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#塩野七生

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塩野七生 帰国中に感じたこと 日本人へ237

 平和が人類にとって最高の目標でありつづけているのは、平和だけが庶民にとって、身の安全を保障してくれる唯一の道だからである。この平和が、プーチンによって破られた。それに刺激されてか、世界中で腕力が幅を利かせ始めたよう。となると、一私人にやれることは、今の自分でも可能なこと、だけになる。というわけで、歌舞伎座で始まったばかりの団十郎襲名披露公演を観に行ったのだった。

塩野七生 プラトニック・ラヴ、再考 日本人へ236

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塩野七生 プラトニック・ラヴ、ただしホンモノの 日本人へ235

 この種のエロス(愛)は、なにも芥川龍之介を待たねばならなかったわけではない。ほんとうの愛とは、その人の前では自らの感情に正直になれる心理でもあるから、同性の間に限らず、感性が共有できさえすれば、異性間でも成り立つはずだ。

塩野七生 龍之介・再び 日本人へ234

 前号で約束したように今回は、成績最優秀とて卒業式も待たずに松江の実家に帰っていた恒藤恭に送った、芥川の手紙を紹介する。自作となれば自己制御という名の努力は忘れないのが作家だが、私信ではそんなことは忘れる。それにこれは、まだ作家にもなっていない二十一歳が書いた私的な手紙。省略は抑えて、なるべく全文を紹介したい。

塩野七生 芥川の場合 日本人へ233

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塩野七生 漱石の場合 日本人へ232

『満韓ところどころ』とは漱石の軽いエッセイで、だから眠る前の読書には最適と手にとったのだが、これが大いなるまちがいであった。読み始めるや笑い出し、安らかに眠りにつくどころではない。だがこれくらい、漱石が貧乏書生であった頃からの親友の中村是公(ぜこう)が、四十代というオトナの年頃になってもどんな男であったかを活写したものもないのだ。ちなみに、漱石は是公と、是公は金ちゃんと呼び合っていた二人は同じ年の生れだが、東京っ子の金ちゃんに対して是公のほうは広島の産。冒頭からして次のように

塩野七生 鷗外の場合 日本人へ231

六十歳で死の床にあった森鴎外の遺言を代筆したのは、遺書にも「一切秘密無ク交際シタル友」と書かれた賀古鶴所(かこつるど)である。私のような鴎外好みではなくてもこれを読んだ人ならば、賀古とはどんな男だったのかと思うにちがいない。鴎外とは、外面的にはともかく心の奥底では、けっこうむずかしい人ではあったのだから。なぜその鴎外と四十五年もの歳月、いっさい秘密なき友人でいられたのか。 賀古鶴所は、時代が明治に変る十三年前の安政二年に、遠江浜松藩の藩医の長男に生れた。津和野藩の典医の家に

塩野七生 全寮生活の効用 日本人へ230

文・塩野七生(しおのななみ) 幕末とそれにつづく明治の時代に生きていたら、さぞかし面白かったろう、と思う。男たちは、また女でさえも、脱皮という名の成長をつづけていかざるをえない時代であったのだから。1862年、藩主の父久光の行列の前を乗馬姿の英国人数名が横切ったのに激昂した従者たちが1人を斬殺し2人を傷つけた、世にいう生麦事件が起る。これには英国側も激昂し、翌年早くも英国艦隊は薩摩湾内に入ってきて、藩側が手も足も出せないでいる前で、湾内の防衛施設に徹底的な砲撃を与えた後で引

塩野七生 ユーモアがない人 日本人へ229

文・塩野七生(作家・在イタリア) 明治20(1887)年、『浮雲』の刊行が始った。著者の二葉亭四迷はいまだ23歳。はしがきで堂々と、言文一致を宣言してのスタートである。 同じ頃、25歳の鴎外はドイツに留学中。20歳の露伴は定職を放棄して帰京したものの、処女作すらない時期。漱石や紅葉に至っては、一高在学中の身。ゆえに江戸文学を脱して新しく明治の文学を創造するとした二葉亭の仕事は、かかげた目標といい、実践する当人の年頃といい、発表の舞台といい、これ以上はない状況でのスタートで

塩野七生 『金色夜叉』再び 日本人へ228

文・塩野七生(作家・在イタリア) 2作目になる『チェーザレ・ボルジア』を準備中の頃だからずいぶんと昔の話になるが、映画監督のヴィスコンティに質問したことがある。「あなたは自作の主人公を常にとびきりの美男美女に演じさせますがなぜ?」。『夏の嵐』の作者は、いつもの静かな口調で答えてくれた。 「ドラマは悲劇と喜劇に分れる。喜劇(コメーデイア)ではどこにも居そうな人々の話だから、言ってみれば平面上で展開する世界。一方、悲劇(トラジエデイア)の起源は、きみも知っているように古代のギ

塩野七生 「金色夜叉」を読む 日本人へ227

文・塩野七生(作家・在イタリア) 夏目漱石は1867年の生れだが、尾崎紅葉もその1年後に生れている。2人とも、いまだ江戸の空気の濃く漂う東京の生れ。そして2人とも、開校したばかりの東京府立一中に学び、その後は大学予備門、まもなく一高と変わるが、そこで英語をたたきこまれたことでも似ている。その後に進む大学では漱石は英文科で、紅葉は国文科とちがうが、2人とも原語で英文学を読めたことでも同じ。つまり、府立一中→一高→東大というエリート・コースを進んだことでは、2人ともまったく同じ

塩野七生 東京っ子の心意気 日本人へ226

文・塩野七生(作家・在イタリア) いかに漱石でもこのような想いは、親しい仲の鈴木三重吉にだけ書いている。 「死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい。それでないと何だか、難をすてて易につき、劇を厭ふて閑に走る、所謂腰抜文学者の様な気がしてならん」 これにはおおいに共感したので書き写して仕事場の壁に張りつけたのだが、漱石先生ちょっと大ゲサでは、とは思ったのだった。 しかし、大久保利通について少しばかり書いた今、大ゲサとは思わな

塩野七生 大久保家の写真を拡大して見たら 日本人へ225

文・塩野七生(作家・在イタリア) すでに2カ月になろうとしているが、ヨーロッパのテレビは連日、侵攻してきたロシアに対するウクライナの防戦のニュースで埋めつくされている。ウクライナとは国境を接していないイタリアでさえ、逃げてきた難民は10万を超える勢い。ほとんどが女子供と老人なのは、男たちは祖国防衛に残っているからだという。まるで大熊が小羊に襲いかかっているようだが、これは地上での話。地下で別の話が展開中。 ロシアからはヨーロッパ諸国に向けて何本ものガス管が通っている。ヨー