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【連載】EXILEになれなくて #18|小林直己

第三幕 「三代目 J SOUL BROTHERS」という運命


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五場 J SOUL BROTHERSの歴史〈1991 - 2008〉

 1999年、EXILE HIROを中心に、EXILE 松本利夫、EXILE ÜSA
、EXILE MAKIDAIを擁するダンス・アンド・ボーカルグループ、J Soul Brothers(以降、初代)が結成された。ボーカルをダンサーが囲うフォーメーションで、ダンサブルな楽曲をパフォーマンスし、歌と音楽だけでなく、視覚でも観ている人に楽曲の世界観を届けていくオリジナルスタイルは、初代の時点ですでに確立していた。これは世界中の音楽シーンを見てもレアな形態であり、ダンサーをメンバーの一員としながら、この形態を保っているのは珍しかった。また、ダンサーをパフォーマーと呼び、正式メンバーとして認知させたことは、ダンサーそのものの価値をあげた革命であり、功績である。

 この流れの源は、1991年にHIROらが結成した、アメリカのビッグアーティストであるボビー・ブラウンから命名されたダンスチーム、Japanese Soul Brothers(以降、JSB)から始まる。ボビー・ブラウンのバックダンサーであり、世界的にも有名なダンスチームであったSoul Brothersの名を冠しており、ボビー・ブラウンが来日ツアーの際、クラブで見かけたHIROらのダンスに感動し、「You are a Japanese Soul Brothers!(君たちは、日本のSoul Brothersだ!)」と言ったことから名付けられたと聞き、当時ものすごく興奮したことを覚えている。

 そこに、BABY NAIL(ベイビーネイル)という、若手筆頭株のダンスチームで活動していた、MATSU、ÜSA、MAKIDAIが参加したのは、1998年のことであった。その1年後、HIROはアーティストとしてメジャーシーンへの挑戦を考え、3人を、アーティストグループとなる初代への参加を打診した。(この辺りの詳細はHIROの著作である「Bボーイサラリーマン」を参照されたい。HIRO自身の半生と、J Soul Brothersに込めた思い、また、LDHを生み出すことになった理由について書かれたこの著作は、今見ても、時代を乗りこなす上での様々なヒントがちりばめられている)

 1999年から2001年という約2年にわたる活動であったが、初代は3枚のシングルをリリースし、精力的な活動をしていた。楽曲やクリエイティブに関しても、メンバー自身からの発信で作られており、例えば、HIRO自身がElisha La’Verneというアーティストの楽曲を気に入り、調べてみるとそれは日本人のトラックメイカーが作ったものだとわかると、HIROは、直接そのクリエイター本人にコンタクトを取り、楽曲を依頼した。それが前述にもあったシングルになっていったのだ。

 そして初代は、新たな挑戦へと踏み出す。ボーカルのメンバーチェンジ、そしてグループ名の変更を経て、EXILEとしての活動を始めることになったのだ。ここで、J Soul Brothersとしての活動は一旦休止するのだが、EXILEの活動が2001年に始まった後も、2002年のEXILEの1st Albumには、初代の曲が4曲もカバーされている。また、パフォーマーパートにて、のちにEXILEパフォーマーにとって大切な振り付けになる「JB」も、初代の時代から踊られているものであり、それもEXILEに受け継がれていくことになる。

 J Soul Brothersが再び脚光を浴びるのは、2006年のことである。新生J Soul Brothers(以降、二代目)として新たなメンバーで活動する構想がHIROにより始動したのだ。「J Soul Brothersという名前にものすごい愛着があって、思い入れがあったので、いつかまた、僕らとは違う若い世代で、何かできたら良いなと思っていた」とHIROは語っていた。

 当時、EXPG(現 : EXPG STUDIO)にインストラクターとして所属していた僕は、その知らせを聞き、どうにかその情報元をたどりビデオオーディションに参加した。しかし、残念ながら「落選した」という知らせだけが届いた。

 J Soul Brothers、およびJSBという名前は、ダンサーにとっては伝説的グループであった。多くのダンサーが参加したオーディションを経て、2007年1月、二代目の始動が発表された。そして、同年8月に、EXILEアリーナツアー 「EXILE LIVE TOUR 2007”EXILE EVOLUTION”~SUMMER TIME LOVE~」東京ビッグサイト公演にて、メンバーが公開される。パフォーマーは、橘ケンチ、黒木啓司、TETSUYA。ボーカルは、EXILE TAKAHIROが輩出されたVOCAL BATTLE AUDITION~ ASIAN DREAM~の参加者であった、NESMITH、SHIOKICHIである。

 2005年12月より、EXPG東京校(現 : EXPG STUDIO TOKYO)に参加し始め、インストラクターとして関わっていた僕は、同じくインストラクターを務めていた3人とは面識があり、メンバーに決まったことを聞き、悔しかったことを覚えている。特に、お披露目があった東京ビッグサイト公演では、僕はキッズダンサーの引率として、EXILEのライブをサポートしていた。当時、キッズダンサーであったGENERATIONSの小森隼もその中に入っており、「WON’T BE LONG」のステージへの動線を案内したりしていた。二代目の発表のタイミングでは、ステージ裏からビジョンを眺めていた。隙間から見えるステージの上ではスモークがたかれ、5人がパフォーマンスを行った。「J.S.B. Is Back」と歌う彼らを、大きな声援が包み、二代目の始動は盛大に祝福された。

