中森明菜「自殺未遂と金屏風会見の怪」(3) 西﨑伸彦
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中森明菜「自殺未遂と金屏風会見の怪」(3) 西﨑伸彦

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自殺未遂騒動の収拾に乗り出したのはジャニーズ事務所だった。/文・西﨑伸彦(ジャーナリスト)

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「メリーさんは怒り心頭で」

中森明菜が、六本木の近藤真彦のマンションで自殺を図ったのは1989年7月11日のことだった。

仕事を終えて自宅に戻った近藤が、浴室で血を流して倒れている明菜を発見し、119番通報。左ひじの内側をカミソリで真一文字に切った明菜は慈恵医大病院に運ばれ、6時間に及ぶ緊急手術が施された。

2日後に明菜は24歳の誕生日を、そして近藤は8日後に25歳の誕生日を迎える目前だった。

騒ぎが広がるなか、近藤が所属するジャニーズ事務所の副社長(当時)メリー喜多川は、ある男の行方を捜していた。

近藤の初期のヒット曲を手掛けたRVCレコードの元担当ディレクターで、メリーが最も信頼を寄せていた小杉理宇造である。

小杉はRVCから独立し、当時は明菜が所属するレコード会社、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック)と同じグループ傘下にあるレーベル、アルファ・ムーンの代表を務めていた。メリーは事態の収束には小杉の力が必要だと考えていた。

小杉は滞在先の香港で、明菜の自殺未遂の一報を聞いた。妻からの電話でメリーが自分を探していることを知り、「すぐに帰って来て欲しい」という伝言を受けとった。

ここから事態はマスコミの眼を避け、水面下で動き始めていく。

メリーは帰国した小杉を、明菜の所属事務所、研音の創業者である野崎俊夫会長とワーナーの山本徳源社長との会合の場に呼んだという。

ジャニーズ事務所関係者が明かす。「業界の大物2人を前にメリーさんは怒り心頭の様子で、『大の大人が2人もいて、だらしがないのよ』と、面罵したそうです。実は入院していた明菜さんに面会できたのは基本的には家族だけでした。明菜さんは6人きょうだいの5番目、3女ですが、両親やきょうだいだけでなく小学生の姪っ子などもお見舞いに来ていました。しかし、肝心の研音とワーナーは誰一人病室に入ることを許されず、お見舞いの花すら明菜さんが捨ててしまう状態でした。両社のトップも成す術がなく、弱り果てていたのです」

メリー氏

メリー喜多川氏

宙に浮いた巨額の入院費

明菜は警察の調べに対し、自殺の原因について、近藤には言及せず、研音への不満を口にしていたという。それは近藤に累が及ばないよう、最後の砦を必死に守っているようでもあった。

彼女は近藤の言葉しか信用しておらず、彼の名代として病院に駆け付けたメリーに全幅の信頼を寄せているようだった。

メリーは、その後の対応を小杉に任せ、研音の野崎会長とワーナーの山本社長に、「この人が綺麗にしますから」と告げた。

約1カ月の入院生活の後、明菜はマスコミの目を盗んで退院し、小杉の自宅に身を寄せたという。小杉は自宅を自由に明菜に使わせて、心身ともに傷んだ彼女の回復を待ち、彼女と研音側とを引き合わせた。

自殺未遂から約2カ月の時が過ぎようとしていた。

その間、明菜を取り巻く環境はガラリと変わっていた。この面談は、明菜にとって事実上の研音との決別の儀式だった。

「自殺未遂当初は『明菜の帰るところは研音しかない』と言っていた野崎会長も、彼女が研音を悪し様に言っていると聞き、難色を示すようになった。他の所属タレントの手前、言いたい放題の明菜を、諸手を挙げて迎え入れると、示しがつかなくなると思ったのです」(研音関係者)

研音側は、明菜が特別待遇で入院していた慈恵医大の入院費の支払いも拒否した。1000万円超の入院費は宙に浮いたまま誰も支払おうとはせず、請求書は1年以上も放置された。

1982年のデビュー以来、明菜は研音の稼ぎ頭として八面六臂の活躍をみせたが、デビュー2年目には両者に不協和音が生じていた。

「その頃、ワーナーの役員が独立して新しいレコード会社『ハミングバード』を設立する動きがありました。ワーナーの制作や宣伝、営業からも人材を引き抜き、新会社設立に向け動き始めるなかで、移籍組の幹部が研音の野崎会長に挨拶に行くと、『辞めるなら、明菜を連れて行ってくれないか』と打診されたのです。彼女はデビュー前から物をはっきり言う子でしたが、『少女A』『セカンド・ラブ』のヒットでますます扱いが難しくなった。『このままではダメだ。環境を変えなければ』という危機感が研音の上層部にはあったのです」(ワーナーの元社員)

