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「日比谷、便利屋、帝国ホテル」 門井慶喜「この東京のかたち」#14

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※本連載は第14回です。最初から読む方はこちら。

 大正12年(1923)9月1日、ぴったり正午から、日比谷の帝国ホテル大宴会場では或るパーティがおこなわれる予定だった。

 ホテル自身の、新館落成記念パーティである。新館はアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトが設計した独創的なデザインのもので(以下「ライト館」と呼ぶ)、料理の準備もすすみ、招待客もあつまって……その開会2分前の午前11時58分、あの関東大震災が来たのである。

 マグニチュード7.9。死者・行方不明者計約14万。まわりに立っていた煉瓦造、コンクリート造のビルディングはほとんど瓦礫となったけれども、このライト館はびくともせず、地震がひとまず落ちついたあとは家をなくした被災者を受け入れたり、社屋をうしなった新聞社のためにロビーを開放したりと、八面六臂の活躍をした。

 パーティの客にも、おそらく死者は出なかったのではないか。設計者ライトはすでにアメリカに帰国していたが、ライトの弟子である建築家・遠藤新(あらた)(東京帝国大学建築学科出身)は、

 ――帝国ホテルは試練に耐え、太陽のように輝いています。おめでとう、ライト先生。

 と手紙を送ったという。

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1923年に完成した当時のライト館

 まがりなりにも大惨事の直後に「おめでとう」は不適切なような気もするが、遠藤はつまり、それだけ感激したわけだ。このようにしてライト館は世にあらわれた瞬間から伝説上の存在となり、その後はふつうのホテルにもどり、さまざまな宿泊客をもてなしたのである。

 チャップリンも泊まった。ロシアの声楽家シャリアピンも泊まった。あの読売新聞社主催の日米野球のときにはベーブ・ルースも泊まったし、日本人では、たとえば重光葵が泊まっている。重光は日本の敗戦直後、政府代表として東京湾に停泊中のアメリカ戦艦ミズーリ号へおもむいて降伏文書に調印したが、その調印の朝はここから出発したのである。

 まさしく無数の人々の無数の思い。そのライト館が、老朽化のため、

 ――とりこわし。

 と決まり、業務を終えたのは、開業から44年後、昭和42年(1967)11月15日、ぴったり正午。

 こんどは2分前に地震はなかった。かわりに建ったのは地上17階、地下3階の無個性な外観のビルディングだったから、ずいぶん嘆いた人も多かったことは、こんにち、いろいろな資料に見ることができる。みんなライト館が好きだったのだ。なおこの退役物件は、一部が愛知県犬山市の博物館明治村へ移築され、公開されて特に人の目を引いている。

 私も以前、見に行ったけれど、煉瓦の赤と大(おお)谷(や)石(いし)の白のあざやかな色のとりあわせ、水平線の強調、それにもかかわらず天へ抜けるような開放感、

 ――いっぺん、泊まりたかった。

 あるいはミニチュアでもいいから、

 ――家に、置きたい。

 などと思わされる姿かたちだった。しかしまあ、それだけに、現役時代はかえって落ちつかない宿泊客もいたかもしれないが。

 とにかくこんなふうに個性の極から無個性の極へ、このホテルの建物は、まるで電圧計の針のように振れきってしまった。やっぱり空間効率、経営効率というものを無視し得なかったのにちがいないが、そうなると原因の半分くらいは、ホテルというより、それが立地しているところの、

 ――日比谷。

 という街自体にあるといえる。なぜなら日比谷は皇居前に位置しているし、徳川時代には大名屋敷がたちならんでいた。格式の点でも、人の往来の多さの点でも、まぎれもなく東京の一等地なのである。

 一等地だから、その土地利用の歴史もじつにきらびやかである。たとえば鹿鳴館。この明治16年(1883)に完成した、御雇外国人ジョサイア・コンドルの設計による本格的な洋風建築は、要するに日本一個性的だった。外観もそうだが館内設備はそれ以上で、ダンスホールがありダイニングがあるのは当然のこと。奏楽室もあるし、玉突場もあるし、喫煙室もあるし、ことに婦人化粧室は美麗をきわめたという。

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 だがその寿命は、たった4年足らずだった。西洋式のパーティ外交をおしすすめた外務卿・井上馨の失脚という政局のあおりを受けたわけだから建物自体には罪はないのだが、しかしその後、第十五銀行へ払い下げられ、華族会館となってしまっては、とうとう往年のかがやきを取り戻すことはできなかった。

