見出し画像

イギリスは、電気の時代への転換に遅れた/野口悠紀雄

★前回の記事はこちら

※本連載は第33回です。最初から読む方はこちら。

 19世紀にガス灯から電気を用いるアーク灯への転換が進みましたが、イギリスは米独に比べて顕著に立ち後れました。

 その後、白熱灯への転換、発送電技術の確立、動力への利用など、電気技術の進歩で産業社会が大きく変わりますが、イギリスはこの過程で米独にリープフロッグされたのです。

◆ガス灯の時代

 産業革命を実現し、太陽が沈まぬ帝国を実現したイギリス。

 しかし、19世紀になると、立ち後れが生じるようになります。

 それがとくに顕著に見られたのが、電気でした。

 電気は、最初は動力よりは照明のために用いられました。

 18世紀にヨーロッパの都市で照明に使われていたのは、ガス灯です。フランス革命が始まった頃の1792年に、スコットランド人の技師、ウィリアム・マードックが最初に製作しました。

 1797年には、イギリスのマンチェスターでガス灯が設置されています。

 19世紀初頭には、ガス灯がロンドンやパリなどの街路を照らすようになりました。1870年代のヨーロッパでは、個人住宅や商業施設でもガス灯が使われるようになりました。

 それまでは夜に作業をすることが困難だったのですが、ガス灯によって夜間作業が可能となり、作業効率が格段に上昇しました。ガス灯が産業革命に果たした影響は大変大きかったのです。

 1812年にロンドンで世界最初のガス会社が設立され、その後、欧米各地でガス会社が設立されました。

 日本では、1872年(明治5年)に横浜市に市街地で最初のガス灯が造られ、74年には銀座にもガス灯が建設されました。

◆アーク灯がガス灯にとって代わる

 1799年、イタリアの物理学者アレッサンドロ・ボルタが、銅、亜鉛、食塩水を用いる電池を発明しました。これによって安定して電流を供給できるようになったため、電気の研究が飛躍的に進みました。

 そして、アーク灯という照明技術を出発点として、1880年頃から、電気関係の産業が飛躍的に発展していくのです。

 アーク灯は、2本の炭素電極の間に輝く弓状(アーク)の放電で光を発生するもので、1802年、イギリスのハンフリー・デービーによって作られました。デービーは、1808年に、ボルタ電池2000個を接続して点灯する実験を公開しました。

 アーク灯は、ガス灯より明るく強い光を放ちます。しかも、ガス灯は爆発の危険もあり、大量の酸素を必要としたため、室内で用いると人々がめまいや頭痛を起こすこともありました。

 このため、アーク灯がガス灯にとって代わることになります。

 とりわけアメリカにおけるアーク灯の普及は目覚ましく、1885年頃までにアーク灯がガス灯をほぼ代替しました。

 なお日本では、1882年(明治15年)に東京・銀座に市街地で日本初のアーク灯が灯されました。

◆イギリスはアーク灯に転換できなかった

 ところがイギリスでは、1880年代末に至るまで、アーク灯はほとんど普及しなかったのです。

「アーク灯はロンドンより南洋諸国の方が普及している 」と言われたほどでした。

 こうなってしまったのは、イギリスでは都市ガスのシステムが高度に発達していたため、ガス利用のコストが低く、それまでのガス灯をアーク灯に取り替えるとコストが高くなってしまうからです。

 それに対して、ヨーロッパ大陸諸国やアメリカでは、ガスのコストが高く、ガス灯がそれほど普及していなかったために、新しい技術であるアーク灯への転換に障害がなかったのです。

 つまり、イギリスは、ガス灯という古い技術に社会が固定化されてしまったために、新しい技術であるアーク灯に転換できなかったことになります。

 以下に述べるように、電気の利用対象は、アーク灯から白熱灯に進歩し、動力にも用いられることになって、産業社会の構造を大きく変えていくことになります。

「GPT」(General-purpose technology:汎用技術)という考えがあります。これは、広範な用途に用いられる技術であり、経済全体に影響を与える可能性のある技術です。電気はその典型例です。

 汎用技術は、現存する経済や社会の構造への影響を通じて、社会を劇的に変化させる可能性を秘めています。

 イギリスは、ガスというGPTで社会を形成し、そのために、電気というGPTへの転換が遅れたということができます。

◆白熱電灯と交流発電の時代に

 アーク灯にも電極の寿命が短いなどの弱点がありました。そのため、多くの人々が白熱電球の発明に取りかかっていました。

 トーマス・エジソンは1881年にパリで催された万国電気博覧会で、炭化された竹をフィラメントに使った白熱電球を発表し、大きな成果をあげました。

 白熱電灯はアーク灯より遥かに優れたものであったため、1880年代初頭から、アーク灯に代わって普及していきます。

 1889年、パリで開催された万国博覧会で1万灯の彩色電球がイルミネーションに使われ、多くの観客の視線を集めました。

 19世紀前半までのアーク灯は電池を電源としていたのですが、白熱電球の出現は、発電から送電を経て、数多くの電球に電力を供給するシステムの確立を要求しました。

 1866年、ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンスによって画期的な発電機が製作され、1878年にはエジソンによって改良されました。