明菜移籍の噂が広まり、彼女の当時の担当ディレクターだった島田雄三も辞表を提出して、移籍に傾いていた。しかし、明菜は家族とも相談のうえでワーナーに残った。そして島田も移籍を撤回し、ワーナーに戻ることになった。

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中森明菜(デビュー当時)

家族と事務所に対する不信

ただ、すべてが元通りというわけにはいかなかった。その後、研音と明菜とは、彼女の家族を巡る問題で埋めがたい溝ができてしまうのだ。明菜は、デビュー当初、金銭の管理をすべて実家がある東京都清瀬市の家族に委ねていた。

彼女は自著「本気だよ 菜の詩・17歳」(小学館)でこう述べている。

〈私のお給料はみんな清瀬のほうへ送ってもらっています。私って子供のころからあまり物をほしがらない子だったし、お金って、服を買ったり日常生活で最低限必要なものを買うくらいで、ほとんど使わないんです。だから清瀬のほうで貯めてくれているみたいね。でも、おいといてもしょうがないから、家族が使えばそれでいいと思っている〉

研音の野崎会長や社長の花見あきらは何度も明菜の実家に通い、家族との関係構築に努めた。

84年に明菜の母、千恵子が清瀬駅前にレストラン&バーを開業した際には、開業資金の援助も買って出た。「(歌手志望だった)母親のために歌手になった」と公言して憚らなかった明菜にとって、母親の喜ぶ姿は、何よりも励みになっていたに違いない。

87年、明菜は清瀬の実家から近い東武東上線沿線の駅近くに賃貸マンションと店舗が入る3階建てのビルを建設した。「大明華ビル」と名付けられたそのビルは、父、明男が先祖から相続した土地に、明菜が約1億円を銀行から借り入れて建てたものだ。そこには精肉店を営んでいた父親が経営する中華料理店や6人きょうだいの長姉や次兄が経営する店も入っていたが、父親の店以外は1年以内に閉店に追い込まれた。

家族のために良かれと思ってやったことだが、次第に彼女のなかでは家族への違和感が芽生え始めていた。この頃、最愛の母には癌がみつかり、3度の手術を経た後も体調が戻らず、深刻な影を落としてもいた。

当時の明菜は、17歳の“何も欲しがらない”彼女とは、まるで正反対の人生を歩んでいた。80年代半ばからセルフプロデュースの道を選ぶようになると、お金に糸目をつけず、ブティックに行けば、棚の端から端までを指差して、「全部下さい」と棚ごと買い上げることも珍しくなかった。大量の衣装を保管する倉庫代やクリーニング代は嵩んだが、明菜はその尻拭いに追われていた研音の献身には無関心だった。

やがて明菜は、研音が自分をコントロールするために家族にこっそりお金を渡し、懐柔しようとしていると思い込み、研音と家族への不信感を募らせるようになっていく。

父が明かす「マッチとの結婚」

彼女は、交際中の近藤を何度も清瀬の実家に連れて行き、家族にも会わせていたが、いつしか足も遠のいていた。明菜の父、明男が明かす。

「マッチは何回も家に来たことがありますよ。2人で車に乗って来て、離れた場所にある駐車場に停め、そこに明菜の兄が車で迎えに行くんです。私は明菜がマッチと結婚すると思っていたのに。明菜は私たちが、自分のお金を使い込んだかのように思っていますが、誤解されるようなことは何もないです。お金をせびったことも一度もないですから」

明菜の自殺未遂の後、家族は彼女の病室に駆け付けた。しかし、家族の口から研音の立場を気遣うような発言を聞き、明菜の心はさらに家族から離れていったのだ。

所属事務所、家族とも距離ができた彼女を、芸能界に復帰させる動きが水面下で始まっていた。

それを誰よりも望んでいたのは、彼女の自殺未遂の煽りを食った近藤であり、ジャニーズ事務所だった。

「明菜は近藤との約5年の交際期間の間、89年の自殺未遂の前にも睡眠薬を飲んだり、カミソリを持ち出したりして自殺を図ったことが複数回あったと聞いています。ちょっとした諍いが原因だったようですが、それは彼女が絶頂期を迎えていた85年から始まっています。いつまでもマスコミに追われて逃げ続けている訳にもいかないし、彼女にはまた自殺を図ってしまう恐れもあった。お詫びの会見をやって線を引き、再起を期すためには、まず所属事務所を整える必要がありました」(前出・ジャニーズ事務所関係者)