 幽霊屋敷になったわけではない。華族有志の食事会がおこなわれたり、名流婦人による慈善バザーが開催されたりと利用状況はまずまずだったが、そのぶんだけ、何というか、一種の高級公民館になったきらいがある。それは個性をうしなった。そのため歴史の表舞台に出ることはなくなったのだ。

 さらには、国会議事堂も。

 じつは日比谷は、国会発祥の地なのである。明治22年(1889)――鹿鳴館の払い下げとおなじ年――2月11日、大日本帝国憲法が発布され、その定めにもとづいて翌年に第一回帝国議会がひらかれたのは、現在の住居表示でいうと霞ヶ関一丁目のあたりというが、当時は内幸町二丁目だった。日比谷文化圏である。

 議事堂は、木造の仮のものだった。完成は召集の前日だった。この議会は明治天皇の親臨をあおいだことでも知られるが、ということは、天皇は、ほんの数日前まで突貫工事の現場だったところへ来たことになる。まことに開化期の疎(そ)陋(ろう)である。この場合の個性は建物というよりは、建物の性格のほうに存在するとすべきだろう。 

 しかしその個性的な仮議事堂も、三たび火災で焼けたあげく、4度目にようやく鉄骨鉄筋コンクリート造、花崗岩張り、地上3階(一部4階)のりっぱな本建築がつくられたときには、その本建築の住所は麹町区永田町だった。

 すなわち現在の国会議事堂である。こちらはどう見ても日比谷圏内ではないから、日比谷はすなわち国会を、永田町に、

 ――取られた。

 という恰好になる。さんざん下積み時代をささえたのに。何度も建てなおされたのに。

 こうしてみると、日比谷というのは、どうやらずいぶん損な役まわりの土地らしいように思われる。ライト館、鹿鳴館、国会議事堂……個性あるものが根づかない。

 もっと辛辣な言いかたをすれば、日比谷は個性の腰かけでしかない。それはいずれ消え去るか、よそに奪われるかの運命なのだ。どうしてこんな割に合わないことになるのか。それはたぶん、立地の中途半端さが一因だった。

 先ほどは「一等地」と言ったけれど、そう、一等地として中途半端なのだ。何しろ日比谷という土地は、歴史的格式の点では皇居前(江戸城前)でありながら城の正門たる大手門から少し離れているし、オフィス街としては近くに丸の内がある。

 商業地としては近くに銀座がある。それらのほうが目立つのだ。実際には丸の内も銀座も、その近代的発展は日比谷よりも遅れて出発したのに、日比谷はいわば、追い抜かれてしまった。

 そのくせ日比谷自身もかなり人出が多いから、何というか、日比谷はちょっとずつ皇居前であり、丸の内であり、銀座であることを要請される。一種の便利屋であることを求められるのだ。

「日比谷、便利屋」ではキャッチコピーにもならないけれども、日比谷の街のほうもまた、それに対して生まじめな正社員のように応えるうち、器用貧乏になってしまった。まったく損な役まわり。私たちがいま日比谷の街を歩くとき、ふと感じる無色透明な空気の肌ざわり、何でもあるのに何もない感じは、これに由来するのだった。

 私たちが通例、

 ――銀座へ行く。

 とか、

 ――渋谷へ行く。

 などと言っても「日比谷へ行く」とはあまり言わない原因も、このあたりにあるのではないか。私たちの目的はあくまでも街ではない、個々の建物や施設なのだ。

 そのかわり、その建物や施設のなかへ一歩足をふみいれれば、そこはしばしば、打って変わって個性的である。

 帝国劇場もそうだし、第一生命館もそう。日比谷公園もそうかもしれない。そうしてそんな内向的な個性の代表は、ここでもたぶん帝国ホテルだった。

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 あの無機質な高層ビルディングのなか。メインロビーの正面に大階段を置き、吹き抜けの2階へぐるりと木製の回廊を浮かべるその伝統的な設計もさることながら、何よりスタッフの立居振舞ときたら。

 あの柔らかな緊迫とでも言いたいほどの雰囲気は、これもまた、一朝一夕にできるものではない。伝統のもたらすところだろう。ライト館はとりこわしの憂き目に遭ったけれど、そのなかの何かは現在も日比谷名物でありつづけている。

 おみやげに持ちかえることのできない名物。ほんとうの意味での無形文化財。

(連載第14回)
★第15回を読む。

門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
新刊に、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、はじまる』。
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