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無心になること 中野信子「脳と美意識」

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※本連載は第13回です。最初から読む方はこちら。

 生のピアノの音が好きで、しばしばサロンに弾きにいかせてもらっている。1時間で約2000円。一人でカラオケに行くよりはやや値が張るが、リラクセーションマッサージよりは安い、という感じだろうか。今は時節柄難しいので、自宅の電子ピアノを弾くのだけれど。

 鍵盤の上で手を動かすことと、音に耳を澄ませることとに集中していると、奥のほうに固く凝ったストレスの塊が少しずつ気化して、心が軽くなっていくような感じがする。人間にとっては考えずに無心でいられる時間というのは必要で、こうして手を動かして思考から解放されることがとても大切なことなのかもしれないなといつもしみじみと思う。

 もちろん、そこで糧を得ている、プロのピアニストであれば、仕事としてのストレスが生じるものだろうとは思う。しかし私はプロではなく、ただ自分の楽しみのためだけに弾くのだから、気楽なものだ。以前、ある若い音楽家の女性に、時々ひとりで弾きに行くんですよ、というお話をしたとき、何を弾かれるんですか? と尋ねられ、続いて、ショパンやドビュッシーを弾いていそうな感じがします、と言い当てられたのにはびっくりした。さっと弾くのに私のような素人がとっつきやすいというのもあるけれど、それでもぴたりと当てたのには驚いた。音楽家ならではの勘といったものがやはりあるのだろうか。

 自分で意識しているより私はずっとストレスを感じやすい。心よりも先に身体がやられてしまう。頭痛には常に悩まされているし、胃も痛む。緊張も強くて、肩や背中の筋肉がすぐに固くなってしまう。心理的な影響が身体に出やすい。たとえば他者の間違い探しに夢中で、アラを見つけたとなれば飛びつくようにその相手を攻撃し始めるような人を目の当たりにすると、ことによってはそれだけで不調が出てしまうこともある。もっと鷹揚にして、人の間違いは楽しいハプニングとして面白がればよいのにと思うけれど、社会性を人間が持っている以上、そうもいかない。

 不快な相手とずっと一緒にいなければならないときはもっとひどい。気分が無意識のなかに澱のように溜まっていって、蕁麻疹が出てしまったりする。急に高熱が出て動けなくなってしまうこともある。こんなときは世界がとても遠く感じられ、なぜ自分はこうなのかと呪いたいような気持にもなり、虚ろな意識のままじっと家で休んでいることになる。まあ、家は嫌いではないし、寝続けていることそのものはそう苦痛ではないとはいえ、発疹は痕になってしまうし、高熱が出るのはもうただただつらい。

 さて、論理的には「何かが間違っている」というとき、そこには大きく三つの可能性がある。①対象に原因がある、②自分のものさしが間違っている、③その両方。ほとんどの人が、自分のものさしが間違っているとは考えないようで、これはなかなか面白い現象だ。

 ある一つの事物について、異なる分析をした人間同士が、大人げなく争う姿を見かけることは、稀ではない。そんな刺々しい場面を見るにつけ、ああ、人間は間違い探しが大好きで、他者の間違いを正すことに興奮と快楽を求める生物なんだな、と苦いものを飲み込むような感覚を味わわされてしまう。そんな火花が好きな人も、中にはいるのだろうけれど。私もそれくらいの強靭さと、感情の体力を持ちたいものだ。

 人間社会に生きることは、時にそれ自体が戦いだ。生きている限り、思考そのものを、意識的に断ち切ることは難しい。一人で口をつぐんで思考を重ね、その淵に沈んでいってしまうとき、再び水面に浮上することを助けてくれるものを見つけるのも難しい。あらかじめ用意しておかないと、底なしに深みにはまっていってしまう。闇を払い、深みから抜け出すために、私は無心になって手を動かす。自分にとって、美しい音を奏でる、というのは、そういう意味を持っている。

(連載第13回)
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■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。
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