メリーから事態の収拾を頼まれた小杉は、かつてRVC時代に宣伝にいた男に白羽の矢を立てた。

彼は原宿のショップで働いていたところを小杉から誘われてRVCの宣伝マンとして入社。小杉が代表を務める音楽プロダクションでも働き、弟分的な存在だった。ただ、マネジメント経験が豊富だった訳ではない。

新事務所は「コレクション」と名付けられ、社長には、件の小杉の弟分が就任。取締役には明菜やワーナーの山本社長も名を連ねており、資本金3000万円の大半はワーナーが用立てた。

明菜は小杉のサポートを期待していたが、小杉は役員には入らなかった。その後ろに控えていたメリーは、あくまでもジャニーズ事務所の副社長として、窮地に追い込まれた近藤の芸能活動を守ることを最優先に考えて動いた。ただ、百戦錬磨のメリーが、明菜のマネジメントを経験の浅い人物に委ねればどうなるのか。その結末を予測できなかったはずはないだろう。

激動の80年代が、終わりを告げようとしていた89年12月、明菜の記者会見は急遽決まった。12月31日の大晦日、しかもNHKの紅白歌合戦が放映されている夜10時に設定され、その様子はテレビ朝日が生中継することになった。

芸能史に残る“金屏風会見”だ。

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1989年末の金屛風会見

金屏風を用意したのは誰?

中継を担ったテレビ朝日は当時制作三部長で、音楽班を仕切っていたすめらぎ達也が陣頭指揮をとった。皇はテレビ朝日の実力者として知られていたが、今年3月に逝去。この金屏風会見については、生前に「私がメリーと話をして決めた」と語っていた。

事情を知るテレ朝関係者が明かす。

「大晦日の夜10時の枠は、ジャーナリストの田原総一朗の討論番組が予定されており、編成に話を通して、そこに押し込んだ形でした。もちろんスポンサーもいる訳ですから、中森明菜が出席する謝罪会見である旨は伝えてありました。責任者の皇は、年末年始をハワイで過ごすのが慣例で、『あれこれ詮索されないよう当日はハワイに行く』と言って、実際の作業は現場に委ねていました。会見の前日、担当者は朝方の3時頃まで明菜と一緒にいたと聞いています。明菜が本当に来てくれるのか、それだけが不安だったのです」

当日、会見場の新高輪プリンスホテルで、報道陣の前に姿を現した明菜は、ロングヘアをバッサリと切り、地味なグレーのスーツ姿だった。

彼女は「私が仕事をしていく上で、一番信頼していかなくてはならない人たちを信頼できなくなってしまった」と自殺未遂の理由を説明。近藤の自宅で自殺を図ったことについては「今になっても、なんて愚かな、なんてバカなことをしたのか」と後悔を口にした。

「彼女と近藤は、自殺未遂の後、すでに男と女の関係は終わっていました。彼女はすべて納得したうえで会見を開くことを受け入れていました。会見場に金屏風が用意されていたため、婚約会見を開くという甘言に乗せられて彼女が会見に臨んだかのような報道もありましたが、金屏風は事情を知らないホテル側が、記者会見と聞いて用意したに過ぎません」(前出・テレ朝関係者)

後年、明菜は金屏風会見について聞かれると、「あんなことになるとは思っていなかった」と語っている。それは騙し討ちにあって会見の場に引っ張り出されたという意味ではない。芸能活動再開のきっかけになるはずだった金屏風会見は、結果的に彼女を表舞台から遠ざけ、さらに彼女の復活に期待していた人たちも遠ざけてしまったのだ。

消えた7600万円の行方

誤算は近藤側も同じだった。会見当日、メリーは所属タレントの付き添いで、NHKホールの紅白歌合戦の現場にいた。会見とは無関係を装っていたものの、世間の批判は凄まじく、近藤の人気が好転することもなかった。

それどころか、近藤が明菜から「将来2人が住むマンションの費用」という名目で、多額の金銭を貢いで貰っていたとマスコミは書き立てた。近藤側は「マネージャーがやったこと」と責任転嫁を図り、マスコミもその言い訳を鵜呑みにしたが、それは事実とは大きくかけ離れていた。