 その後、二代目は、COLOR(現DEEP SQUAD)の全国ツアーに帯同し、デビュー前ながらも各地で声援を集めていた。

 その頃、いつものようにEXPGでの業務を終えると、上司であるPATOさんに呼び出された。「直己、今度HIROさんから会って話したいことがあるって言われたんだけど、予定空いているかな?」。そんなことは、初めて聞かれた。「もちろんです。いつでも空いています」「わかった。そう伝えとく。……会えたら、直己の気持ちを素直に伝えるんだよ」「わかりました」。意味深なPATOさんの言葉を飲み込めずに、どこか引っかかりを感じながら、HIROとのミーティングの日を待った。

 ミーティングの日時が決まり、その日にLDHへ出かけた。今とは違って、かなり小さめのオフィスだ。ここへは、インストラクターとして、朝礼や打ち合わせで何度も来ていた。

 余裕を持って出発したせいか、予定時刻の前に会議室前に到着した。扉は閉まっており、中からボソボソと話し声が聞こえる。おとなしく待合の席に座って待っていると、数分後に中から人が出て来た。NAOTOだ。

 NAOTOとは、その随分前から面識があった。共通の先輩がおり、その先輩が「直己に会わせたい奴がいるんだ。2人は俺の中で面白い後輩なんだよね」という誘いの元、新宿にあるダンススタジオに一緒に出かけた。レッスン終わりのスタジオに入っていくと、見覚えのあるダンサーがいた。「おう、NAOTO。こいつ、紹介したかった直己って言うんだ」。細かい説明もなしに、先輩が紹介してくれた。僕は一方的にNAOTOを知っていた。年が一つしか違わないのだけれど、すでにそのころから有名アーティストのバックダンサーを数多くこなしていたNAOTOは、同じ世代でも、特に有名だった。そして、NAOTOが組んでいるダンスチーム「SCREAM」は、渋谷系ダンサーを代表する有名チームであり、ショーでは多くのファンがいるイメージだった。「どうも」「よろしく」。そんなそっけない会話をしたような気がする。

 それ以降、僕が参加している「RAG POUND」と NAOTOの「SCREAM」は、よく同じダンスイベントで顔をあわせるようになった。踊りのジャンルはかけ離れているが、NAOTOも僕らのチームに興味を持ってくれ、顔を合わすと挨拶するようになっていった。

 場所をLDHに戻そう。会議室から出て来たNAOTOは、僕を見ると驚いたような、納得したような、不思議な表情をした。「お疲れさまです」「うん、お疲れ様です。そうか、直己か」そんな言葉を二、三交わし、NAOTOは先に帰っていった。

 会議室の中に入ると、HIROが一人で座っていた。会社ですれ違ったりした時に挨拶をしたことはあるが、こうして面と向かって話すのは初めてである。心拍が自然と上昇してくるのを感じる。正面に座ると、穏やかな表情のHIROが、まっすぐこちらを見てくる。「早速なんだけれど、前に二代目のオーディションに応募してくれたよね」「はい」「その気持ちは変わってないのかな?」。まっすぐHIROの目を見て、こう告げた。「はい、アーティストになりたいです」HIROは少し笑顔になると、「二代目に、パフォーマーを2名追加しようと思っている。もしよかったら、二代目J Soul Brothersに加入してもらおうと思っているんだけど……」想像もしていない、あまりの突然の話に、金槌で頭を殴られたような、鈍い衝撃が走った。そんなことが自分の身に起きるなんて……。いきなりの質問に、頭が追いつかない。そこでふと頭に、PATOさんからの言葉が蘇る。「直己の気持ちを素直に伝えるんだよ」頭が真っ白になりながら、とにかくこう答えた。「はい、絶対にやらせていただきたいです。よろしくお願いします」

 そこから、どんな話をしたのか覚えていないが、どうやら僕は、二代目に入ることとなった。7人のお披露目まで、残り時間は2週間しか無かった。先に活動していた5人と、急いでリハーサルし、これまでのパフォーマンスを覚えることはもちろんのこと、5人のパフォーマンスを7人用に作り替えなくてはならない。そのリハーサル初日、NAOTOと再会する。「あの時、直己が会議室の前で待っていたから、『あぁ、そういうことか』と思ったよ」どうやらあの瞬間、NAOTOはもう一人の加入メンバーが僕だと気付いたようだ。僕も、一緒に加入し、これから活動していくのが、同世代で唯一憧れていたNAOTOで、不安よりもどんな面白いことができるんだろうと期待が上回っていた。リハーサルは、紆余曲折がありながらもどんどんと進行していった。色々な思いがあったはずなのに、新加入の僕らを受け入れてくれた、橘ケンチ、黒木啓司、TETSUYA、NESMITH、SHOKICHIには感謝しかない。

 2007年11月10日。Zepp Osaka(現 : Zepp Namba)にてCOLORの大阪公演があり、ここで7人の初お披露目が行われる。事前告知は全くなく、先週まで5人だった二代目が、今日からいきなり7人になる。新しく参加する僕は、試されていると感じた。絶対に、負けない。自然とそう思っていた。「1.2.5. Oh!」円陣を組んで気合い入れをして、ステージに飛び出した。一曲目のダンスナンバーを全力で踊りきり、あの時にステージ袖から見ていた楽曲「J.S.B. Is Back」を、今度はメンバーとしてパフォーマンスした。人生何が起きるかわからなものだ。計3曲のパフォーマンスはあっという間に終わり、ステージ袖で倒れこんだ。たかだか15分ほどのパッケージで全ての体力を使い切った。でも、有り余るほどの充実感と達成感に満ち溢れている。ここから、僕のLDHアーティスト人生がスタートした。

# 19 につづく

■小林直己
千葉県出身。幼少の頃より音楽に触れ、17歳からダンスをはじめる。
現在では、EXILE、三代目 J SOUL BROTHERSの2つのグループを兼任しながら、表現の幅を広げ、Netflixオリジナル映画『アースクエイクバード』に出演するなど、役者としても活動している。

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