 1882年、エジソンによって建設された発電所が操業を開始し、6000個から7000個の電球を点灯することが可能になりました。

 ただし、エジソンのシステムは直流であったため、送電損失が大きいという弱点がありました。末端にいくほど電圧降下が大きくなるため、電球は暗くなってしまうのです。

 1880年代後半、ジョージ・ウェスティングハウスは二コラ・テスラが開発した交流電動機の権利を取得し、直流送電を中心としたシステムの構築を進めていたエジソンと敵対しながら、交流発電・送電システムの確立に寄与しました。

 このころから、産業において電力産業が中心的な位置を占めるようになってきます。

 1880年代後半には変圧器が発明され、高圧送電が可能になりました。

 これによって、動力源がない地域でも、発電所から送電される電力によって工場を操業することが可能となりました。

◆蒸気機関車から電車に

 電気の利用は最初は照明が中心でしたが、発送電のシステムが整備されたことによって、動力としての利用もなされるようになっていきます。

 1863年に開業したロンドンの地下鉄は、蒸気機関車によって運転されていました。

 機関車の燃料には、すすの少ないコークスが用いられ、トンネルの各所に煙出しの穴が設けられましたが、トンネルの中は煙だらけとなり、信号機が見えなくなる時もあるほどで、駅や乗客はすすだらけになったといいます。

 煙や蒸気を出さない電気機関車は、どうしても必要なものだったのです。

 ところが、最初の電車は、ロンドンではなく、ベルリンに登場しました。1879年のベルリン博覧会において、ジーメンス・ウント・ハルスケ社が電力によって車を動かすことを試みたのです。

 そして、1883年には、ベルリンとリヒターフェルデ間で、路面電車の世界で初の定期運行が始まりました。

 イギリスやアメリカでも電気鉄道が開業します。そして、この後の10年間で、電車は欧米の大都市に急速に広がっていったのです。

 ロンドンの地下鉄の電化も進みました。1890年には、ロンドンの地下鉄に円形断面のトンネル(チューブ)が登場し、電車が走り始めました。
 しかし、電化された後も蒸気機関車はしばらく残り、郊外の支線などで運行されていました。

◆イギリスは米独に「リープフロッグ」された

 以上で見たように、白熱電灯、発電システム、電車などの技術革新は、イギリスではなく、ドイツやアメリカで起きています。

 電気機械工業の発達も、イギリスはアメリカ・ ドイツに比較してかなり遅れ、国際競争力は脆弱だったのです。

 当時の重要な電気製品のひとつであった電球について、イギリスは一貫して輸入に依存していました。 発電機や 電動機などにおいても、大部分がドイツ・ アメリカからの輸入品でした。

 また、1890年代後半以降に設立された電機会社の巨大企業は、 アメリカ系の会社が多く、イギリス企業はこれらの企業の下請製造会社だったのです。

 電力事業の面でもそうです。1890年代の半ばまでには,イギリスにおいても電力事業が形成されました。そして、電灯、工業用動力、鉄道などの電化需要の増大によって、着実に発展しました。しかし、アメリカとの比較では、イギリスの電力産業は、顕著に遅れていました。

 イギリスは、第二次大戦後になっても、蒸気機関の時代の技術体系から完全には抜け出せませんでした。

 電気機関車になっても、釜焚き手の同乗が義務づけられていました。これは、釜焚き手の労働組合が強かったからです。そして、技術の変化に抵抗したのです。

 それに対して、ドイツやアメリカは、電気の時代の技術体系に早くから適合しました。

 つまり、ドイツやアメリカは、イギリスを飛び越えたということができます。これは、「リープフロッグ」に他なりません。

(連載第33回)
★第34回を読む。

■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。

▼月額900円で『文藝春秋』最新号のコンテンツや過去記事アーカイブ、オリジナル記事が読み放題!『文藝春秋digital』の購読はこちらから!

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
note.user.nickname || note.user.urlname

記事へのご意見・ご感想をお待ちしています。「#みんなの文藝春秋」をつけてご自身のnoteにお書きください。編集部がマガジンにピックアップします。皆さんの投稿、お待ちしています!

ありがとうございます!
14
シェアしたくなる教養メディア。100年近くの歴史がある総合月刊誌「文藝春秋」が、あなたの人生を豊かに彩るコンテンツを毎日お届けします。

こちらでもピックアップされています

文藝春秋digitalオリジナル無料連載
文藝春秋digitalオリジナル無料連載
  • 333本

“文藝春秋の顔”というべき筆者たちによる「文藝春秋 digital」オリジナル無料連載をまとめました。三浦瑠麗、門井慶喜、中野信子、出口治明、森功、辻田真佐憲、野口悠紀雄、西寺郷太、麻生幾の各氏が交代で執筆します。

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。