明菜の元側近が明かす。

「明菜から近藤にお金が渡り、それを近藤のマネージャーが持ち逃げし、その後も返済されていないという話でした。振り込み明細を確認すると、7600万円が確かに近藤に支払われていました」

果たして、その7600万円はどこに消えたのか。

近藤の元マネージャーが語った

近藤のマネージャーはその後、ジャニーズ事務所を辞め、しばらく芸能界から姿を消した後、芸能界のドンと呼ばれる大物の運転手となり、芸能プロの代表を務めている。

その近藤の元マネージャーが重い口を開く。

「私は16歳の時にジャニーズ事務所に入り、田原俊彦、近藤真彦、少年隊などのマネージャーを務めました。20年の区切りで、一旦芸能界を離れようとジャニーズ事務所を辞めたのですが、その後、私がお金を持ち逃げしたという噂を聞きました。真実は一つ、分かってくれている人は分かってくれていると思ったのですが、芸能界に戻った後、その話を持ち出し、『申し訳ないけど、一緒に仕事をやり辛いよ』と露骨に言う人もいて、影響がありました。私はそんなお金は一切知りません。私がジャニーズ事務所を辞めたのは、明菜さんの自殺未遂の後だったので、全部私に被せたのでしょうか。ただ、明菜さんのお金のことをストレートに聞かれたのは今回が初めてです。これまで、マスコミの誰一人として私に聞きに来た人はいませんでした」

金屏風会見は、当事者である明菜や近藤だけでなく、周囲の人の人生をも狂わせていた。だが、お金の問題は、それとは別だ。

仮に、明菜本人が、この7600万円を本当に近藤に騙し取られたと思っていたのなら、正当な権利を行使し、返金を請求すればいい。しかし、明菜がそれを求めた形跡はない。彼女を取り巻く人たちが近藤の仕打ちに腹を立て、騒ぎ立てていたに過ぎない。たとえ近藤が不誠実だったとしても、すでにこの問題は彼女のなかでは解決していたのだろう。

明菜は一連の騒動を経て、前にも増して、人を敵と味方で判断するようになった。彼女は一度敵とみなすと、それが間違った判断だったとしても、決して評価を変えなかった。

90年に入り、彼女は、スローペースながら5月からニューヨークでレコーディングに入り、7月には新曲を発表。8月にはフランスのニースからの生中継で「夜のヒットスタジオSUPER」に出演し、自殺未遂以来、初めて歌番組に生出演を果たした。

彼女の新事務所であるコレクションは、何とか船出したものの、社長は明菜が自殺未遂した時の入院費の請求書を手に、研音と押し付け合いを始めるなど、いくつもの難題に頭を抱えていた。そのうち、明菜本人ともなかなか連絡が取れない状態が続き、早くも迷走を始めた。

当時の彼女にとって、唯一頼りになる存在は、デビュー以来の所属レコード会社であるワーナーだった。

だが、この頃、明菜はワーナー側の長年の“裏切り”を知り、築き上げた絆も風前の灯になっていた。

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近藤真彦(左)と中森明菜(右)

スタッフの“裏切り”

それは、彼女がまだ10代の頃から、ワーナー内部で根強く囁かれていた噂だった。

デビュー2年目に彼女が出した4枚目のシングル「1/2の神話」。そのB面に「温り」という曲がある。ファンの間では隠れた名曲として人気の高い、ボサノヴァ調の作品だ。

作詞、作曲を担当したのは「井上あづさ」なる人物で、他の明菜作品にも、他のアーチストにも楽曲を提供した痕跡はなく、長らく、その正体は謎だった。

「実は、この曲を書いたのは、明菜が信頼を寄せていたワーナーのスタッフの一人です。女性名ですが、実際には男性で、明菜とはデビューから3年ほど仕事を共にしていました。彼は外部の音楽出版会社と連携し、版権の管理を任せており、ワーナーの上層部は、その報告を受けていませんでした」(ワーナー元幹部)

83年2月、77万枚を売り上げ、明菜最大のヒットとなった「セカンド・ラブ」に続いて発売された「1/2の神話」は、TBSの「ザ・ベストテン」で7週連続1位を記録。57万枚を超える売り上げを達成している。

当時、シングルレコードは1枚700円。A面の曲がヒットすれば、当然B面も同じだけ売れる。単純に計算すれば、B面の印税が180円を超えれば、1億円を超える金を生むことになる。

