観月_修正

小説「観月 KANGETSU」#17 麻生幾

第17話

ガス橋殺人事件(1)

★前回の話はこちら
※本連載は第17話です。最初から読む方はこちら。

10月5日 東京

 まだ夜が明けきっていない空気を胸一杯に吸い込みながら久保田翔太(くぼたしょうた)が言った。

「10月にしては寒いな」

「これくらいがちょうどいいじゃん」

 ジョギング姿で併走する妻の美智(みち)が応えた。

「やっぱり、明日は、空が白んでからにしない?」

 夫が言った。

「ダメよ、そんな時間じゃ。この道、朝早くから、チャリ(自転車)で混むんだから」

 そう言って妻は、多摩川に沿って真っ直ぐに伸びる土手道を指さした。

「そうかな……」

 残念そうにそう言った久保田は美智と共に、東京方面に渡ろうとして、土手道からガス橋に足をむけた、その直後のことだった。ガス橋とは、多摩川河口から約10キロの位置にあり、東京都大田区から神奈川県川崎市中原区に架けられた橋で、昔、ここを使って都市ガスが供給されたことからそう名付けられた。

「あれ、何?」

 久保田がガス橋から下の緑地帯へ手を伸ばした。

「誰か倒れてる?……」

 スポーツメーカーのロゴが描かれた白いキャップのひさしを上げた美智の目に入ったのは、黒っぽいジャンパーを着て、ベージュ色のズボンを穿いた男性が仰向けで芝生の上に寝転んでいる姿だった。

「体操でもやってんじゃないの」

 久保田が首を竦めた。

「違うよ……あれ……」

 美智は土手の坂を急いで駆け下りて行った。

「ちょっと待てよ」

 久保田が慌てて妻の後を追った。

 男に辿り着いた美智の目が釘付けとなったのは、男の上半身に広がっている赤黒い血の塊だった。

「こ、こ、これ……た、た、大変よ……」

 美智は腰を抜かしてへたり込んだ。  

 その後ろで、大きく口を開けたままの久保田が立ち尽くした。

 しかし放心状態の二人は、男の首元に貼られている白い紙に気づくことはなかった。

 土手道に張られた規制ロープをかいくぐった、警視庁本部捜査第1課殺人犯捜査係主任、萩原翼(はぎわらつばさ)警部補は、白い手袋を指に嵌(は)めながら一気に現場まで駆け出した。

 すでに周囲では、所轄署の署員や鑑識員たち十数人が現場の鑑識や遺留品捜査を始めていた。

「ごくろうさまです」

 緑色の通行帯を慎重に歩いて来た萩原の威勢のいい声に、庶務担当管理官の井村(いむら)が振り向いた。

「ごくろうさん、早かったな」

「ちょうどジョギング中だったんですぐに飛び出せました」

 白い息を吐き出しながら滑舌良く応えた萩原は、鑑識員の許しを得てから芝生の上に足を踏み出し、白いロープで形づくられた被害者の痕跡に一度合掌した上でその傍らにしゃがみ込んだ。

「殺しですか?」

 立ち上がった萩原が緊迫した声で訊いた。

 大きく頷いてから井村が口を開いた。

「死因は恐らく心臓からの失血死。凶器が見つからないことから、ついさっきそう判断して課長に伝えた。池上署に、帳場(捜査本部)を立てる」

 頷いた萩原は辺りを見渡した。

 夜が明けた街はすでに人々の生活が始まっていた。

 東京側の土手道は車道となっており、交通渋滞が始まっていて、その歩道には慌ただしく駅へと向かう男女の姿も見える。

「マルガイ(被害者)の人定は?」

 萩原が井村を振り返った。

「免許証を携帯しており、そこから、近くに住む、無職、真田和彦(さなだかずひこ)、69歳――」

「69歳……」

 萩原は意味もなく繰り返した。

(続く)
★第18話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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