私は高校生のころに、朝日新聞論説委員の扇谷正造が編纂した『私をささえた一言』(青春出版社)を読み、正木の存在を知った。これは著名人100人を支える言葉を集めた新書だが、その中に、

〈今日にいたるまで、自己の良心を売らずに何やかやと、生計を営なみ、権力悪と闘ってこられた〉

という正木の一文があった。

——なんと格好のいい言葉だろう。

私はほれぼれとした。

首なし事件の後も、正木は三鷹事件や静岡県の丸正事件、山口県の八海事件、大分県の菅生事件など、全国各地の冤罪や再審事件を十数件も手掛け、日本で最も有名な弁護士になっていた。

「私の闘いは、法律にひっかけて人を苦しめたりする悪魔との闘いだ」

と語り、こんな言葉も残している。

〈しかし、「わたくし」は降服しません
私は亡者ではありません
敢然として悪魔と闘い続けます
人間と生まれ
人間として生きないで
どこに生活があるでしょうか〉

坊主頭でギョロリとした目に縁の太い眼鏡をかけ、写真の中の正木はいつも微笑を浮かべている。合理主義者だがクリスチャンでもあり、天皇の名によって、無数の青少年が戦場にかり出され、天皇の謝罪がなかったと非難した。その彼を支えているのは、英国の社会主義運動家、エドワード・カーペンターの「愛の報酬を求めるな」という言葉だという。

一人の人間の中にプリズムのように輝く多面の人格が同居している。ひどく引き込まれた。

6

けれども、私の父は正木や冤罪の話題になると、顔を歪めた。

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