「当時の編成会議は、A面に何を持って来るかが主眼で、スタッフからは、『このB面の曲はタッチが軽いですが、それでA面を光らせたい』といった提案が多く、上層部もあまりB面まで細かくチェックしていなかった。ただ、『セカンド・ラブ』のヒットで、次のシングルも当然50万枚を超えるようなヒット曲になることは容易に想像ができた。そこに上手く滑り込ませたのでしょう。彼はこの一件だけではなく、他にも明菜にペンネームで曲を提供し印税を手にしていた。ペンネームで楽曲を作っても、歌手本人や会社に公にし、了解を得ていれば話は別ですが、誰も知らされていない。これは犯罪的な行為であり、この業界ではご法度です」(同前)

3年もの間、信頼していたスタッフが、実は明菜を裏切る形で金儲けに走っていた事実は、衝撃だ。

名指しされた元ワーナーのスタッフに聞いた。

「井上あづさ? 昔のことで私も記憶が定かではないですが、どうだったかな。ただ、私がペンネームを何個か使い、曲を書いたことは間違いない。明菜に『私の曲だよ』と言ったことはないです。あまりそういうことを尋ねる子ではなかったし、私は彼女とは仕事を通じて信頼関係がありましたから。他のレコード会社の人に聞くと、ペンネームで楽曲を提供した経験がある人は数多くいましたし、この業界では珍しいことではありません。後ろめたさを感じている人はいなかった。金銭的にどうのということではなく、とにかく当時はメチャクチャ忙しかった。この件で、私がワーナーの上層部に咎められたこともないし、職権乱用みたいな話でもないです」

その語り口は至って冷静で、罪の意識は感じられなかった。しかし、10代の彼女を“金のなる木”とみなし、表と裏の顔を使い分けて接することが、繊細な彼女をどれだけ傷つけるのか。そこに思いを馳せられないのなら、信頼関係などという言葉を軽々に使うべきではないだろう。

誰も明菜を止められない

明菜にとって80年代の数々のヒット曲を共に世に送り出したパートナーのワーナーもまた、彼女とは決別するしかなかった。

91年3月、彼女がワーナー時代に最後にリリースしたシングル「二人静」は、松田聖子の楽曲を数多く作詞した松本隆が初めて明菜に書いた曲として知られる。しかし、この曲はワーナーではなく、ライバル社のビクターに所属するディレクターが制作を担当している。この時、すでにワーナーは明菜の信頼を完全に失っていたのだ。

そして同じ頃、彼女の事務所であるコレクションもまた、終焉の時を迎えていた。

ジャニーズ事務所のメリーの意を受け、小杉が抜擢した社長は、91年6月に辞任。明菜のマネジメントは宙に浮き、誰も彼女をコントロールできない状態に陥った。

コレクションの元社長は、明菜の新たなビジネス展開をビクターの関係者と模索し始めていた。

彼らは、ビクターが90年に合弁会社として設立したMCAビクターに明菜を移籍させることを画策。すでに新しい事務所も用意していた。91年9月に設立された「コンティニュー」という会社で、代表にはコレクションの元社長の友人であるテレビ局関係者が就任していた。

そこに実務を担う人材として招聘されたのが、明菜と面識のあったビクターの元社員、栃内克彦だった。コレクションの元社長は栃内を呼び出し、彼にディスカウントチケットを差し出して、こう告げた。

「栃内さん、ニューヨークにいる明菜のところに行って来て欲しい」

実印とサインを偽装された

栃内が現地を訪れると、ようやく掴まえた明菜は思いのほか元気だった。彼女は「ところで、今回は何の用?」と尋ね、栃内が「MCAビクターに移籍して第一弾の打ち合わせに来たんだ」と打ち明けると、彼女は驚いた表情をみせた。

「何それ? そんな話聞いてないよ」

栃内は一旦帰国し、弁護士事務所で契約書の写しを受け取り、再びニューヨークに飛んだ。栃内が語る。

「彼女に契約書を見せると、『その実印もサインも私のじゃない』と。何者かによって偽装されたというのです。私は返す言葉がなく、絶望的な気持ちになりました」

2人は日本に帰国し、契約書を整えたあと、栃内はコンティニューの後任社長に正式に就任する。業界の重鎮たちから「明菜は芸能界の宝だから、助けてやってくれ」と言われたことも、社長を引き受けた理由の一つだった。

ところが、いざ蓋を開けると、会社の口座はほぼ空っぽの状態で、ビクター側から振り込まれたはずの約5000万円もどこかに消えていた。

「冬の時代」の始まりだった。

(文中敬称略、以下次号)

文藝春秋2021年11月号|短期集中連載(3)「消えた歌姫とバブルの時代」

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